館石昭氏(1930~2012)は、わが国におけるスキューバ・ダイビングの先駆者であり、水中写真、水中撮影という新しいジャンルを開拓した人でもある。
高校生の頃、館石氏が創刊した雑誌『月刊マリンダイビング』(水中造形センター)を読み始めた。
きっかけはよく覚えてない。すでに述べたように、私はつい最近までまったく泳げなかったくらいなので、関心の対象はダイビングよりも海中世界の神秘にあった。
私が『マリンダイビング』誌を熱心に読んでいた1970年代末頃、日本のダイビング界は水中銃で魚を突くスピアフィッシングを是とすべきか、それとも非とすべきかの大論争で沸き返っていた。
『マリンダイビング』誌でもその話題が毎回のように取り上げられ、当時のダイビング人口の中で少なからぬ割合を占めていたスピアフィッシング愛好者らは、「これはスポーツだ。こんな楽しいものをなぜやめよというのか!」と敵意を剥き出しにし、反対派は「もうそのような時代ではない。これからは獲るのではなく、観ることを楽しまねば」と一歩も引かぬ対立状態が続いた。
サザエやアワビを取り放題取って持ち去る「泥棒ダイバー」の横行が各地の漁協で深刻な問題となり、ダイビング禁止の緊急措置がとられる海さえ出始めていたことも、反対派の懸念材料の一つとなっていた。
スピアフィッシングも含め、「獲る」姿勢をダイバーたちが改めない限り、そのうち潜れる海がなくなってしまうのではないか、と。
今でもそうだが、ポイントまで船でダイバーを案内する役割を漁師が兼ねていることは多く、漁師たちや漁協との良好な関係を維持することは、昔も今も変わらずダイバーたちにとって緊要の課題なのだ。
それに対しスピア派は、「俺たちは漁協の許可をきちんと得た上でやっている。スキューバ装置など使わず、素潜りで魚を突く。それなら文句あるまい?」と反論し、「そもそも、魚突きを目的にダイビングを始めたというのに、それをやめて代わりに一体何をすればよいのか?」と喰ってかかる。
『マリンダイビング』誌は、両者の言い分を公平に取り上げ、双方の代表者らが直接会って話しあう場を設けもしたが、議論は平行線をたどり続けた。
それぞれ勝手にやればいい、で、もしあの時終わらせていたら、その後の日本におけるダイビング界の在り方はまったく違うものとなっていたかもしれない。
日本に初めてダイビングを紹介した『マリンダイビング』誌は、一体どのような意見と方向性を公式な見解として示すのか、それとも客観的な傍観者の立場を貫くのか、皆の注意が自然に集中してゆくのが手に取るようによくわかったし、その過程を私もわくわくしながら観守った。
当時の雑誌はもう手元にないが、隅から隅まで何度も繰り返し熟読したから、そうしようと思えば今でも、カラーでも白黒記事でも、いろんなページの鮮明な印象を写真的記憶として取り出せるくらいだ。
本当によくできた、血と心が通う、面白い雑誌だったと思う。創刊者であり、雑誌の立役者として世界を舞台に活躍していた館石昭氏の、人間的魅力と包容力、指導力の反映にほかなるまい。
そして、ついに『マリンダイビング』誌は独自の結論を示した。
欧米でスピアフィッシングはすでに少数派によるマイナーなものと化しつつある現状に鑑み、『マリンダイビング』誌は「レジャーダイビング」への道を選択し、これからはそれのみを広く一般に推奨してゆく、と。
ジャーナリズムとして責任ある、潔いと同時に勇敢な態度であり、日本のダイビング界の行く末を左右しかねない重要な決断を下すとなれば、その責任の重さは計り知れぬほどのものであったろう。
広告収入などの面で、雑誌それ自体の存続すら危うくなる可能性もあったかもしれない。
しかし、『マリンダイビング』誌が指し示した方向性が結局正しかったことは、その後まもなく迎えた空前のダイビング・ブームによって証明された。
魚を「獲る」代わりに魚を「撮る」。
最も傑作だったのは、「写真なんかが魚突きの代わりになるはずない」と不平不満を述べていたスピア派の多くが、いったん始めてみるとそのあまりの面白さ、楽しさに病みつきとなり、『マリンダイビング』誌主催の水中写真コンテストの常連となったことだ。
ダイバーを水中で案内するガイドへと華麗な転身を遂げ、「水中の生き物はそっとしておきましょうね」と真面目腐った顔で初心者ダイバーらに説くようになった人たちもいる。
私は、西表島で漁師の友人の手伝いをして魚を突いたり、サザエやウニを獲ったりしたこともあるので、それが実に楽しいことであるとよく知っている。海洋民とか狩猟採集民の血が、自分の中に紛れもなく流れていることを実感したほどだ。
よく問題にされる「狩猟本能」のようなものが、私の経験によれば確かに存在する。「血が騒ぐ」のだ。
その後、比較的最近(2011年)になってから、水中の光景を写真作品として表現する試みを始めた時、あっと驚いた。
魚を撮ることは・・・、魚を獲ることに、確かに相通じているではないか、と。少なくとも、シュノーケリングにおいてはそうだ。
つまり、狩猟本能が写真を撮るだけで充分満たされる。
水中を訪れる者たちに水中写真への道を示した館石昭氏の卓見は、だからこの上なく優れたものであり、水中写真を愛するすべての人々は、私と妻を含め、館石氏に実に多くを負っている。
私は20代始め頃、西表島で1度だけ、館石氏とお会いしたことがある。
貝細工師の友人の元でロングステイしていた時、彼のショップを館石氏が大勢の仲間を引き連れて訪れたのだ。
日焼けした精かんな顔つきと、よく通るバリトンの豊かな声。
ああこの人が館石昭か、と強い印象を受けたが、特にこちらから話しかけるでもなく、ただ友人の助手として氏から尋ねられたあれやこれやに言葉少な目に答えたのみだが、今改めて思えば私と<海>との縁をつないだ仲介者こそ、館石昭氏その人だったのであり、あの時の一瞬の邂逅はそれから30年以上の歳月を経た現在でもなお、鮮烈な記憶として鮮やかに光を放ち続けている。
そういえば、内容はよく知らないが、館石氏は水中ヌード写真集も上梓されていたのではなかったか?
自分でもまったく気づかないうちに、本当にいろんな影響を受けていたんだなあと思う。
慶良間巡礼の帰り道、突然館石昭氏のことが懐かしく思い起こされ、氏の功績やら自分が氏より受けた様々な影響などについてあれこれ思いを巡らせるうち、何だか居ても立ってもいられないような気分になり、帰宅後、インターネットですぐさま館石氏の最近の動向を調べてみた。
2012年9月9日に死去・・・・。
ご冥福を、などといったお決まりの文句を並べることを、私はしない。
私が館石昭氏の御霊に慎んで捧ぐべきは、この『ケラマ・グレイス』以外にあるまい。
敬意と感謝を込めて。
<2015.10>
※文中にある水中造形センター(株)は、出版不況とコロナ禍により2021年倒産。『マリンダイビング』誌も残念ながら廃刊となった(2022.11.22記)。