Healing Discourse

ヒーリング随感2 第24回(最終回) ヒーリング・フォトグラフ

※[ ]内はルビ。

◎先日東京で執り行なわれた相承会の翌日、友人たちやヒーリング・ネットワーク後援者たちを伴い、川崎市・生田緑地公園内の岡本太郎美術館でヒーリング・トリップを楽しんできた。

◎まずは、清新な(雰囲)気に満ちた場所を探し、同行者たちが姿勢を正して合掌→ヒーリング意識に入り、祈りを揃える中、奉納の舞を捧げる。
 その際、写真もたくさん撮ったのだが、これまで同様、完全かつ無残な失敗に終わった。超越的な力を十全に宿して舞う私の姿は、いろんな人がチャレンジしてきたが、これまで一度としてまともに撮影されたことがない。注1)

注1:いつまでもそんなことではいけないと、数日前のことだが、妻と共に一念発願[ほつがん]。夫婦揃って斎戒沐浴の後、姿勢を極[き]め・観の目を使い、ヒーリング・アーツ式で撮る術[わざ]を妻に伝授しながら、徹夜で撮影セッションを執り行なった。
 そして、私を感じ・動かす超越作用のいくばくかを写し・撮り、写真作品として表現することに、初めて成功した! 
 それら、妻の初作品(の一部)は、末尾のスライドショーにて。 

◎ヒーリング・トリップに話を戻す。
 岡本太郎の作品とトータルに向き合うための準備として、我々巡礼者一行は、周囲の光景を活用しつつ、メドゥーサ修法を徹底的に錬っていった。
 例えば、高い木の枝を下から上へと順々に「観[み]あげ」ていき(異なる視点から視野を展開)、さらに視点を無限遠へと延伸する。
 ・・・・・と、世界は、広壮さ・空間性・生々しさを備えながら、目から身の裡へと超[ハイパー]リアリスティックに映し出されてくる。各自の口から、おおーっと、感嘆・驚嘆・賛嘆の声が低く(公共の場であるゆえ)漏れあふれた。
 聖性(純粋[エッセンシャル]な神聖さの感覚)を伴って経験されるこうした知覚変容/変性意識の状態を、宗教的にではなく、芸術的にとらえ・受け取り、人生の質そのものを美化・活性化していこうとする道、それがヒーリング・アーツだ。

◎木立に鬱蒼と取り囲まれているような場所では、体がより多くの酸素を取り込もうとして積極的に開くのだろう、呼吸法の修練が非常に楽に・効率的に感じられる。
 以前、深く速く息しながら、掌で「息の通り道」を感じ取る修法をご紹介した(『グノーティ・セアウトン』第8回)。息の動くエリアを普段から体感的に把握しておくことは、ヒーリング・アーツのみならず、スポーツや武術、芸道などでも非常に重要だ。
 息の「形(空間性)」そのものをシェイプシフトすることで、運動の質・効率は著しくチューンナップされる。

◎本連載でご紹介した「連理修法」と対をなす「比翼修法」について、その基本の1手を、呼吸の大切な要訣として、もう少し詳しく解説しておきたい。
 以前述べたように、比翼修法の修得過程は、片鼻を指で押さえ、もう一方の鼻のみを使って呼吸する練修からスタートする。
 片鼻だけから、リズミカルに強く息を吹き出し、その風圧をもう一方の掌で感じるようにしながら、「息の道」をまずは探し始めるといい。半分だけに注意を集めると、両鼻同時よりも「息の形」を感じやすい。注2)
 多くの人が、息の道を、なぜか鼻(顔)の正面向きに仮想していることについては、ディスコースですでに説いた(実際には斜め下)。
 もう1つの大きな仮想(ボディ&マインド・イリュージョン)は、「非常に狭い範囲内で、息は吸い吐きされる」というものだ。

注2:比翼修法は、この原理を身体内へと応用する。息が体の隅々にまで行き渡るよう左右半分ずつ練修し、それから両者を統合していく。修法の名を、比翼の鳥(常につがいで並んで飛ぶ一翼の伝説鳥:仲の良い夫婦、恋人の象徴)から採ったゆえんだ。

◎片鼻で強く息しつつ、掌で横(外側)へも探査の触手をのばしていくといい。斜め下横へと、吐かれる息は驚くほどの広がり・空間性を有して拡がっていることがわかるだろう。
 要するに、息の出入り口である鼻(鼻の穴)は、正面に対し斜めに顔についている、ということだ。小鼻を指でふさぐ際にも、その「斜め」に沿って、抑えの向きを注意深く調節しなければならない。
 片鼻をおさえなさいと言うと、ほとんどの人が真横に向け小鼻を押しつけてしまう。すると、息がしづらくなるだろう。息に抵抗感が生じるはずだ。
 片鼻を抑えているのだから当然、と早計な思い込みは禁物だ。小鼻を押さえる「角度と抑え方(力の方向性への注意=ヒーリング・タッチの原理)」をごくわずかに加減するだけで、たちまち骨格にまで「効いて」きて、もう一方の鼻がスースー気持ちよく滑らかに、通り始める。
 なお、蛇足だが、スキンダイビング(素潜り)で耳抜きする際も、小鼻の角度に沿って鼻をつまむのとそうでないのとでは、水中での息の保[も]ち方、楽さ加減が、全然違ってくる。シュノーケリング・ファンでまだこれに気づいてない方は、是非研究をお勧めする。

◎息の拡がりに沿って呼吸することを、肥田式強健術では丁寧・詳細に説明しない。注3)
 そうした肝心なことを習わないまま、各自がそれぞれ勝手なやり方で型を表面的かつ部分的にサルマネするから、元来健康に良いはずのエクササイズが、内面的にはまったく違うものに変質し(脊椎1個1個の動き方、統制の取れ方が、根本的に異なる)、その結果とんでもない毒物が生じて私たちの心身を蝕[むしば]んでいく。
 1つの型を、息を前から吸い、前に吐きながら行なおうとするのと、鼻穴の角度に基づく斜め下向きの大きな広がりに沿って息しながら行なうのとでは、全身の使われ方、充実感、統合感が、まったく・・・天と地ほども・・・違ってくる。
 呼吸の仕方で動きが変わる。・・・それは、息の存在感(形)を換えることによって引き起こされる、奥義的体験なのだ。
 21世紀のヒーリング・エクササイズたる神勇禅においては、このような秘め隠されし要訣[エソテリカ]にまで充分な注意を隅々まで払い、理会修得の徹底化と加速化を図っていく。

注3:「鼻をすぼめる」とか「息を加速度的に吐く」といった、非常に抽象的かつ難解な注意しか、肥田式にはない。前者は、息の通り道を両鼻で左右均等に意識化した時、鼻から全身的に起こるバランス感覚を、後者は、通り道に沿って出息を拡げる(両小鼻の開口角を左右均等に意識する)ことで、全身が隙間なく統合されることを、それぞれ意味しているのだが。

◎五感を開放しながら、類い稀なるヒーリング・アーティストの作品と相対[あいたい]するのは楽しい。私たちは、一種の他流試合/真剣勝負に臨む意気込みをもって、美術館内部へとうやうやしく足を踏み入れていった。
 岡本太郎のいろんな作品と、私はこれまで何度も出会ってきた。が、今回ほどの<空間性>を感じたことは、いまだかつてない。太郎の作品は同じままなのだから、私が変わったということだろう。
 確かに、より奥深く、本質的なところを、感じられるようになりつつあるようだ。道行く人をふと観の目でみると、体のどこが固まって一体化しており、どこが粒子的に振るえ・流れているかが、大体[おおよそ]わかる。
 頭だけでわかる(理解する)のではない。頭も含めた体全部丸ごとで感じる(理会する)のだ。
 
◎色と形が絡み合い、炸裂し、時間・空間を超える超次元(岡本太郎の言う絶対感)が拓かれる。
 太郎の芸術作品は、超時空へと通じる扉だ。不可思議な生命世界がこちらをのぞき込んでくる窓だ。
 魔術的・呪術的な記号/シンボルが、太郎のアートには充ち満ちてダンスしている。歓喜する声なき叫びが、遠近法から逸脱するように横溢してきて、観る者の魂に迫り・圧倒する。
 このたびの岡本太郎美術館でのヒーリング・トリップ中、不思議なことに気づいた。ここ数年来、ヒーリング・アーツ流の超越書道(ヒーリング・カリグラフィー)を個人的に楽しんできたのだが、自らの裡より自ずから顕われ出る自発・自律的な線や形と同様・同質のものを、太郎作品の裡にいくつも発見したのだ。
 これは、以前どこかで観た太郎の作品から、無意識の奥深いレベルで私が影響を受けている、ということだろうか? あるいは、超意識の深層を通じ、太郎と私は時空を超え共振し合っているのか? ・・・私にはわからない。
 若き日の太郎がパリで提唱した、「形のない形、色のない色」を、私たちはその一端ではあれ、今回の小巡礼で、全身ダイレクトに感じ・観ることができた。
 同行者たちも、皆、感・動の面持ちだった。
 細やかな粒子的活性感に満たされて、私たちは美術館を後にした。
 岡本太郎のような素晴らしいヒーリング・アーティストと、時代・場所(国)の多くを共有している私たちは、大変な幸福者[しあわせもの]だ。
 彼の同朋であることを、現代日本を生きる1人として、私は光栄に思う。

 岡本太郎いわく、
「人間は本来、非合理的存在でもある。
 割り切れる面ばかりでなく、いわば無目的な、 
 計算外の領域に生命を飛躍させなければ生きがいがない。
 ただの技術主義では空しい。
 進歩、発展に役立つという、条件づけられた技術ではなく、
 まったく無償に夢をひろげて行くこと。
 ナマ身で運命と対決して歓喜するのが本当の生命感なのだ。
 そのような全存在的充実感をとり戻すのでなければ、
 何の為のテクノロジーか、とぼくは思う。
 これはそのまま、真の生き方、人間性、つまり芸術の問題である。」(『岡本太郎 歓喜』)
 
◎さて、スライドショーだ。
 ヒーリング・アーツ式の帰神法により、超越界と通じ合い・響き合う。その際、ある種の舞として自ずから生じ顕われるSTM(自発調律運動)に、腰腹相照の姿勢を極[き]めつつ全心身を委ねていく。
 今年の干支である虎のスピリットやら、仁王・あるいは密教的な明王の力などが、活きた宇宙的波紋として、私の裡を振るわせ、賑[にぎ』わせ、流れ・過ぎていった。
 そうした超越的な神聖舞踏を、妻がヒーリング・アーツ流写真術で写し撮った。
 私が手にしているのは、インドネシア巡礼で授かった五鈷杵(密教法具)だ。

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◎恵那山中に置き去りにしてきた田中守平のことが、何だか気がかりになってきた(超越へのジャンプ 〜田中守平(太霊道)〜)。
 旧・肥田式強健術に関する新たな情報(注4)や、神勇禅(新・強健術)の素晴らしい効果を証言するリポートなどもどんどん集まりつつあるのだが、それらの発表はまた別の機会に譲るとしよう。
 これをもって、『ヒーリング随感2』 の筆を収める。
 合掌し、かしわ手を打ち、共に力強く唱えよう。
 樂[たのし]!!

注4:若き日の肥田春充が解剖学と生理学について学んだという『海都満(ハイツマン)解剖学』と『蘭土亜(ランドア)生理学』も入手したので、この方面における春充の理解度を大体推測することが可能となった。ただし、明治時代の医学書ゆえ読みにくいことこの上なく、特に後者は漢字とカタカナだけで記された、まさに「無味乾燥、砂を噛むような文字の羅列」(春充)だ。これらを春充は、「ダークアフリカに突入した探検家のような気持ちで」「満腔の興味を持って」「寸刻を惜しみ読みふけった」という。
 開国後わずか20年にして、こうした難解な医学書の翻訳が成った事実に、私は深い感銘を覚える。当時の日本人は、新しい知識に飢え、実に猛烈に勉強したに違いない。

『蘭氏[ランドア]生理学』上・中・下巻。初版明治20年刊。

<2010.10.20 十三夜>