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高木一行
今度はホワイトセージを焚いてみた。乾燥した地域に生えるセージの仲間で、分厚い葉を乾かして燃すと非常に個性の強い、清涼感のある香り粒子の集合体が、煙に乗ってあたりを満たす。それは、無重力下の流体みたいな超時空的ダンスを波紋の交合として繰り広げつつ、細かいところまで浸透していって、「共に振るえ」始める。
嗅覚とは匂い分子の振動を感知・知覚する能力である、と「匂いの帝王」ルカ・トゥリンは唱えたが、それが正当科学界から笑い物にされている珍説・奇説であることを重々承知の上で、理論抜きの純粋な体験に基づき、私はそれを事実だと思う。
香道家の皆さんなら、香りとは超微細粒子の振動を3Dで「聴く(聞く)」体験であると、直ちに同意してくださるだろう。
香りという現象、体感が本来的に持つ粒子性と波動性がわからず、感じられないとしたら、それは、香りというものをユニット(単体)として仮想し、その仮想に基づいて香りを取り扱っているからだ。
最初はユリの花とかセージとか乳香など、香りの強いもので練修するといい。
ナジオン(両目の中心、鼻のつけ根のへこんでいるところ)を中心として、香りを嗅ぎながら、その(嗅いでいるという)状態にレット・オフでたまふり状態を起こす。
例えば花(または焚かれている香)を見つめておいて、その状態を保ちつつ、「見つめる(集中する)」コマンド(意図)のみを、(いかなる箇所のいかなるものであろうと)身体の感覚に基づき、強調(注意)→レット・オフ。
つまり、見の目から観の目へとシフトする。このやり方で「みる」行為を変えることは、芸術家たちの秘伝であり、私のような愚鈍な武骨者でも、これによって直ちに世界の真実質を観ることができるようになったスグレモノ修法だ。
あるいは、一指禅を用い、そっと指先(指の腹と爪の先の関係性に常に注意)を柔らかにしっかり張るようにして、その形を保ちつつ「張ること」のみをレット・オフ(コマンド解除)。一指禅については、ディスコース『ドラゴンズ・ボディ』などを参照のこと。
ヒーリング・アーツを学んだことがある人なら、香りを嗅ぎつつ、何でもいいから自分が得意な術[わざ]を使ってたまふりを起こしさえすれば、香りが直ちに振るえ始めるのがわかるだろう。
非常に細やかな超微細粒子が、精細に振動しながら香りというダンスを踊る。頭の中に、香りがしみ込んでくる感じがする。
これをやると、脳の中の隅々までが香りで洗われたようになって、脳がものすごく爽快になる。北極並の冷ややかさ、とまではいわぬが、かなり冷たく感じるから、これがいわゆる「頭寒」に相当する状態かもしれない。
私はヒーリング香道を唱道しようと思っている。香り、匂い、嗅ぐ、嗅ぎ分ける、といった行為に、身体に基づきヒーリング・アーツ流でアプローチしていけば、香りに秘められた驚くべき力が新たに明かされるのではないか?
徳川家康は天下統一後、まず香木(沈香)を求め使者をベトナムへ派遣したと伝えられ、正倉院御物の蘭奢待[らんじゃたい]と名づけられた沈香には、足利義光や織田信長、明治天皇など、時の権力者たちが少しずつ切りとった痕が残っている。
香りは、あまり一般に知られてないことだが、明らかに「脳にいい」。ただし、普通のマッス(かたまり)的嗅ぎ方ではなく、粒子的にほどかれた嗅ぎ方でないと、健脳効果は起こらない。ちょっとしたコツなのだが、完全にマスターするには手間と暇をかけじっくり稽古していく必要があるだろう。それだけの手間ひまをかける価値は、充分ある。
ある時、突然、わかるだろう。
突如として、「内面へ向かって開く」ことが起こり始める。
それが、瞑想と古来より呼ばれてきた「現象」だ。瞑想とは現象・体験であって、方法ではない。
そのレット・オフによる瞑想状態を、嗅ぐという行為とクロスオーバーする。両方同時に、50%ずつ均等に、意識すれば、意識と感覚の交乗(共振)が起こり、「嗅ぐこと」が瞑想的な球状(あるいは3D)意識の元でなされるようになる。
これは、ヒーリング・メディテーションの一手だ。脳を頻繁に気持ちよくさせると、快楽原理によるものか、非常に効率的に働くようになるから、頭を良く使う職業の人々には香りの体感的研究を是非お勧めする。私がこれまで観たところでは、頭脳明晰な人は総じて素晴らしい嗅覚を持っている。
話が大きく逸れた。
枝葉系のホワイトセージの煙は、乳香やドラゴンズ・ブラッドなどの樹脂系と違い、勢い良くどんどん立ち昇っていく。
その鮮烈なまでにかぐわしい煙に、ぎゅうっとマナを込めておいて、カメラにもマナを通しながら帰神撮影していったら・・・これまでとはまた趣の異なる煙の精たちの舞が、次々と連続して立ち顕われてきた。
それにしても、かくも龍の顔(のような形)が頻出するのは、単なる偶然か、あるいは期待の反映か?
まさか龍宮神の顕現、なんてことはないと思いたいが、今や私には確信をもってそれを否定することができない。
私にはわからない。
そして私は、何度も繰り返すが、外なる神を一切信じてない。
私はただ、人々が香を焚いて敬虔に祈るのと同様の態度・姿勢にて、煙の精の瞬間顕現を光学的に斬り撮り、芸術作品として表現することで、世界の美と神秘を讃えようとしている。
その行為そのものが、祖霊(大いなる大元のスピリット)たる神明への捧げ物となる。観照者の、意識の内面を通じて。
私たちは、そこから来て、そこへ還ってゆく。
だから、「そこ」を意識の基底に据える者にとり、死は存在しない。
「そこ」は、「私」(自我)には計り知れない、想像もできない「状態」だ。
「そこ」を、だから、測り知ろうとする努力によっては、魂の実りは極めて少なかろう。
ホワイトセージに話を戻すが、私と妻はトルコを旅行中、かの国ではこれをティーにして飲むことを初めて知った。エーゲ海や地中海あたりでは普通のことらしい。
喉にもいいそうだ。
<2012.06.05 蟷螂生(かまきりしょうず)>