Healing Discourse

ヒーリング・アーツの世界 第1回 マナの探求

 ここ最近、ヒーリング・アーツに真剣な関心を抱く人が少しずつ増えてきて、広島での小さな練修会にも随分遠方から参加者がある。
 彼女/彼らの1人1人と誠実に向き合い、旺盛な探求心に可能な限り応えるべく努力しているが、いかんせん、レット・オフとか静中求動、仮想身体など、日常ほとんど意識されることがない感覚領域に属する内的テクノロジーが取り扱われるため、なかなか理会が追いつかない人も、中にはいる。
 普段、無感動に生きている人、無目的な人、無気力な人、そういう人たちとは、ヒーリング・アーツの本質を共有することが、確かに少々難しい。
 が、そんな人たちを見離さず、じっくり共にワークしていくと、これまで思ってもみなかったような新しい観点や発想が、どんどん拓けてくる。新たな練修法、エクササイズも、次々と生まれ出てくる。そうやって、玄妙不可思議なヒーリング体験へと、共に近づいていく。

 わからず、できなかった人の目に、理会の光が灯る瞬間が好きだ。祝福の感覚、としか言いようがないものに周囲[あたり]が満たされ、それは他者にまで好感覚、好影響を自然に及ぼす。こうした状態を、「楽[たのし]!」と、私たちは呼んで楽しんでいる。
 自分でもびっくりするようなことが感じられ、術[わざ]として運用できるようになる。そういう会得・理会の体験を、ヒーリング・アーティストは人生の宝として尊び、互いに喜び合う。
 それは、ポリネシアやミクロネシアの人々が、マナと呼んで古来より尊崇してきた恩寵的ヒーリング作用に通ずるものかもしれない。かつて南太平洋の広大な海の文化圏において、マナと出会い、マナに満たされることは、人生の至上の価値であり、至高の目的であった。
 彼女/彼らは、マナに基づき生きた。彼ら/彼女らにとり、マナとは生命[いのち]そのものだった。マナとは、「形に宿る生命力」だ。
 私自身の内発的体験と、マナ概念とがよく似通っているため、私は時々ヒーリング・アーツの修法を「マナ」と呼ぶこともある。
 
 ヒーリング・アーツとは、そもそも一体何か?
 どういう術[わざ]を使うのか? 
 それは人生において何の役に立つのか?
 いかなる原理で、「そういうこと」が可能となるのか?
 どうやったら身につけることができるか?
 ・・・・・・これまでも形を変え、表現法を換えて、幾度も繰り返し説いてきた。
 しかし、新しい概念について語り、伝えようとするのであれば、何度も何度も繰り返さねばならない。機械的なリピートではそちらもこちらも退屈なので、さらに言葉を替え、従来とはまた違う角度から、ヒーリング・アーツの知られざる世界に、この新連載では光を当てていく。

 ところで、私の文章をすでにいくつか読まれた方はご存知と思うが、ヒーリング・アーツを実際に修することを通じ、私は執筆している。ある意味で、舞いながら書いている。
 ゆえに、読者も舞いながら読まないと、本当のところはわからない。私の文は、舞を言語化しようとする試みだ。舞う(実際に体を動かして、書かれている修法を実験する)ことを通じてのみ、私の言葉の真義は理会できる。

 私の五官の<質>は、普通の人のそれとはちょっと違うかもしれない。地道なトレーニングにより、内的感性を少しずつ開発してきた。
 優れた芸術家たちは例外なく、私が語っているのと同質の超微粒子的感覚を知っているはずだ。武術家、瞑想家、宗教家など、求道的人生を送っている人々の多くも、私が何について話しているか、たちどころにおわかりになると思う。
 それは非常に細やかで、連続的・流動的な波紋の性質を備えている。私の観察によれば、この質感が五官すべての基盤となっている。五官を感じている主体、といえるかもしれない。
 五官を通じ、通常は外へ外へと拡散していく意識の向きを反転させる。そういうことが、ヒーリング・アーツにはできる。・・・すると、私たちの感覚は、春の訪れを迎えた原野に花々が一斉に咲き乱れるように、一気に鮮やかに彩り豊かに、艶[なま]めかしく麗[うら]らしくなる。
 五感そのものが、粒子的に振るえることでそうなる。

 五官(五感)とは、生命が環境から情報を得るための受信装置だ。ゆえに、五感から発する感覚神経は求心的(外から内)だ。なのに、私たちは世界を遠心的(内から外)に感じ(ようとし)ている。何かもの(オブジェクト)を見ている時、今自分が味わっているのは自らの体内体験であることを、ほとんどの人がスッカリ忘失している。
 しかし、私の現在ただ今の実感によれば、見るという行為は、明らかに私たちの内面にある。自分から対象へと意識が向かっていくのでなく、あちらがこちらに向かって飛び込むように迫ってくる。
 その他の感覚も、訓練を重ねることで、本来の内向性を回復できる。各感覚において、外へ外へと向かっていく注意の方向性を身体的に同調・感取し、それを軽く意識し直して、そのまま「意識し直すこと」だけをオフにする。するのをやめてしまう。
 すると、行為に−1をかけるような「ほどけ」の感覚が起こってくる。さらに熟練すれば、−1の平方根を求めるが如き虚数的内転を、心身の内面に招くことができるようになる。
 こういう五感の神経反転現象を活用しながら、ヒーリング・アーツ修養者は、「マナ」を探し求めるいやしの旅を歩んでいく。
 虚の世界が身の裡に開かれる時、マナ(生命の叡知)はどこからともなく神秘的に立ち顕[あら]われてくる。

 冒頭、わかることは素晴らしいと書いた。
 私自身にとっての「わかる」とは、心身両面の理会・体得が直感的かつ超時空的に(時間と空間を超えて)起こる現象をいう。人間が潜在的に秘めている身体/精神能力をいかにして覚醒させ、トレーニングしていくかについての知識と技術が、原理と実際的手法、(短期、長期の)効果といった複層的情報として、一瞬のうちにダウロードされてくる。
 これまで想像したことさえないようなヒーリング(心身統合)の術[わざ]が、ある瞬間を境にわかり、できるようになってしまっている。実際に他者にそれを試してみると、ちゃんとあらかじめわかっている通りの状態を相手の心身に創り出すことができる。
 例えば、相手が全力を込め抱きかかえてきた力を、固体を液化するように溶かしてしまったり、あるいは硬く強ばって痛みを生じた自分の胴体を配列し直し、液状に波動する若々しい背中を取り戻すなど、ちょっと普通では考え及ばぬ色々な変化、それも望ましく好ましい変化を、これら諸々の術[わざ]は引き起こすことができる。

 そういう不可思議・精妙な術を次々と神授される体験が、私の裡で起こり始めてから、現在までに10数年以上の歳月が流れた。「神授」という言葉を、誤解を招きかねないことを承知で敢えて使うのは、私が語っている「体験」が起こる際には、「神々しさ」としか形容しようがないあるフィーリングが、常に伴ってくるからだ。畏怖、とそれを呼ぶのも、あながち的外れではあるまい。
 そんなヒーリング体験が、ただ1度の繰り返しもなく、毎回新鮮に起こり続けている。今、この瞬間にも。
 私は、マナと共に歩む者だ。21世紀流の惟神[かんながら]の道を。

<2010.04.06 玄鳥至>

注:[ ]内はルビ。