スライドショー2-10 <熱帯温室にて 3> @広島市植物公園 撮影:高木一行 2011.04.29

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ライナーノーツ

高木一行

熱帯温室にて 撮影:高木一行 2011.04.29

 昨年11月24日に帰神撮影(スライドショー1-6)したのと同じ場所で、同じカメラ(修理済み)を使い、三度、ヒーリング撮影に挑んだ。
 みたび、と述べたのは、その間にもこの同じ場所でヒーリング撮影を執り行なっているからだが、その際に得られた作品は、超次元ギャラリーのスライドショーとして、近いうちに発表予定だ。

 岡本太郎のいわゆる「ぶっつける」を、自分自身に対して行なう。1つ1つ、作品を乗り越えていく。前の自分の作品をぶっ壊し、放り捨てる。
 前の作風の模倣をしない。その亜流を量産しない。
 そんな風に自分ができているか? 前の自分自身を越えられているか? 
 そのように自らに問いかける太占[フトマニ]的な意味を込め、私は同じテーマを繰り返し取り上げる。
 
 前と同じ植物公園の温室内で、同じカメラを使って撮る。
 最初の時(2010.11.24)は、さあこれから、というところで出ばなをくじかれるようにカメラが故障してしまったが、あの直前に会得したものを、今の私は、さらに洗練して活用することができているか? 
 その間の経験・体得が、すべて、<今・ここ>にクロスオーバーされているか? 
 そういう「熟達度」「熟練度」を図る意図をもって、スライドショーを撮影年月日順に観ていくのも面白い。

 自己超克とは、努力(オンの積み重ね)を通じては達成できない道だ。    
 それでも努力が、これまで強調され続けてきたのは、その努力の果ての最果てに至れば、自ずからオフへの反転が起こり、オンとオフのクロスオーバーによる「超越」が自然に現われる仕組みのことを、古人[いにしえびと]たちが良く知っていたからにほかならない。
 オン偏重の現代社会にあって、私はいつもオフを心がけている。それが特に洗練的に集約された状態が、レット・オフだ。

 観の目で観ながら、掌の真ん中(掌芯)をそっと凝集→レット・オフ。
 すると、(正しくフォーミュラが実行されたなら)凄いことが起こる。
 眼前の世界が、みるみる変容を遂げる。
 物凄く立体的で奥行きがある。クリアーだ。ピンと柔らかに張りつめた霊気が、全身丸ごとで感じられる。
 私と、私の元でヒーリング・アーツを専門的に修練している人々は、皆、そういう眼法の切り替えが自由にできるようになっている。
 レット・オフというヒーリング・アーツ独自の超越テクノロジーを、「みること」へと応用した成果だ。
 観の目を得ることで、どれだけ世界が立体的で多層的なものとなることか。生きることが、人生が、どれほどいろどり豊かなものとなることか。
 その真実について、私たちはこれからも、私たち自身の「生きること」を通じ、様々な形で表現・発信していく。

 ヒーリング・アーツは、意識のアートであり、意識の科学でもある。
 意識は、人間が人間であることの根幹に関わる重要なテーマだが、それに注目する人は非常に、意外なほど、少ない。
 例えば、あなたは掌の外側の空間へは自分の注意を投影できるが、その身体外空間上の注意の焦点(あるいは平衡点)と皮膚面との距離を徐々に縮めていくと・・・・・・・・・???????・・・・・・・・・・!!!!!!!!!??????

 突然話を中断して申し訳ないが、上記のごとき、(一般雑誌用の原稿で使えば直ちに編集者から削除されてしまうであろうような)言葉づかいを多用していることに対し、私は明晰な意識と自覚を持っていることを、ここに明記しておきたい。
 例えば、最初の・・・・・・・は、実際に修法に取り組んでいる時の心理的・身体的な時間経過の流れを点描的に示す。
 それに次く??の林立は、これまでの「常識(あたりまえのこと)」が次々と崩れていく時に誰もが抱く戸惑いや逡巡などを、象徴的にあらわす。
 さらなるトライアル&エラーの繰り返しとしての・・・・・。
 そしてやってくる!!!!!は、「わかった!」「できた!」「凄い!」「楽しい!」「面白い!」「気持ちいい!」「素晴らしい!」「美しい!」「神聖なり!」・・・・の<!>。
 それにさらに続いて??が並ぶのは、「しかし、これは一体全体どういうことなのか?」「なぜ、誰も彼もが、同じ迷妄状態に陥っているのか?」「私たち人類に、一体何が起こりつつあるのか?」といった、「わかり」「できる」ようになった者だけが抱くことができる、より高度な疑問の連続発生を表象している。
 ・・・といった具合に、だ。

 話を戻す。
 掌の外側の空間から、注意の焦点を皮膚、そしてそのさらに内面へと向けていく。
 興味深いことに、皮膚のところで、注意の方向性が見えない壁のようなものにぶつかってしまい、それ以上先(皮膚の内面)へは進めないことがわかるだろう。
 それは、外側を感じるために使った方向感覚とはまったく別種の意識/方向性が、身体の内面を感じるためには、必要だからだ。
 
 私たちの意識が、外へ外へと向くばかりになって、人生の真実を見失っている現状と、そうした神経的幻影状態からの脱却法について、ヒーリング・アーツは身体の生理的実感を通じた修法を通じ、明快に指し示す。
 あなたが自分の掌の内部に入れないのは、間違った方向性に基づいてあなたが探しているからだ。・・そのように、ヒーリング・アーツはいう。
 掌から外側へ向かって、感じよう、伸びよう、広がろう・・・としていく方向性を、 あなたは自己の内面にまで適用しようとしている。
 が、皮膚面から内側は、完全な異界なのだ。
 どれくらい異[い]なる世界かといえば、外側とは何もかもが正反対。世の中にこれくらい異[こと]なるものは、他に存在しない。
 完全な対極。
 真反対。

 どうやったら、「こちら」にいる者が、「あちら」へと遷れるか。此岸より彼岸への移遷が可能となるか。
 それを、レット・オフはわかりやすい方便を使い、万人向けに説き示す。
 簡単にいえば、努力を最小単位で反転させることにより、オンとオフという相反する要素を「ぶっつけ」合い、弁証法的な超越・統合止揚を引き起こす。
 おわかりだろうか?
 私がずっと説いてきたレット・オフとは、実は、ザ<解脱>にほかならないものだったのだ。 
 ものすごくちっちゃな、超マイクロ解脱。解脱の基礎単位。
 日本神話でいうところの、国建てに助力する極小の神・スクナヒコ(少名彦)。

 クニをしっかり立てたいと真剣に祈念するのであれば、是非少名彦のカミを祀るべきだ。
 ただし、神を祀るといっても、どうか、皆さんの大半がおそらくお持ちであろうところの、(「神」や「祀り」に対する)「先入観」や「偏見」をもって、私の言葉を誤解・曲解されないよう、伏してお願いする。
 私は、どこそこの神社へ参れとか、○○教を奉ぜよとか、わけのわからん呪文を唱えよとか、・・・・そういう類いの鬱陶しいことについて述べているのではない。

 ヒーリング・アーツの原理に基づき、レット・オフを正確に起こす。
 それにより、満身にたまふり状態が起こり、流動・循環する。
 その全身感覚の基本単位こそ、古人がスクナヒコと呼び、重要なカミとしてあがめたものだ(ちなみに、古代日本人にとって、カミとは常に善なるものとは限らなかった。人に優しいもの、慈悲深いものとも限らなかった。それは、今でも、実際に、そうだ)。

 粒子感覚を啓[ひら]き、それを振るわせる営みは、単なる小手先の技術として行なうこともできるし、スクナヒコのカミを祀る神聖な神事として執り行なうこともできる。
 ちょっとした意図の違いが、結果として、甚大なる格差を生じる。
 片や、「よくわからない(感じられない)」「何も動かない」と暗い顔。
 もう一方は、細やかに、賑やかに、エクスタティックに、爆発している。岡本太郎が言う「対極同士がぶっつかり合う」ことで、超越的に起こる爆発に酔い、歓喜している。

 ・・・・・話が思わぬ方に逸れた。
 昨日の自分自身を、果たして今日の私は超えることができているか、否か。
 判定は、皆さんの「(ひらかれた)目」に、お任せする。

<2011.05.01 牡丹華[ぼたんはなさく]>

付記:私の個人的テーマに「ぶっつけ」「対決する」意図をもって、妻も熱帯温室で帰神撮影を執り行なった。その作品は、引き続きスライドショー2-11として発表予定。