編集:高木一行
ネッカー・キューブを拝見しました。
グレーの面が右奥になったり手前になったりして変化していくのを味わっておいてから、ひとつの観え方をしている最中、それを強調→レット・オフすると、もう一つの観え方に切り替わることを確認しました。
回転するスケーターの影絵の時は、レット・オフしてからしばらくして反転する感じでしたが、ネッカー・キューブの時は観え方が瞬時に切り替わります。
ネッカー・キューブで少し練修した後、ウェブサイトで発表されている鳩間島巡礼の帰神スライドショーを観照したのですが、何度も観た同じ作品とは思えないほど観え方が変わっていました。非常に立体的で奥行きがあります。
目だけを使って観ているような感覚から、全身で心地よく観ているような感覚に変化しており、帰神フォトの明るさと静けさ、そして透明感が増しているのが感じられました。
ネッカー・キューブを観てから帰神フォト(単体)や帰神スライドショーを観照すると、確かに奥行きや立体感が増しているのがハッキリわかります。
これは、観法(編注:目の使い方)の稽古法としても活用できるのではないでしょうか?
ところで、やや先走った内容ではあると思うのですが、疑問が湧いてきました。
私も含め先生のご指導を受けてきた者は、先生より「遠隔ヒーリング」を受けた体験があります。
それは思い込みやイメージなどとは全く違い、今まで自分で動いたことがないような速さや柔らかさを備えた動きが起こることもあり、それ以前の到達点をはるかに超えた瞑想意識の深まりが起こることもあり、様々なヒーリング体験を重ねてきています。私の場合は、急なぎっくり腰でほとんど動けなかったものが、あらかじめ予告された通りのプロセスをたどって、わずか3日でほぼ完治するという劇的な遠隔ヒーリング体験もありました(先生の裁判中)。
最近、リモート・ラーニングによるご指導が試験的に行なわれましたが、画面で繋がっているとはいえ、先生がご自宅から念をおかけになると、高速で滑るように動き出すSTM(自動運動)が起こったこともあります。
これらの、触れ合っていないところから時空を超えて起こるヒーリング共振も、ヒーリング・タッチやレット・オフにおける神経的な共振や反転の延長線上にある術(わざ)なのでしょうか? こういった現象を理解するには、現代の科学の常識を超えた理論などが必要になるのでしょうか?
ご教示いただけますと幸いです。
レット・オフが深まると、個人的な意識の領域よりもさらに深いところ、「自分」と「他者」とが分かたれておらず神秘的に絡み合っている意識世界(C.G.ユングのいわゆる集合無意識)にまで、レット・オフの作用が及んでゆくのが実際に感じられるようになる。
君たちの中にも、その片鱗をすでに体感し始めた者がいるようだ。
東前君が報告していた個人的な問題と社会的な問題の融合とか、道上君がレット・オフすると対立していた相手までが変わってしまった、というのもその一例だ。
こういう話題を、以前は意識的に避け、あまり深く踏み込まないようにしてきた。・・のだが、今後は「呪術家」を楽しもうと思っているので、遠隔ヒーリングだろうが何だろうが、やらかしてしまっても一向に構わないし、むしろふさわしい・適切な行為とすらいえる・・・のではあるまいか?
私が言う呪術は、古くさいマジナイの類いとは異なる。また、人類だけのためのものでもない。
地球とそこに暮らすあらゆる生き物、それらすべてとトータルに関わる地球呪術。生命のわざ。「自分」という個我を超越して、「人類を生きる」こと。「世界を生きる」こと。
先生の出所が近づいた頃は、時あたかも新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が全世界で爆発的に拡大し始めた時期と重なります。
世界が急速に様変わりしてゆく光景を眺めながら、いつもつい考えてしまったのは、「これは、先生に対する弾圧が、レット・オフによって世界に跳ね返っているのではないか」、ということです。
普通なら、誇大妄想と言われても仕方ないような考えですが、今回の場合は「偶然とは思えない偶然の一致」が多すぎて、どうしてあんなに対応し合っているのか不思議に思えるほどです。
裁判中の先生は、「これは決して他人事ではない」、と国家の不正義を社会に向け訴えかけられましたが、狭いところに閉じこめられて自由を奪われる、という極めて特殊な先生のご経験が、今や誰にとっても、本当に他人事ではなくなってしまいました。
今回のコロナ騒動で、人々は皆、自宅に閉じこもり、ずいぶん窮屈な思いを味わったことだろう。豪華客船が監獄と化したこともあったし、ホテルに軟禁された人たちも多い。国によっては都市ごと隔離された(ロックダウンとは元々刑務所で使われた言葉で、「囚人を閉じこめる」という意味だ)。
「閉じこめられる」とか「世間から隔絶される」とはどういうものなのか、その一端を初めて体験した人も多かろう。
友人同士が、自由に会うこともままならなくなった。
逮捕後から裁判中もずっと、約3年間に渡り、君たちと会ったり連絡を取り合ったりすることを、正当な理由もなく私が禁じられたこと(接見禁止令)と、どこか相通ずるものを、確かに感じる。
先を見通せない不安。自分がこれまで築いてきた生活が根底から崩れ去る無力感と絶望感。・・・今、世界の人々が感じている「これ」こそが、逮捕され、裁判にかけられ、刑務所へと送られる者たちが一様に味わうものなのだ。
「それ」を、レット・オフで「ほどき」、「苦より解き放たれる」ための具体的な知識と技術を、私は世界へと差し出してきたのだが。
奇妙な偶然の一致は、他にもいろいろあると思います。
いやしの触れ合い(ヒーリング・タッチ)を唱導された先生を、タッチ厳禁の留置場、拘置所、刑務所に長年閉じ込めた反動であるかのように、人々はタッチ(触れ合うこと)を自ら互いに避けるようになってしまいました。
商業施設などへ行くと、人との接触を避けることや人が触れるものにはできるだけ触れないようにするということは、当たり前のようになってきています。
そのため、非接触という、タッチ・レスをコンセプトにした製品や技術が今後増えていくようです。すでに握手という文化が世界から無くなりつつあります。
人というものはタッチを通じて活力(生きる糧)を得るので、現在のようなタッチ忌避の風潮が長く続けば、社会そのものが活気を失い、文明レベルの停滞・退行が起こることは必至だ。
実はこれこそが、今回のコロナ禍がもたらした最大の災厄なのだが、どうやら誰もそのことに気づいてないらしい。
先生の裁判で、この裁判に真剣・誠実に臨む心意気と決意を示すものとして、先生が法廷へ提出された血判状(冒頭意見陳述書)の受け取りを、裁判長がなぜか頑なに拒んで一悶着起こるという珍事がありました。
血判状をなぜ受け取れ(ら)ないかといえば、「衛生上の理由」というのが裁判長の言い分でしたが、それが社会に跳ね返ったみたいに、人々は今やお互いを「不衛生」なものとして警戒しています。
あの時は、冒頭意見陳述書の読み上げさえも、何か不適切な内容があったわけでもないのに、途中で裁判長によって強制的に差し止められたんだったね。冒頭意見陳述とは、被告人自身の言い分なんだから、そんなものを聴く気などないというあからさまで無礼なあの態度は、有罪と最初から決めてかかっていることを露骨にあらわす以外の何ものでもない。
実際、無罪判決を一度も出したことがない裁判官が、我が国にはかなり多いのだそうだ。
今思い出したが、誰もがマスクをつけて生活する非日常的な光景を、コロナ禍が起こる1年以上も前に、私はすでに目にしていた。刑務所内でインフルエンザが流行した時のことだ。
逮捕された者がテレビで報道される際、よくマスクで顔を隠しているのを目にするが、私を犯罪者に仕立てた反作用のごとく、今度は人々が皆、犯罪者みたいにマスクで顔を隠しながら生活するという異様な姿が、社会の日常的光景となり果てた。
留置場・拘置所・刑務所での面会は、分厚いアクリル板を隔てて行なわれるのだが、どこへ行っても飛沫感染予防のパーティションで人と人とが仕切られている現在の社会状況と、本当によく似ている。
今般、ウイルスによって人類の価値観や社会のあり方が大きく変わったわけですが、先生は以前から、人類社会の強固な思い込みを変えさせるためには、ある種の呪術的ウイルスのようなものを人類の無意識層に感染させ、集合的な深層レベルから働きかけてゆく必要がある、としばしば語られていました。帰神フォトや帰神スライドショーはそのためのツールでもある、と。
裁判中、インターネット上で一般向けに発表した随想などを読み返しているのだが、その中に、(家宅捜索と称して大勢の警察官らが突然押し入ってきて、わが家の愛猫たちをひどくおびえさせた、その猫族への不敬に対し)最高神ラーも恐れをなす古代エジプトの復讐の女神、獅子の頭を持つセクメトが解き放たれるであろう、なんて物騒な記述を発見して思わず笑ってしまった。
やっぱり呪術家だよ、俺は(呵々大笑)。
<2021.03.26 桜始開(さくらはじめてひらく)>