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高木一行
真新しいカメラを手に、張り切ってヒーリング撮影に臨んだ。
ヒーリング撮影といっても、特に複雑難解なことは何もしない。
ただ、ヒーリング・アーツのシンプルな諸原理を応用し、写真撮影という営みにスピリットを込める。それだけだ。
ところが、私がヒーリング・タッチでホールドするカメラと触れ合うと、多くの人が目を丸くして驚く。「カメラが生(活)きている!」のだそうだ。
私は、ただ自らの身体のあるがままを意識しながら、カメラを手にしているだけだ。普通の持ち方とちょっと違うところは、ただ何気なく無意識的に持つのでなく、可能な限りカメラと密着しながら、超意識的に持っている。というよりは、「触れ合って」いる。
実際、手全体がべたり、とカメラに密着する実感がある。
これに比べれば、普通の持ち方はスカスカ、がさがさごろごろ、隙間だらけ、隙だらけ、・・・と、私自身の実感では感じられる。
ヒーリング・タッチでカメラと触れ合い、カメラの裡と響き合う。
その時、私の両手首を思い切りつかんでみれば、武術的な働きをもヒーリング・フォトグラフでは活用している、と私が言う意味がおわかりだろう。
大抵の人は、悲鳴をあげる。
あの時の宮島でも、そういう状態を元に、私は撮っていった。
新しいカメラの機能にかけながら。
現像・編集作業を経て、万物に宿る生命力の輝きがゆらめき、うごめき、流動・循環する様が・・・細やかに、密やかに、バリ絵画のエッセンスを未来的にしたように、描き出されていく。
そうした創造のプロセスに参与する歓び、うれしさ、楽しさ!
これこそ岡本太郎がいう、「芸術が人をいやす」ことの実例だ。
光と風の精霊たちが踊る様や、人々を大空から祝福するように舞う神鳥トビ(注)の姿まで、新しいカメラで精彩にとらえることができた。デジタルカメラの、ここ最近の進歩は真に素晴らしい。新しい芸術媒体として、これは大いに使えそうだ。
同じ巡礼路を辿った成果としての、妻と私の作品を、それぞれ観・比べてみるのも面白い。
まったく違う視座あり、感性を共有する部分もあり、それぞれの「個性」の違いが、大きくクローズアップされてくる。
これが、夫婦で今ヒーリング・フォトを一緒にやっていて、たまらなく楽しく・面白いところだ。
自分がああ感じたところを、相手はこう感じている。自分はここに注目したのに、相手はああいう風に観ていた。そういう意外な発見が、毎回毎回お互いにいっぱいある。これが、実に刺激的で気持ちいい。人生に、キンコンカンと涼やかでめでたげな鐘のリズムが鳴り響き渡りしびれる感じ。
これぞ、ヒーリング・アーツの恩寵なり! 醍醐味なり!
そういう恩寵的なめでたいヒーリング作用が、私たち夫婦の作品を観・比べると、発生するようになっている。
なぜそうなっているのか、私にはわからない。それはただ、「そう」なのだ。
<2011.05.01 牡丹華[ぼたんはなさく]>
注:頭上を舞うトビをファインダー越しに追いながらシャッターを斬っていくと、その姿が一瞬、太陽と重なった。意識を真っ白に灼く強烈な輝き・・・。神鳥と太陽の一体化・融合を満身で感じた。本作11番は、その瞬間をとらえたもの。