スライドショー2-1 <神の島巡礼 #6 春来りなば> 撮影:高木一行 2011.04.06

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ライナーノーツ

高木一行

春来りなば 宮島巡礼シリーズ#5 撮影:高木一行 2011.04.06

 ヒーリング・フォトグラフの道が本格的に啓[ひら]かれたのは、スライドショー1-1『五鈷杵』のライナーノーツに記した通り、昨年、10月15日のことだ。
 それ以来、今日まで、友人たちに支えられ、励まされながら、 妻の美佳と共に努力・精進を重ねること、およそ半歳[はんさい]。この間、50タイトル以上のスライドショー作品を、2人で共同創造してきた。まるで、日本のクニを次々と産んでいくイザナミとイザナギを宿したみたいな、そんな神話的豪壮さを、しばしば体丸ごとで感じたものだ(その神話的創造性の内流は今も続いている)。
 すでにギャラリーで発表したスライドショー1-1〜1-5に続き、様々な超越的作品たちが、静かに一般公開の時を待っている。

 それら、いわば「過去」に属する作品群とは別に、「今」を写し撮った作品も、どんどん増えつつある。
 とりわけ最近は、一ヵ月前の東日本大震災により日本人全員が民族レベルで被ってしまった集合的PTSDとでもいうべきものの<ヒーリング>を、作品テーマを選ぼうとするにあたり、強く意識し、祈念するようになった。
「日本人全体が丸ごと軽やかにいやされ、活気に満たされますように!」::::と。

 そうした祈りに応えるようにして、一連のヒーリング・フォトグラフが顕われ来ている。とりわけ最近のそれは、日本人全員に向け発せられた、超越的世界からのメッセージと、私には思えてならない。
 だから、リアルタイムで分かち合っていくべきと、強く感じた。
 そこで、ギャラリーを2本立てとし、これからしばらくの間、旧作と新作とをそれぞれ異なるタイムライン上で、同時に取り扱っていくこととした。
 新作の方は、ライナーノーツが未完成、あるいは手つかずのまま作品のみ発表、といったこともあろう。それらは、今後、折りをみて書き継いでいく予定だ。

 鎮魂とたまふり(元気活性化)の祈りを込めて幽神界の扉を開き、ヒーリング作用(マナ)を写し撮った作品と向き合うにあたり、本来であれば、説明などまったく不要のはずだ。
 ただ、観て、感じていく。驚きの目をみはる。・・・まばたきをできるだけしないように(最初は目が痛くなって涙が出るかもしれないが、これは歓迎すべき浄化のサインだ)。
 部分を強く見つめすぎず、画面全体のすみずみにまで、均等に視野を行き渡らせる。
 能動的に何かを「見る」のでなく、視界内のすべてが、ただあるがままに、目に映っているようにする。
 これを「観の目」という。あらゆる芸術家にとって必須の、基本的な目付け法だ。武術でも、こうした目の使い方を重視する。
 宮本武蔵は『五輪書』において、「見の目(部分を見ること)弱く、観の目(全体をひとまとまりのものとして知覚すること)強く」と教えている。「見の目」を完全に否定しているわけではないことにも、ご注意いただきたい。

 そうやって、ヒーリング・フォトグラフの1舞(枚)1舞と向かい合っていくうち、・・・・・・・何だか・・・・・・・ピンと張りつめた感じ、神々しさ、華やぎのオーラ、春の精[シルフ]のタッチ・息吹、などを感じ始めた・・・気がする・・・・なら、・・・・それで充分だ。
 明るさ、希望、毅然とした強さ・・・・などの肯定的種子が、あなたの意識の奥底にインストールされた。それらは、まもなくあなたの裡で芽吹き、勢い良く育ち始めるはずだ。
 何度も繰り返し、 同じスライドショーと観の目で向かい合っていくといい。
 ヒーリング・フォトグラフは、普通の写真と違い、写真を媒介としてある特定の「体験・意識の変容」を引き起こすことの方に重点を置く。
 写真自体は、真理の影を映した神話的影絵芝居のようなものにすぎない。そこに写っているものよりも、それを観ている自分自身の内面的変化の方に最大の注意を払いなさい。そのようにヒーリング・フォトグラフは教える。

 さて、本作は、つい先頃、わが家から至近距離の聖地・宮島(厳島)へと、春の息吹を探しに、妻と共に巡礼に赴いた際、撮影したものだ。
 スライドショー1-2の<金秋>(神の島巡礼 #1)と、ほぼ同じ経路をたどりつつ(両作品を比べて観るのも面白かろう)、五感を全面的に開放しながら、心と体が感じるままに、自由自在に奔放に、シャッターを「斬り」続けた。妻と共に、笑いながら、踊りながら、驚きの声を思わず発しながら・・・。
 やがて、・・・・・目に映る世界の隅々にまで、活き活きとした無限微細粒子的生命力が満ち、万物がそれぞれの形で擬人化されたかのように、踊り、うねり、伸び上がり、拡がって・・・いるのなどが、多層的に、複層的に、「観え」てきた。
 これは、詩的に誇張して述べているのではなく、私の生理的体験におけるありのままの実感だ。
 観の目が極まって観えてくる世界には、不思議な生命感が充ち満ちている。桜の花はもはや単なる花ではなくなり、精霊の宿る器となり、踊りはしゃぎながら、美の大コーラスを合唱している。
 何もかもが、・・・流れる水も、風も、木も草も花も、鳥も、魚も、岩も空も雲も、・・・意識の宿りとなって、生命の波動を爆発調和的に放ち舞っている。
 
 例えば、作品03の左上あたりに集中している黒線の交わりは、実は観の目で観ると、非常に立体的で複雑な構造になっている。そういうことが、観の目に慣れれば、ほぼ瞬時にみて取れるようになる。
 12もかなり立体的な構造だが、「見の目」には平面的なデザインとしか映らない。
 あるいは13のような観え方は、伝説の修養法・聖中心道において、「肉体と精神の中心を人体重心部で統一すると、ダイヤモンドを鏤[ちりばめ]めたように世界が輝く」(肥田春充)、とされている奥義体験に直通するものだろう。
 そういう、元来であれば私の主観に過ぎないはずの体験・観え方が、なぜヒーリング・フォトにそのまま反映されて来るのか、私は非常に不思議でならない。「どうして観えたまま、感じたままが写真に撮れるのかな?」と、妻も同様に不思議がっている。
 
 ここを撮るべし、こう撮るべしという精霊(超越)的な「声なき声」に導かれるがまま、時間が経つのも忘れて、夢中になってシャッターを斬り続けた。
 そうやって出来上がってきた作品たちを、ただ撮影順(巡礼行の道筋のまま)に並べ、1つのヒーリング・ストーリーを構成してみた。それが、この<春来りなば>だ。
 冬来りなば春遠からじ、という。では、その春が来たならば、どういう良いことが起こるのか。
 その<春>のエッセンス(マナ)を、画像情報として電子的に記録することに成功した! 
 今ここに、同朋(クニを同じくする人々)すべてに向け、うやうやしく発信する。
 どうか、ご自由に受け取ってPC上で啓(開)き、存分に「春めき」ながら、超時空的な巡礼の花見を楽しんでいただきたい。
 憂いを祓[はら]い去り、人生に活を入れる生命[いのち]の巡礼。それが、スライドショーを観ることを通じ、自宅のPC前で超時空的に執り行なわれる。
 そういう超越的(根源的)ヒーリング体験の場、機会として、私たち夫婦はヒーリング・フォトグラフ作品を公開している。

 ・・・・・・かくのごとく、日本は、まだまだ「美しい」。土地にも人の心にも、美しいところが一杯残っている。
 美しい場所[ところ]には、常に希望がある。

<2011.04.13 鴻雁北[こうがんきたす]>

※この巡礼時、妻も別のカメラで独自にヒーリング撮影した。彼女の作品も、間もなく発表予定だ。