編集:高木一行
先生は、60日間に及んだ留置・取り調べの期間中、冤罪を主張して抗議の完全断食を貫かれましたが、そのような特殊な状況下でレット・オフを使えば、途方もない意識の深みにまで作用が及ぶのではないでしょうか? 留置場の中で断食しながら執筆された作品には、そのことについて何ヶ所も言及があります。
先生の逮捕・取り調べを指揮した大阪水上警察の薬物対策課長が、精神に変調を来たすという変事もありました。
あれは、取り調べが終わって拘置所に移された後で、取り調べ担当の刑事が私用で突然尋ねてきたのだった(そういうことは、普通、「あり得ない」)。
「うちのボスが高木さんの言った通り、最近言動が怪しくなってきて、職場で突然奇声を発したり、被疑者に教えてはいけない情報を教えてしまったり、ぶつぶつ独り言をつぶやいたり、同じ指示を何度も繰り返すなど、皆困っている。どうしたらいいか」、なんて真剣に相談されたんだが、今思い起こしても、実に奇妙な話ではある。
猫を怖がらせた不届き者どものリーダーに、獅子女神セクメトの神罰がくだったのかねえ。
そういえば、その相談に来た刑事は、後に実名で、私の裁判支援の会に入会を申し込んできたそうだ。妻が弁護士と相談して断ったらしいが。
先生の逮捕をきっかけとして、ヒーリング・ネットワークがいったん解散されましたが、コロナ禍で多くの店や会社が経営破綻し、休業へと追い込まれ、生活を破壊された人が大勢いることと対応しているように感じられてなりません。
また、第一波、第二波、という言い方にも、波紋を原理とする龍宮道が暗示されているような気がしてしまうのですが、ちょっと考えすぎかもしれません。
自分の奥底で日本社会や人類種全般について、「せいぜいひどい目に合うがよい」というドロドロした思いが積もり積もっていたことに、先生の出所後初めて気づき、愕然としました。
新型コロナウイルス感染発生以降、人々が旅行どころか普段の外出もおそれ規制される世の中となり、冤罪で刑務所に収監された先生が体験されている不便さのごく一部でも社会全体が味わわされていることを、いい気味だと感じてしまう自分がいました。
世界中で外出自粛になってすぐ、世界最悪の大気汚染と言われたデリー市街の空気が澄んでヒマラヤが見えるようになったとか、普段めったに見かけないジュゴンが群れで出現したとか、気候変動による各地の終末的被害状況、モーリシャス沖でのタンカー座礁による石油流出、海面上昇によるマーシャル諸島の核実験廃棄物を封じ込めた石棺の崩壊、日本の入管での収容者の虐待やアメリカでの黒人射殺、民主化運動弾圧など、様々なニュースが慌ただしく飛び交うのを目にするうちに、具体的な言葉として思考してきたわけではありませんが、人間は存在そのものが悪であり、地球環境や人類以外の全ての生命にとっては、迷惑千万な存在なのではないかという感覚を、何度も感じていたことが思い出されてきました。
コロナ感染をおそれて、ワクチンだ抗体だと叫ばれていますが、人類種というのは地球環境にとって悪影響しかない癌やウイルスみたいなもので、ほぼ人間にだけ強い症状が出る新型コロナウイルスこそが人類を駆逐する地球の抗体なのではないか、とすら感じる瞬間もありました。
人類が地球にとって悪そのものである実感と同時に、果たして人類という存在に救済される資格があるのか? 無いのではないか? という深い疑いが何度も起きていました。
当然自分もきっとひどいことになるのは分かっているのですが、ある種の怨念のような、人類全てが思い知らされるのであればその中に自分が入っているのは当たり前ではないかと感じていました。
と、自分自身がその「悪」の一員であると自覚できた瞬間にオフになる感覚があり、人類が自業自得でひどい目にあって滅ぶのは人類に限っていえば結構かもしれないが、他の生物や環境が巻き添え、道連れで被害を受けてしまうことや、さんざん荒らした後に後始末もせず、回復の道筋も繋げず滅ぶのは、身勝手の極みで全く結構ではない、と我に返りました。
人類は、自分たちのためだけでない大きな反転、意識のレベルの上昇が必要であり、全く新たな調和の形がもたらされなければならない、という思いを強くしました。
ついに、人類そのものが「有罪」となってしまったか。反転もここに極まれり、という感じだ。
しかし、実際のところ、この惑星とそこに棲む生き物たちにとり、人類は「悪いもの」であり、「いない方がいいもの」となってしまっていることは、残念ながら、「合理的疑いを差し挟む余地」がないようだ。
人類は確かに、地球の調和を乱している。己(人類)自身の強欲を満たすため、惑星規模でバランスを崩す行為を、平然と大規模・継続的に行ないつつある。
そしてその酬いが、人類自身に向け、跳ね返って来始めた。
今、多くの人々が、「静かなる有事」を、肌のざわめきとして感じているに違いない。
道上君が、自らのネガティヴな思いに気づき愕然とした、という件についてもコメントしておきたい。
そういう「いけない、悪い考え」を抱いてはならない、などと私はこれまで一度たりとも教えたことがない。そのこと自体、まったく普通であり、自然だ。
無力な個人を国家権力が理不尽に弾圧し、押しつぶそうとしたこと、そのような無法を社会が容認・黙認してしまっていること、社会が根っこのところから腐っていること、それに対し、憤りを感じ、怒り、復讐心を抱くのはごく普通の心情だ。
怒るべき時に怒り、悲しむべき時に悲しむことさえできないような、そんな鈍感な無神経野郎を作り上げることが、心身修養の目的なんかであっていいはずがない。
ただ一つ、私が問題とするのは、「愕然とした」という点だ。
それは、自分の中にあるものを否定していることを意味する。正しくないと批判している。戦っている。押さえつけようとしている。説得しようとしている。あるいは弁解を試みている。なんとか納得できるバランスポイントを見つけようとしている。・・・そういった葛藤こそが、「正しくない」。
それは、脳をすり減らす。そんなのは龍宮道の流儀じゃない。
怒りを覚えた、恨みたくなった、人類の悪い状況に快哉を叫んでいる自分がいる、・・・すべて結構。
龍宮道はすべてを容し、受け容れる。そして、それを一瞬たりとも抱え込まず、流れの中に手放すことを教える。
自分というものがあって、葛藤を感じており、それを目の前にある川に流すみたいに手放す、そういうことではない。これはレット・オフの本質にも通じることだ。
瞑想のコツとして、「思考や感情が沸き起こってきたなら、それに囚われず、流し続ける」、という教えがある。言いたいことは多分同じなのだろうが、そういう言い方ではうまく伝わらない。
「流す」と聞くと大抵の人は、「自分が」今の場所にいるままで、思考を手放し、(目の前にある川などに)流そうとするイメージを思い描くだろう。そうではなく、流れの中に丸ごと全身で飛び込み、流れそのものと化してしまうのだ。
この、自己存在感そのものを流れに投じ、流れと同化することを、龍宮道では「流心」と呼ぶ。瞑想の基本であり、龍宮道は流心をもってすべてのわざを一貫する。
自分が(思考を)流すのではなく、自分そのものが流れ続けておれば、執着も、思い煩いも、囚われも、ない。身体も、自然に流れるようになる。
・・・さて、道草はこれくらいにしておこう。
一応、念のため言っておくが、世界が悪くなるようにと仕返しに呪ったりなど、していない(呵々大笑)。
世界に起こることを私が先んじて体験したのか、あるいは私の経験が世界に起こったのか、どちらが先でどちらが後とも言えない超越性。
それこそが、芸術の本質だ。呪術と芸術が出会うところだ。「世界を生きる」ということだ。
法廷で職業を問われ、これまで真剣に生きてきた全人生の重みをもって「芸術家」と応えた。が、裁判官らは認めようとせず、あざ笑うかのごとく、「無職(自称・芸術家)」(判決文より)と決めつけた。
ヒーリング・ネットワーク1のウェブサイトを、新しい様式の芸術作品として、私は創作したのだが、それによって収益を得ていないのだから芸術家ではない、・・・のだそうだ。
私が芸術家と述べたのは、収入を得る方法のことではなくて、生き方についてであり、「世界を生きる者」という意味だ。
世界の流れを鋭敏に察知し、様々な表現を通じ、その流れの先にあるものを人々に告げ知らす役割を果たす者。
かつて武術家、とマスコミなどに勝手に呼ばれ、違うんだけどなあ、といつも違和感を感じていたものだが、「呪術家」であれば妙にしっくりくることに最近気づいた。
これまでやってきたこととも矛盾しない。否、むしろ、これまでずっと呪術家をやっておったのに、そのことに自分自身で気づいてなかった。「魔道士」とか「シャーマン」まではたどり着いていたのだが。
その、さらに先にあるオリジナリティが、「呪術家」だ。
岡本太郎いわく、「芸術は呪術なり」、と。
これからは、世界へ、呪術で働きかける。
かつてJ. クリシュナムルティは、「あらゆる外側の革命、社会改革は本質的に無益であり、内的な精神の革命のみが唯一の、真の革命だ」、と語った。
龍宮道は、レット・オフを使い、世界の内面からヒーリング革命の透明な波紋を起こそうとする新たなムーヴメントだ。
<2021.03.29 雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)>