沖縄の海水から造られた塩と小笠原産の塩とを交互に嘗め比べてみると、味はもちろん「質(性質)」までまったく違うから面白い。沖縄の塩は水平方向へと拡がる複雑な味わいを有しているが、小笠原の塩には垂直の深みとでも言うべき特徴がある。
前者のマイルドさ、まろやかさに対し、後者を引き立てているのはある種の峻烈さとでもいうべき独特の風味だ。
沖縄と小笠原の海の違いが、そこで造られた塩の味わいにまでダイレクトに反映される事実は、これまで長年、「世界各地の海は、質そのものが違う」と主張し、その「質の違い」を写真作品として表現することに意を注いできた私たち夫婦にとっては「至極当然」なわけだが、近年、糸満(沖縄本島南部)や粟国島、石垣島など、沖縄各地でそれぞれ独自に製塩した製品が一般販売されるようになったから、同じ沖縄でも島によって塩(海水)の味わいが異なっている事実を誰もが自分自身の舌で確認できる。
クリスマス島(キリバス共和国)の塩とか、イスラエル・死海の塩、ヒマラヤ山中で採れる岩塩(古代の海水が凝固したもの)など、今では世界各地の塩を簡単に入手できるが、あれこれいっぱい並べてテイスティングしてみると、どれも皆違っているから本当に面白い。
人は塩なしでは生存し続けることができないが、近代ヨーロッパなどでは投獄した頑固な思想犯を「転向」せしむるため、日々の食事から当人に気づかれぬほど少しずつ塩分を抜いてゆき、ついには無気力・無関心へといざなって思い通りに操ったというから、私たちの活力とか気力といったものとも塩が密接な関係を有していることがよくわかる。
慶良間諸島・阿嘉島の海に身を浸し、自由自在にシュノーケリングしながら私が全身全霊で感じ受けた<質>を、漢字一文字で敢えて表現するとしたら、<優>が最も適切であろうと感じる。
アクティヴにあれこれ見て回ろうとする人為的作為の一切を抛擲し、時折海底の海草を食みつつ優雅に泳ぎ回るウミガメたちの後をのんびりついてゆくだけで、帰神スライドショーに収められているような光景や生き物たちと自然に出合える。
燦々と降り注ぐ陽光に刺し貫かれながらも、阿嘉島の海は春霞がかかったように柔らかに烟り、亜熱帯の海中であるにも関わらず、パステル調とでも呼ぶべき不可思議な質感を秘めやかに備えている。
そんな海で、何頭ものウミガメが代わる代わる近寄ってきて龍宮案内を務めてくれるのだ。これほど平和で牧歌的な・・・楽園と形容するしかないような海が他にあろうか、との思いが幾度も繰り返し脳裏をよぎったが、言うまでもなくそこは熾烈な生存競争の場であり、にも関わらず、そうであってなお、慶良間・阿嘉島の海は限りなく「優しい」のだ。
グレイス(grace)とは、優しく美しいこと、優しく雅びやかなこと、さらには「恩寵(神の恵み)」という特別な意味もある。ギリシア神話やローマ神話に登場する三女神の総称でもあり、三女神とは「歓喜」「光輝」「花盛り」を、それぞれ司る美神たちであるという。
上記のすべての意味を込め、本作のタイトルを『ケラマ・グレイス』とした。
龍宮巡礼の一環として、神々へと奉納するべく、妻の美佳と共に、誠心誠意のありったけを傾注しながら魂を打ち込みつつ創作したものである。
※帰神ミュージック『愛のラーガ』におけるラーガとは、元来インド古典音楽の用語で、特定の音階を「暁のラーガ」などと詩的に表現し、その音階(ラーガ)のみを使って楽曲を構成する。その手法にあやかり、オマージュの意味も込めて美佳は、この「愛のラーガ」という新たな曲を産み出した(2007年)。自ら定めたルールを、時に遊び心一杯に逸脱しながら、自由奔放に。お聴きになればおわかりになる通り、そうした逸脱こそがルールを活かすのである。
この度、第1章の帰神スライドショーと試しにクロスオーバーしてみて、このスライドショーのためにあつらえたかのごとき相性の良さにまず私たち自身が驚き、感心し、即採用となった。のだが、逆に言えば『愛のラーガ』のために帰神スライドショーが用意されたとも言えるわけで、さらには新たに美佳が創作した序章用の帰神ミュージック『禊』ともごく自然につながってゆき、美佳によれば「基調音」が期せずして一緒であったとのことだが、これもまた<帰神>状態における龍宮の神々の導きとしかいいようがない。
我々はしばしば「超越的」という言葉を用いるが、例えばそれは後のものが原因となったり、先にあるものが結果となったりするような、一般的な因果関係を超越した現象を指す。「そういうこと」が、私たちの周辺では日常茶飯事のように現在も起こりつつある。
<2015.10>