Healing Discourse

ヒーリング・アーツの世界 第8回 真[まこと]の声

 言行一致のためには、全身に最もよく響き渡る各自固有の音程を、まず知らねばならない。それによって言葉(音)と体(行ない)がトータルに共振する、そういう特有の音程[トーン]が、人にはそれぞれ・・・ある。
 運勢が拓けている人の声は、必ずその人の体と調律が合っている。身体を自在に操る術に長けた人は、意識的にせよ無意識的にせよ、ある特定の個人的トーン(気合)を使って姿勢・動作を起動・調整している。
 これを真音[しんおん]という。妻の高木美佳が発見し、私が名づけたものだ。

 真音に身体の調律が合っているかどうか、それを確かめるためには、その人の体のどこでもいから片耳を当て、もう一方の耳を塞いだ状態で、相手にハミングしてもらうといい。脚の脛[すね]のような、声帯から遠い場所でも、骨それ自体が鳴っているのがハッキリ聴こえるなら、その人は真音とチューニングが合っている(さもなければ、くぐもった音がする)。
 そっと神明掌で触れ合ってみれば、体の隅々まで細かくヴァイブレートしているのが確認できるはずだ。爪なんかも、ブワーンと微細振動する。

 自分の最根本の音(音程)を正しく発すると、腰に強く響き、腰が自動スイッチのように入って、全身の骨が鳴り始める。上述の通り、それを他者が術者の体を通じて聴き取ることもできる(骨伝導)。
 唇を閉じた状態で発せられるこの音を、言葉で表わすとしたら、「ん」が一番ふさわしいと私は思う。「ウーッ」という意見(肥田春充)もあるが。

 各自固有の基礎音(声)を知らねば、その人の人生の一瞬一瞬が、常に「的外れ」、「アンバランス」、「不誠実(マコトのなさ)」となってしまうことがおわかりだろうか? 
 自分の声(音)を持っていないとは、自分の言葉を持っていないということだ。自分の言葉がなければ、真・言(まこと=本当のこと)を語ることができない。まことの人間(真人間)となることもできない。
 生きることそのものの音程が、外れる。

 手と同じく、声も、人間特有のものといえる。
 こんな風にヴァリエーション豊かな音を出せる生き物は、地球上に他にいない。人間とは、まさに歌う動物だ。
 だから、手と同じく、真音はあらゆる人にとって、「変容」のためのキーとなり得る。
 何から変わるのか? ・・・・硬直した体、麻痺した感性、鈍磨した心、重苦しい現状、閉塞感・・・そういったもろもろの暗塊に真音を響かせれば、瞬時にほどけが起こり、(現時点で可能な限りの)統一体として心身が再構築[リコンストラクト]される。

 人それぞれに固有の振動数があるということは、それほど奇異な話ではないと思う。人の声は、それぞれ違う。私たち1人1人の、基調となる音程が存在してもおかしくないはずだ。
 その人が最も調律された時、自ずから発せられるトーン。その人の最大能率と最大能力を発揮させる音。そういうものは、私自身の経験によっても、確かにある。私は、ある音程を瞬発的に発することで、全心身を一瞬で統合している。

 この真音論が仮に事実とすると、次のような推論が可能とならないだろうか? いわゆる「苦手な相手」というのは、実は真音同士が音楽的不協和の関係にあるのではないか、と。
 これは、あってもよさそうな話と、私には感じられる。
 学校で、教える教師が替わった途端、それまで得意だった科目が急にわからなくなり、成績が下がった体験を、おそらく多くの読者諸氏がお持ちなのではなかろうか? 
 わからなくなる前に、実はつまらなくなっている。ダイレクトに響き合う実感、楽しさが味わえなくなっている。
 それが、実は「波動的な相性」に起因するものであったとしたら・・・? 

 相性の悪い音同士を同時に鳴らすと、何とも不快な、文字通りの不協和音が奏でられる。これが私たちの本質的なところで起こっているとすれば、特定の人間同士の「不和」は、必然とも思えてくる。
 1人の教師がほとんどの授業科目を担当する小学校では、とりわけ深刻な問題となろう。
 同じ職場を、真音の不協和な者同士が共有すれば、場の雰囲気を引き下げ、仕事の能率が低下するのも当然だ。ストレスもたまる一方だろう。
 仲の良い夫婦や家族は、私たちのこれまでの調査によると、必ず真音が同じか、協調関係にあることがわかっている。

 妻によれば、中世ヨーロッパでは、ある不協和音が「悪魔を喚ぶ音」として厳しく戒められ、それをうっかり教会内で鳴らそうものなら死罪になり兼ねなかったほど、忌み嫌われたという。
 が、その後、不協和音を解決・解消するいくつかの原理が発見された。
 どういう風に算出するのか、私にはさっぱりわからないが、相性の悪い音同士を調和させてしまうある種の「触媒音」(緩衝音)を、その場で割り出し、調和音を楽器で奏でることが、妻にはできる。
 その効果は、誰もが理屈抜きで、直ちに実感・体感できるものだ。不快な不協和音が、中和音の導入により、たちどころに耳にも体にも心地よいハーモニーと変わる。
 ちょっと魔術的といっていいほどだ。が、合理性に裏打ちされている。音楽の基礎教養がある者なら、一定の訓練を積みさえすれば、誰にでもこうしたハーモナイズが可能となるそうだ。
 このように、音同士の不和を調和させることは、少なくとも音楽的には可能なのだ。同様の原理を様々に応用発展させることで、人間相互の関係性を音楽的に調和させていく・・・そういう新しい<道>が、今、妻と私を通じて開示されつつある。これもまた、未開拓の新分野だ。

 他者との関係性は元より、自分自身との関係性を良好に保つ上において、真音は欠くべからざるファクターとなる。真音は、人生のあらゆる道を歩む老若男女のQOL(人生・生命・生活の質)向上に、多大な善き影響を及ぼす。
 気合というものも、各自固有の真音のトーンで発さない限り、何の効果も威力ももたらさない。身体と精神の能力を高いレベルで発揮させること(ハイ・パフォーマンス)を望むあらゆる人にとって、真音は決定的な鍵となるといっても、決して過言ではない。

 真音を発するためには、方法がある。また、本物の真音を出すためには、それなりに身体を整えていかねばならない。元来最も自然な音であるはずの真音発声を妨げているブロックを探し出し、ほどいていく必要がある。
 真音の探求は、ハミングしながら、音(声)の中心点を指や掌で触覚的に丹念に探り当て、意識化していく作業が中心となる。ツールはヒーリング・タッチ(神明掌)、ヒーリング・ポイントは、両鎖骨の間、喉元のくぼみ。東洋医学でいう「天突」のツボだ。 
 
 真音を通じ、人は自分自身と調和する術[すべ]を覚え、他者との協調について学んでいく。私が言う協調とは、お互いの違いを認め合いながら、新たな価値の共同創造に向け、積極的に働きかけ合い、ぶつかり合うことだ。都合の悪い部分には目をつぶるとか、妥協するとか、そういう要素は、微塵も含まれていない。
 頭で考えてこれを為すことは、実際上不可能だ。
 
 真音は呼吸とも密接な関係がある。咽喉元のポイント(天突)に基づいて呼吸する時、人は最も楽に、自然に、トータルに、息が全身に通い巡るのを感じる。咽喉にも、やはり中心がある。
 真音のセンター(天突)を、激しい運動のまっ最中に意識する・・・・と、たちどころに呼吸が楽になり、さらに動きに激しさを増すことができる。
「息」は「生き(活き)」に通じるから、真音原理に基づき息のあり方を変えることで、私たちは「生きること」そのものをトータルに、流動・循環的に整えていくことができる。
 真音と調和していない者は、世界から阻害されているような感覚をしばしば味わう。実際には、その人の方が世界からズレている。
 惟神[かんながら]の道とは、音楽的にいうなら、真音に基づいて生きることだ。呼吸の観点からすると、最も楽でナチュラルな生き方といえる。

 本物の真音を発し得たなら、きっと驚くはずだ。全身が繊細にビリビリビリッと震え始める。
 真音で気合を発すれば、生命の炎が、身の裡で腰腹を中心としてカーッと燃え上がる。稽古中、私の気合で、大の大人がガクッと崩れたり、バタッと倒れることも珍しくない。
 当人たちは、最初びっくりし、呆気にとられ、それから楽しそうに笑い出す。
 ちなみに、気合とは元来、動物のうなり声や吼え声に相当するものだ。生体エネルギーレベルを、急激に活性化させる音(ヴァイブレーション)だ。

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 以上、ヒーリング・アーツのこれまであまり語られたことがなかった方面・分野を、駆け足でざっと概観してきた。言うまでもなく、これらとてヒーリング・アーツの広大無辺な領域の、ほんの一断片に過ぎない。
 まだまだ語り足りないが、ここらでいったん筆を納めよう。また別の機会に、ヒーリング・アーツ(日本語で神明流)のさらなる別側面を、皆さんにご紹介したいと思っている。
 ちなみに神明流[しんめいりゅう]とは、かつて私が中央アフリカ密林の秘教教団に伝承されてきた<死後の世界を旅する修法>を幾度か行じた際、数時間以上に及ぶ臨死的体験の最中に、ヴィジョンとして得た言葉だ。

<2010.04.28>

——ヒーリング・アーツの世界 終——