Healing Sound

ヒーリング・ダイアリー3

1月12日(水) 続・ヒーリング・フォトグラフ

 ヒーリング・フォトグラフの撮影や鑑賞で「観の目」が養われていく過程で、以前の私はいろいろなものが全然みえてなかった事実が自覚できるようになってきた。
 雑踏の中で人と話をする時など、自分の聴きたい音(相手の声)だけを拾って聴いている。それと同じく、目にも自分がみたいものだけを選択的にみる、一種のフィルター機能があるようだ。
 
 以前の「みえていなかった」、「みたいものだけをみる」状態の私は、写真撮影の基本ルールをことごとく無視していた。
 たとえば、人物、動物などを写そうとすると、それ以外何もみえなくなり、背景がお留守になる。気づかないうちに余計なものが写りこみ、作品全体を台無しにしてしまうのだ。
 また水平・垂直感覚が希薄で、画面全体が大きく傾いていたり、上から見下ろしたように人物の頭が異様に大きくなってしまうなど、繰り返し注意されて改めようと努力するのだが、全然改善されなかった。
 
 今は、もし被写体の後ろに不必要なものが入りこんできたら、ほとんど自動的に角度や距離を変え、それを避けるようになっている。また対象物とカメラレンズとの位置関係にあわせて、腰腹を中心にして姿勢を低くするなど、全身のバランスをはかりつつ、自分の体勢を微調整していく。
 庭の花を撮影しようとする際など、土の上に腹ばいになることもしばしばだ。以前の私なら、そもそも考えつきもしなかった行為だ。

<花精>シリーズより(クリックで拡大)。

 みえなかったものがみえるようになる、というのは不思議な話だが、メドゥーサ修法で観の目の稽古をしているうち、自然に「みえる」ようになってくる。夫によれば、これは通常の視力とも動体視力とも異なる、第3の視力であるという。
 観の目は、楽譜を読む際にもおおいに力を発揮するのでとても助かっている。
 譜読みが苦手だった私は、昔は新しい曲をこなすのに非常に苦労していた。楽譜を読むだけで膨大な時間がかかってしまうのである。
 ところが、観の目で楽譜をみると、視界の中に楽譜が一枚の絵のように写ってきて、それを頭で考えずとも、体が自然に弾いてくれる。
 観の目を使うと、ひとつひとつの音符をネズミが目の前の床を追っていくようにでなく、ワシが空から世界全体を一望するように、1小節まるごとパッとみることができるようになる。
 譜読みで天才的な勘のはたらく人は、1小節どころか数小節分、あるいは1ページ分でも一目で把握・認識できる。これも観の目の応用的な使い方のひとつではないだろうか。以前の私からすれば、こういうことができる人たち(学生時代の同級生等)は同じ人間とは思えず、宇宙人、あるいは超能力者ではないかと思えるくらい、自分とはかけ離れた人種だと思っていたのだが、ヒーリング・アーツを修練するうちに、そうした能力(の一端)が自然に身につきつつあるところがすごい。まさに、ヒーリング・アーツさまさま、である。
 今では、新しい曲の譜面を読むことにほとんどストレスを感じない。最近は、バッハの平均律(チェンバロ)や無伴奏チェロ組曲(マリンバ)など、いろいろな曲の試し弾きを楽しんでいる。

1月17日(月) ヒーリング・フォトグラフ 感想1

写真1:手ほどき(クリックで拡大・以下同)
具体的修法については、ヒーリング・ディスコース各論や『奇跡の手 ヒーリング・タッチ』などで詳しく解説されている。

 ヒーリング・アーツ基本修法の1つである<手ほどき>を、夫の実演にて帰神撮影したら、面白い作品がたくさんあらわれてきた。上はそのうちの1枚(舞)だ。
 私たちの帰神撮影では、古神道の鎮魂法・帰神法の作法を現代的にアレンジした独自の式次第に則り、数時間以上かけて徹底的に心身を禊祓った後、うやうやしく撮影儀礼へと臨む。
 別に頭で考え出したわけでなく、自然にそういう流れが長年の修養体験の中から立ち現われてきた。

 手ほどきの撮影中、ファインダーをとおして清冽ないやしの波が響いてくる・・・。それを、私はずっと感じていた。体の内側の奥の奥まで、柔らかなタッチでやさしく撫でられ、あるいは掃き清められるかのようであり、涼やかな風が身体の裡を吹き抜け流れていくかのごとく、だ。とにかく、「観て」いるだけで気持ちよくなってくる。
 そんな風に感じるのは、どうやら私だけではないらしい。
 次々と顕われてくるヒーリング・フォトグラフの作品を、 プライベートなウェブサイト・ギャラリー(仮設)で一連のスライドショーとして公開し、ヒーリング・ネットワークの同朋諸氏と少しずつ分かち合いはじめたのだが、誰もが口を揃え、「ヒーリング・アーツの練修にものすごく効く!」と大喜びしているのだ。
 岡山県のKさん(龍神会。ヒーリング・アーツ修養者)からは、以下の感想が寄せられた。

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「手ほどき」のヒーリング・フォトを拝見する前後で、実際に手ほどきをして、違いを確認してみました。
 フォトを観つつ行なうと、粒子感覚、緩急、ヴァリエーション、すべてがまったく変わってしまい、ここまで違うものかと感嘆してしまいました。「こんな振り方したことないぞ!」「そういえばこれまで、緩急をつけて振ったこともないな・・」など、自分では気づけない事が、フォトを通じてご教示いただき、驚くばかりでした。
 (中略)
 そしてアムリタ。こちらのフォトでは、画面に手をかざし、先生の手と自分の手をクロスオーバーさせてみました。すると・・・何と細やかで激しいたまふり感覚! かざしていない方の手との感覚の違いたるや、凄まじい差があります。やがて手からアムリタ(注:聖なるいやしの甘露)が流れ落ちる感覚が感じられると同時に、なぜか下腹がほんのりと暖かくなってきました。「目覚めた!」「生き返った!」という感じです。

写真2:アムリタ

 ある人は、自宅での練修中、上記『アムリタ』の帰神フォトを通じ、次のような超越体験をしたという。

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 最初は御写真のなかの先生の手から溢れ流れるアムリタにいやされていたのですが、突然、先生の巨大な手が遥か頭上に掲げられたかと思うと、その手からアムリタの滝が流れ落ち、全身がその滝に打たれ、深く心身が洗い清められていくことを感じました。<大阪府 Wさん>

 ・・・・・・・・・

 こういう風に「感じ・動く」ことができるようになるためには、「観の目」というパスワードが不可欠だ。次回は、これについて私自身の経験を元に書いてみたいと思う。

1月29日(土) 観の目

 先日の天行院伝授会において、ちょっとした検証の時間が何度か設けられた。帰神フォトがヒーリング・アーツの練修にどういう影響を及ぼすか、という実験だ。
 驚いたことに、ヒーリング・アーツの各修法がたしかに、それも格段に熟達していくことを、参加者全員が繰り返し味わって確認した。観の目で帰神フォトと向かいあえば、突如として身体の使われ方が変わり、まるで何ものかに内面から導かれるようにして、修法の熟達がその場で起こっていくのだ。

 あまりにすごすぎる。しかし、事実としてそういう不思議なことが起こり始めている。いろいろな人の体験談もどんどん増えている。それらの体験談では、「霊的エネルギーが全身をかけ巡る」とか、「神との接触を感じた」「これまでできなかった動きが突然できるようになった」「感覚の深まりと多層化が起こった」「歓喜に包まれた」などなど、いろいろな素晴らしい現象が報告されている。
 中には、「商売大繁盛」「元気が出る」「運気が変わった」「大金が転がり込んできた」「人生の価値観が変わった」といった、宗教のおかげ話のような報告まである(その数は決して少なくない)。そこまでいくと、ちょっと首をかしげざるを得ないが、しかし「本当に効く」という声が続出していることは事実なのだ。
 非公式に作品を発表し始めてから今日までの約2ヶ月間、新しい「御利益話」を聴かなかった日はほとんどないのではないか。

 改めて考えてみれば、帰神フォトとは霊(スピリット)のみしるし・顕われ(験)以外の何ものでもないのかもしれない。スピリットの導きにしたがいつつ撮影する時、霊的な姿が時に明瞭にリアルに、時に幽玄に、あるいはシンボリックに、写真自身の裡から顕われ出てくるのだ。
 夫は今からちょうど30年前、「将来、みえざる世界の存在をみえるようにするある種のテクノロジーを開発する」という「託宣」を、帰神法研究の際、受けたことがあるそうだ。あれは、これ(帰神フォト)のことをさしていたのだと今ハッキリわかる、と夫は言っている。
 帰神フォトとは、デジタルカメラとコンピュータを通じて神明(神々や精霊)と交感しつつ、神の御影[みかげ]に御神気を封じ込めようとする試みだ。
 
 帰神フォトから「御利益」を蒙るためには、前回も述べたが、観の目を覚醒させ、養わねばならない。それは、視覚のある種の使い方なので、トレーニングすればするほど、どんどん熟達する。そうなれば、帰神フォトとの共感度がさらに深まり、フォトに封印された御神気が観の目により発動するようになる。観の目を通じて、視覚情報として写真上に記録された霊的情報(マナ)が、観る者の裡に流れ込んでくる。いわゆる「聖なる流入」だ。
 
 こうした超越体験を引き起こすキーである「観の目」の稽古法について、私なりに記してみたい。

クリックすると拡大・以下同

 まず、上掲の帰神フォト(かすみ草)の、真ん中より少し下にある部分、花のあたりに視点を定めてみていただきたい。花ひとつ分くらいの範囲を凝視し、そこだけに意識を集中させるようにギューッとみつめていく。
 そのためには、花の周囲の輪郭を想定し、そこから外側(拡散方向)と内側(凝縮方向)とをエリア別けする。そして、内側だけに意識を納めて、そこから外側エリアを「包みこみ、溢れ迫ってこようとするもの」として認識する。
 これによって、強力な<集中>が発生する。
 集中するためには、「集中しよう」と抽象的に決意するよりも、集中という行為の本質を幾何学的に変換・表現し、その幾何学性を体性感覚(広義の触覚)を通じて運用する方が、はるかに有益・有効だ。

 上記の集中段階から、境界線の内側だけに「居る」ことを、レット・オフしてしまう。境界線は常に変わらず認識しつづけながら、その内にも外にもあらゆるところに満遍なく遍在するようにする。
 視点(エリア)をまず見つめ(見[けん]の目)、定めた視点を一切変えないまま、「見つめようと集中すること」だけをレット・オフでやめる。視点を見るというコマンドはそのままで、視点だけを見つめようとするコマンドのみレット・オフする。
 レット・オフ後も、決して視点を変えず、まばたきをしない、身動きもしないようにすること(静中求動)は、ヒーリング・ディスコースの各所で表現を変えつつ何度も繰り返し説かれているが、確かに非常に大切なポイントだ。

 しばらくレット・オフを保ったままみつづけていると、視点を定めておいた花が前にせり出すように浮き上がってきて、まるで本物の花がそこにあるかのように、生々しいリアルさが感じられてくる。3D画像をはるかに越える複雑な空間性(モノとモノの間の空間の関係性)が、写真全体に備わるようになる。
 レット・オフで観の目に切り替わった途端、フォトの裡側から光がポッと灯るような感覚も起こる。光と影のコントラストが強烈になり、みえていなかったさまざまな情報が、高性能カメラで写し取られるように、目の中に自然に入ってきはじめるのだ。視神経がくつろぎ、大容量の視覚信号が流れることが、如実に感じられる。

 はじめはなかなかうまくいかなくても、何度も、ゆっくり時間をかけて練修すれば、レット・オフで「観の目」に切り替わるようになる。また、はじめに定める視点の大きさは、最初のうちは花ひとつ分くらいからはじめるが、慣れてくるにしたがい、極小の一点に絞りこんでいくようにすると、レット・オフの作用が強力になり、より奥深い観の目の醍醐味を味わうことができる。

 次の帰神フォトも、かすみ草の花束を接写したものだ。この作品は普通にみても、花と花との空間性が奇妙に歪んでおり、どこが前でどこが後ろに属するのか、ちょっとみただけでは判断がつきかねるような遠近感の錯乱が起こるかもしれない。
 これに観の目を適用し(視点は各自適当に選択)、じっと向かい合っていると、凍結し、凝固したような空気の中で、超次元クリーチャーがブンブン振るえながら飛び回っているようにもみえてくる。
 それぞれの花から発せられるヴァイブレーション(たまふり)が、枝茎の立体ネットワークを通じて響き合っているのだ。花たちの振動が、超空間的に(岡本太郎のいう真空的に)、こちらをビリビリッと打ってくるのがおわかりだろうか?
「あれらに極めて近いものを観ながら(感じながら)、いつも撮っている」と私たちが言うと、多くの人がびっくりする。 帰神フォトとは撮影者が霊的に観たまま、感じたままを、ダイレクトに写真映像として写し撮る手法なのだ。
 あるいは、帰神フォトを一目みて、「自分もこういうものを霊的に味わった経験があるが、それが写真に写っている!」と、異常な感激を示す人もいる。

※「観の目」のより専門的な稽古法については、ディスコースの『ボルネオ巡礼:2009』や『奇跡の手 ヒーリング・タッチ』などに詳しい。