Healing Sound

ヒーリング・ダイアリー2

12月7日(火)『福揺すり』の感想2

 先日行なわれたヒーリング相承会で、参加者の方々(ヒーリング・アーツの入門者〜中級者)に『福揺すり』の効果を検証していただいた。
 以下はその報告の一部だ。

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◎顕動を行っているときに『福揺すり』が流れると、今までに感じたことのない、細かい泡が湧き立つような振動が自然に起きるのを感じました。また、STMの際には、『福揺すり』が流れ始めた瞬間から、自分と音楽の境がないような感覚になり、弾けるような躍動感を感じ、自分自身が音楽の一部になってリズムを刻んでいるような動きが顕れてきました。<Y.W. 男性・大阪府>

◎STMの動きをより活発化する、動きを誘発する作用があるように思います。音楽が始まる前よりも、後は、より大きな自然な動きが出ました。また、聴いているだけでも楽しい波紋を感じます。つい一緒に揺すりあるいは音をたてたくなるような曲でした。<T.K. 男性・東京都>

◎『福揺すり』を聴かせていただいていますと、STMや顕動を行なっている身体が音楽に包みこまれ、融け合い、揺さぶられ、より頭で考える部分を抑えた根源的な動きへと音楽が導いていってくださるのを見守っている感覚になり、やがて音の精と舞っているような陶酔感に魅了されました。<K.M. 男性・愛知県>

12月30日(木) ヒーリング・フォトグラフ(前編)

 ヒーリング随感2(第24回)で紹介されたスライドショーの写真撮影(2010.10.15)以来、すっかりヒーリング・アーツ流・写真術の虜になってしまった。
 夫とともに夢中になって、この新しい道に取り組んでいる。
 ところが、以前の私は、写真撮影が大の苦手で、下手だったのである。

 上手い・下手、といってもレベルがあると思うが、0〜10までの段階があるとすると、0をとおりこしてマイナスに大きくいってしまうほど、信じ難いほどの下手さ加減だった。
「こんなひどい写真はみたことがない」と、夫に厳しく叱責されたことも数知れない(そんな時の夫はまったく情け容赦がない)。 
 ヒーリング・アーティストを志す者として、完全に失格といえる。
 あまりにも平坦、平面的で、立体感のまるでない薄っぺらな写真や、何がいいたいのかさっぱりわからない写真が山のようにできあがるたび、「私は音楽以外何もできない役立たずではないのか?」と真剣に悩み、涙を流し、苦悶してきた。
 夫の超越的な<舞>を写真に納められないことこそ、私の最大の悩みであった。

 夫は類い稀なる「舞手」であり、彼が姿勢を正して舞いはじめると、あたりの雰囲気がサッと変わる。
 何年か前、バリ舞踏と音楽の公演が福岡で開催された時のことだ。ヒーリング・ネットワークの友人たちが席を用意してくださり、夫とともに出かけていった。
 バリ島の一流演奏家と踊り手たちによる素晴らしい演目の数々を堪能した後、観客が何名かステージに招かれ、一緒に踊るという(よくある)趣向となった。
 そこで、夫が誘われて舞ったといえばあまりにできすぎた話のようだが、実際にそうなって、招かれるまま舞台にのぼり、さっと振り向きざま夫が神明流の舞に入ると、まるでそこから巨大な光の花(華)がぱっと会場いっぱいに咲き広がったかのようで、私たちとは関係ないほかの観客までが、思わず「わあっ」と歓声を上げていた。
 熟練の踊り手たちもびっくりして目を見開き、感嘆と称賛のポーズをしばしば示しながら、夫との一時の舞を楽しんでいた。そして、終わり際には、両手を合わせ深々とおじぎをして、夫への(あるいは夫がこれまで積んできた努力・研鑽に対しての)敬意を表わしていた。
 これとよく似た光景を、私は夫とともに世界各地を旅する中で、何度も繰り返し目撃してきたのである。

 先般執り行なわれたボルネオ巡礼の際、夫の舞がオラン・スンガイ(河の民)たちに絶賛された出来事については、『ヒーリング随感2』第21回に詳しい。私はその様子をごく間近で実際にみていたわけだが、それ以降ホテルスタッフの青年たちが夫に向ける熱烈な尊敬のまなざしときたら、まるで武術の達人か何かを、憧れをこめてみつめるみたいだった。
 リゾートを去る前夜、私たち2人だけのために歓送会が開かれたのだが、スタッフは全員正装、近所の村人までたくさん集まってきて、歌や踊りが賑やかに披露された。
 その際、スタッフの青年らによる武術の演舞もあったのだが、1人1人が椅子に腰かけた夫に向きあい、まずうやうやしく合掌・一礼し、それから習い覚えた型を表演していく。そうした彼らの態度・姿には、マーシャル・アーツ・マスターに対する深い敬意とか、優れた境地に達し得た先輩への共感などがにじみ出ていて、深く感動させられた。
 中にはおちゃめな者もいて、夫の間近に迫りつつ、夫に向かってつぎつぎとわざを繰り出してみせる。と思った次の瞬間、椅子に座ったままの夫に軽くあしらわれて頭の上をポカッとやられ(実際には打つ寸前で止めている)、観客の失笑を買ったりしていた。

 夫の超絶的な舞をカメラで写しとるなど、そもそも無理な話ではないか。そんな風に、私は諦めかけていた。
 しかし、ヒーリング・アーツによって、奇跡(としか私には思えない出来事)が現実に起きたのである。

1月7日(金) ヒーリング・フォトグラフ(後編)

 昨年7〜8月に執り行なわれたボルネオ巡礼中、夫は「ヒーリング・フォトグラフ道」に開眼したという。その時の作品のいくつかは、『ヒーリング随感2』で紹介されている(第181920回)。あれらがとても好評で、多方面における「その道のプロ」の方々にまでお褒めいただいたくらいだ。
 ヒーリング・フォトグラフとは、夫によれば、ヒーリング・アーツをそのまま写真術へと応用したものであるという。
 たとえば、カメラを手に取る際にはヒーリング・タッチの原理を適用し、カメラの形(空間性)を触覚的に感じる。ファインダーを覗く目は、メドゥーサ修法による観の目。シャッターを指先で「押し」てはいけない。身体の内面に意識を納めつつ、レット・オフ状態で撮る。・・・そういった実践論だ。

 写真撮影がからきし駄目だった私が、ヒーリング・フォトグラフの教えにしたがうことで、もし、まともな写真を撮れるようになりでもしたら、・・・それは(少なくとも私にとって)途方もなくすごいことであり、ヒーリング・アーツに人の芸術性を開花させる力があることの新たな立証にもなる。
 そのように夫と話しあい、どちらかといえば実験的意味合いで、2010年10月15日夜、天行院にて、夫の舞を私がヒーリング撮影することになった。
 超意識状態を拓いて精霊世界と交流し、聖なる叡知[マナ]をヴィジョン・クエストする夫の姿を、ヒーリング・フォトグラフがどれだけ霊写できるか。大いなる挑戦である。

 まず最初に、カメラの持ち方、ファインダーのみ方、シャッターの切り方、呼吸法、姿勢などについて教わったが、これまでまったくのでたらめをやっていたことが直ちに判明した。
 例えば、目は顔に斜めについているのに(『ヒーリング随感2』第24回参照)、以前の私はファインダーに目全体を押し付けるようにしていた。それでは、画面全体の意識が歪む。
 一事が万事こういう調子で、そもそもファインダーを通じ空間的に「観て」いない状態では、立体感のある写真など撮れるはずもなかったのだ。

 これまでとはまったく違うといっていいほどの撮影法に最初はとまどったが、要領がわかると、「手応え」のようなものが実際に感じられるようになってきた。
 あっ、と感じた瞬間、シャッターが切れている。
 思わず「おお!」と声が漏れてしまう。ファインダーの中で、超越的力を全身に宿した夫が、巨大な超立体仏像のように聳えている。光と影の絶妙なコントラストが、スピリットの存在を際立たせている。まるで燃えているように。
 無我夢中でシャッターを切り続けた。
「撮れた!」「ここだ!」と「わかる」。生れて初めて味わう種類の、感・動だった。

 光の当て具合やカメラの位置、角度、シャッタースピードなど、あれこれ試行錯誤していくうち、もうボロボロに疲れ切って、撮影を終了した。
 だが、一休みする間もなく、デジタル現像・編集作業に突入。
 するとどうだろう。夫をもうならせるほど、すごい写真が、次々とできあがっていくではないか! そのたびごとに歓喜のような生命力の高まりを、私は感じた。いわゆる<樂[たのし]>の状態だ。
 これまで私が夫の舞をみながら感じていたもの、ずっと表現したかったものが、芸術的な視覚表現となって、そのまま写真に映し出されている。
 聖なる輝き、光と闇の交合、厳粛さ・荘厳さ、目にも止まらない速さ、あるいは異様な遅さ(それをみると「時間停止」を経験する人も多い)、力強さ、滑らかさ、なまめかしさ。美しく、圧倒される。
 この日をもって、私もヒーリング・フォトグラフに「開眼」した。「眼が開かれる」とは、まったくその通りであり、言い得て妙だと思う。

 ヒーリング・フォトグラフとは、もしかすると、21世紀式のまったく新しい、神々との交流法なのかもしれない。デジタルカメラが現在のレベルに進化を遂げるまで、人類には閉ざされていた可能性だ。
 夫が龍爪掌(注1)を修する様をヒーリング撮影すると、本当に龍のような姿・形が写真の中にあらわれ、私がモデル/巫女となって帰神法(注2)で兎のスピリットを降ろし招けば、私の顔は見事にシェイプシフトしてウサギそっくりになる(下写真参照。クリックすると拡大)。

写真1

写真2

 ガネーシャ、弁才天、バステト(古代エジプトの猫女神)、ガイアなどなど、超越的存在のさまざまな姿が、帰神ヒーリング・フォトグラフとして、今現在も次々と顕現しつつある。
 そればかりでなく、聖地や遺跡建造物、草木や花など、さまざまな姿・形の裡に秘められた美/生命力/光を写し撮ることが、ヒーリング・フォトグラフにはできるようだ。
 あの、私にとって特別となった日から今日まで、わずか3ヶ月が経過したに過ぎないが、その間、ヒーリング・フォトグラフのさまざまな可能性を、夫とともに夢中になって探求してきた。
 作品もずいぶんたくさんでき上がった。近い将来、ヒーリング・ネットワークのウェブサイト上で、何らかの形でまとめて発表予定だ。

注1:球にヒーリング・タッチし、球状波紋を身体内でさまざまに生じさせる修法。龍が舞うような統一運動がSTMとして発生し、流れるようにしなやかな心身を錬り鍛えることができる。
注2:古神道の降神術。