01
02
03
04
05
06
07
08
09
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
高木一行
私たち夫婦の結婚記念日を祝し、太占的意味合いも込め、例によってわが家の下駄箱上を精霊舞台とみたて、粛々として帰神撮影を執り行なった。
今回使用したのは没薬[もつやく]。古代エジプトでミイラ造りに不可欠とされた樹脂だ。ミイラ(木乃伊)は、ミルラ(没薬)がなまったもの、という珍説さえきいたことがある。
煙精シリーズの観照を通じ自ずから深まっていった観の目を使えば、ファインダー越しに煙のストリームが複雑に絡まり合い、交合し合いながら、いろんな「いきもの」の形(いのちの器)を刹那刹那に産み・とかしていく様が・・・・前回にも増してさらに一層ハッキリ、・・・観える、観える、くっきり観える。こりゃすごい。
あんなものを、生まれて初めて観た。
香の煙とは、プラチナに輝く大小様々な龍による、いのちの流動にほかならなかった。
生命機械みたいな生々しい金属の質感を帯びつつ、龍の頭やらしっぽやら腕やら足やら、なんやかやがぐるぐる複雑にジャングルの蔓植物みたいにからまりあい、かと思えば宇宙龍の巨大な頭が何もかも一切を呑み込んでいったり・・・・。作品17、18などに、その有り様が特によく写し撮られている。
何だか、大宇宙の神秘をのぞき込んでいるみたいな、そんな壮大さを、私は香煙の裡に感じる。私は煙に宇宙をみている。
帰神フォトを通じ、あなたも、煙が描く超宇宙アートを観照(観賞)できる。外側の対象へ向かって意識が出て行く通常の観賞に対し、観照においては意識は自分自身の内面へと内向している。それで私はわざと観照という書き方をしている。
既成概念(あれこれ思うことすべて)をいったん脇に置き(必要ならまた後で拾えばよろしい)、虚心坦懐(=観の目)に、スライドショーと向かい合っていっていただきたい。
観ながら、左右のももを掌で交互に素早く、軽快に、リズミカルに、連続的に、叩く。叩いたり、やめたりしながら何度も比較していけば、ももを叩きながら観ることで、観の目のみえ方がぐっと深まり、立体感がおどろくほど増すことがわかるだろう。
時にびっくりするようなリアルな姿・形が映し出されてくるが、私は以前も述べたが、描線・描画的な加工をすべての写真に対し一切加えてない。
一番わかりやすい状態に調節するため、現像(カメラで撮ったデータをPC上で1つの画面として定着させる)段階で明暗の度合いなどを変えたりすることは、もちろん、よくある。が、何かにみえるよう人為的に描き加えることは一切してない。
にもかかわらず、この龍、龍、龍のオンパレードはいかにしたことか?
これはあるいは、私の意識とか期待が、何か思いもかけぬ形で反映しているのだろうか? とすれば、あなたは、私の頭の中をのぞいていることになる?
さしも能天気な妻でさえ、観ながら「これはただごとではない」と思わず独語した。私も編集作業中、思わず粛然として、姿勢を正さざるを得ないことが幾度もあった。
没薬の煙は、まったりした趣のある他の樹脂煙と違って、何だか急[せ]いているみたいに、ボンボンどんどん勢いよく、勇ましく、立ち昇っていく。
それを帰神フォトで斬り撮っていった結果、これまでとはまた違った趣を備えた、一連の超越フォトが、あたかも神明の意を映すかのごとくにして、次々と立ち顕われてきた!
神話的な龍というシンボリズムを、可能な限りあらゆるフォルムを通じ表現しようとするかのごとき、神の宇宙スケッチ。
作品23はミルラ(木乃伊)男。
龍族にとっては宿敵の、金翅鳥王[こんじちょうおう]らしき横顔も(作品25)。
龍の群舞はいつしか、神話的なコズミック・ダンスへと、変容を遂げていった。
ミイラ(魅入ら)れる、とは、このことか。
いったんチューニングが合うと、吸いついたみたいに目が離せなくなるほど、物凄く面白いものがみえてくる。
と同時に、観られている、とも強烈に感じ始めるだろう。
あなたはこれまで煙の中に、いくつの「目」を発見しただろう?
帰神フォトとは、実際、相当に呪術的な様相を帯びた芸術様式といえる。
あなたが名前や言葉にとらわれなくなり、リラックスしながらずっと観の目を保ち続けることができるようになったなら・・・香煙を神明に捧げながら瞑想しているのと同じ状態が、帰神フォトのマナによって創り出され、・・・思考が・・・ぷつんと途絶える現象が、起こり始めるだろう。
あなたは、ヒーリング・メディテーションの世界へ参入したのだ。
<2012.06.07 蟷螂生>