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高木一行
同じ線香でも、数百本に1本くらいの割合で、何か特別な資質を備えたものと出くわすことがある。
今回帰神撮影した線香は、煙精01と02で帰神媒体に使ったのと同じ製品だ。ココナッツ味がしそうなココナッツの香り。
ずっと愛用してきたが、その日選んだ「それ」は、明らかに「違う」ことが、いつものように線香に火を灯して神明へと捧げ、香スタンドにセットした瞬間、「わかった」。
何より、基本のストリームが実に真っ直ぐだ。威勢よく高く真っ直ぐ、真っ直ぐ、伸び上がっていく。作品08の通りに。直の一字を好んだという井上仲子なら大喜びしそうだ。ちなみにあれが、一連の「煙精」シリーズの撮影舞台。
何か、古代の淫靡な趣を備えた神殿とか、黒魔術師の怪しげな実験室のようなものを想像されていた方には申し訳ない。が、どこでも「芸術」はできるということだ。
2階の書斎から直ちに玄関までその線香をうやうやしく運び下ろし、下駄箱上に安置して(ここのところでどれだけ「本気」になれるかで、作品の出来具合が決定的に違ってくる)、帰神撮影を開始した。わが家では、こういう事態に即応できるよう、常にカメラの準備を、夫婦共々、怠らない。これはほとんど、武術家の態度・姿勢に通ずるものだ。
これまで煙精シリーズを帰神撮影し、1つ1つの帰神フォトと観の目で向き合ってきたことで、霊眼がさらに開かれたものか、煙の中に・・・・いろんな姿が・・・・・次々と顕われ出でてはゆらりと崩れ、別のものへと変化していく・・・のが、ありありと・・・・観えるではないか。
観える、観える、確かに観える。面白いくらい、ハッキリ観える。
同じ線香なのに、どうしてこうも違うのか?
分厚い煙は、繊細に流動し、時に溶けた金属のような趣さえみせる。
マナだ。マナ、マナ。
この「違い」を生むものの本質を、南島の人々はマナと呼び、尊んで常に探し求めたのだ。
私は、香の煙の「形」を通じて、観照者の意識を原型的[アーキタイパル]な神話・魔術領域へと導き、煙のスピリットによる独自のヒーリング体験が味わえるよう、これら諸々の煙精シリーズを制作している。
それは「観る」精霊のダンスであり、一幕の深遠なるメディテーションともなる。
ただ、「観える」もの(写真の内容)ばかりに注意を向けるのじゃなく、その間の間合とか、余韻などにも注意を払われんことを是非お勧めする。
面倒くさいとおもわず、最後のフォトが消えてくらくなっていき始める、そこで「席を立って」しまわず、観の目をじっと保ったまま、完全に画面が消失するまで微動だにしない。
わずか数秒のことだが、慌ただしく「次」へ移ろっていこうとするか、じっと「今、ここ」に留まり目を瞠り続けているか、どちらを選ぶかで、スライドショー観照の効果にかなりの違いが出るから要注意だ。
画面がすうーっと消えていく。
それと共に、み守っている「自分」も消えていく。
これは非常に面白いし、いったん全部が解体されてリセットされることは、心と体の健康を大いに促進する。
これを、私は自分自身の瞑想として日々、いろんなスライドショーを観るたび励行している。
驚くべきことに、スライドショーを観ることそのものが、龍宮拳の熟達を直ちに促す。
龍宮拳には、今のところ、パラオで帰神撮影した作品が一番「効く」ようだ。これまで発表した龍宮拳の術[わざ]は、ディスコース『レインボーズ・エンド』を始めとするパラオ巡礼シリーズの観照中に御吾(みあれ:聖性を帯びたものの顕現。エリアーデのいわゆるヒエロファニー)してきたものが圧倒的に多い。PC画面上の写真から発せられる光の波紋が、観の目を通じ脳にダウンロードされるらしい。スライドショーを観ていると、ある瞬間を境として、突如として、新しい術[わざ]が「できる」ようになっているのだ。
<2012.06.05 蟷螂生(かまきりしょうず)>