編集:高木一行
レット・オフは、一度行なってそれで終わりというものではない。レット・オフをレット・オフし、それをさらにレット・オフし・・・と、延々レット・オフし続けることができる。
本気で取り組めば、眠りの中にまでレット・オフを持ち込める。
眠っていても、ずっとレット・オフし続けてゆくのだが、そういうことは現実に可能だ。
私は、長く続いた法廷闘争の結果があまりにも理不尽な有罪判決に終わり、刑務所行きを人知・人力によってはいかにしても免れることができそうにないとわかった頃、急激に奇妙な、これまで味わったことがないような心身の異状をあれこれ自覚するようになった。
調べてみると、それらは鬱病の症状とされているものにことごとく合致していたから、「俺もついに鬱になれたか」と感無量だったが(呵々大笑)、こんな状態で刑務所なんかへ行ったらさぞ苦労するだろうと思い、ある夜、就寝前、頭の中で延々無限ループを繰り返すネガティヴな思考そのものを強調してレット・オフすることを試みたのだ。
すると、少なくともレット・オフしている間は、鬱の苦悩(宇宙的孤独感、寂寥感、不安感、居ても立ってもいられないような焦燥感、など)が一切感じられなくなる。
レット・オフがやがて静まり、ふと気づいたら、思考が舞い戻っている。すると、直ちに重苦しくなる。
思考が苦悩の原因であるとすぐわかった。
となると必然的に、レット・オフの中でさらにレット・オフ、それをまたレット・オフ、いつまでもどこまでも途切れることなくレット・オフ・・・と続けたくなる。否、続けないではいられなくなる。
そうやって熱心にやり続けているうちに、いつしか眠りに就いたのだが、面白いことにそこでもレット・オフはずっと継続していた。途中で何度か目を覚まして、また眠り・・・・その間もひたすらレット・オフにしがみつき続けた。レット・オフは、覚醒と眠りを貫くことができる。
この1度の体験で、鬱病的な不快症状はほとんど鳴りを潜め、数日のうちに完全に消滅した。以来、過酷な刑務所生活中も、出所して現在に至るも、1度も再発してない。
上述したような苦悩の極みを、レット・オフによって乗り越えた時、「刑務所生活を修業とみなし、地獄を花園へと変える」という新たな決意と希望が、自ずから花開いたのだ。
刑務所修業という私の言葉は、だから、表面的な、お遊び気分で発せられたものなどでは、断じてない。
レット・オフの想像だにしたことがないような深遠な内容に、驚くばかりです。
労宮でのレット・オフがなんとか実人生で応用できる程度になったか、というレベルの者として、おうかがいしたい点がございます。
レット・オフで、開いた掌をまたレット・オフして閉じるという練修がありますが、レット・オフをレット・オフするとオンになる、つまり元のところ(凝集)に戻ってくるように思っていたのですが、先生のお話をお聴きしていますと、レット・オフし続けていくというのは、私の思っているのとは違うのではないか、という疑問が生じてきました。「レット・オフをレット・オフする」、「レット・オフの中でさらにレット・オフ」という点について、どのように理会すれば良いのか、ご解説いただけますと幸いです。
鬱のヒーリングと関連して述べたのは、レット・オフ状態の中で、レット・オフを更新することについてだ。オン、オフよりも、両者が融合したレット・オフを継続することに、より主眼点が置かれている。
そのためには、何らかの方法で起こしたレット・オフ状態のさ中に、そのレット・オフを押さえつけて止めてしまわないよう注意しつつ、ふわりと強調する作用を好きなやり方で起こす。これを瞬時にレット・オフし、それによって発生する新しいレット・オフの波に乗るのだ。これを繰り返す。
延々流れ続け、決して止まらない。身も、心も。
ちょっとしたコツが要るが、練修すればできるようになる。
レット・オフを強調すれば、当然レット・オフの流れはより重く、鈍くなる。それを完全に止めてしまわないよう、繊細なレベルでコントロールしてゆくことが大切だ。
東前君が述べていた、オフをオフにすればオンになり、それをまたオフにすると・・・という問題については、後で何か具体的な修法と共に取り上げることとしよう。
レット・オフは、生活の様々な場面で苦しさや停滞を感じた時など多大な恩恵を受けていますが、印象的なことを思い出したので書かせていただきます。
私は仕事でプログラミングを行なうこともあるのですが、例えば作成中のソフトウェアにバグ(不具合)が生じて悩むことがあります。
あるいはPCが原因不明の動作をし、仕事が思うように進まない、など。
普通、そのような技術的問題に対しては仮説を立て、一つ一つ検証を重ねていきます。
しかし、それでもどうにもならずストレスが溜まった時、その苦しさを全身で感じてレット・オフ・・・すると、思いもよらない効果が出ることがあります。
苦しさが消えて楽しく仕事できるようになった―――という精神的なものではなく(そういう場合もありますが)、その場で直ちに不具合の原因がわかり、解消してしまうことがあるのです!
何か問題や不具合を抱える時は、問いの内容自体が間違っている場合も多いため、問いそのものがレット・オフで解体されることで、視野が拡がり真実にたどり着くのかもしれないと感じておりますが、普通は論理的思考が必要と思われるパソコンやプログラミングの問題が直感的に解決してしまうことは、何度体験しても不思議です。
佐々木さんのお話をお聴きして、レット・オフの体験について思い出したことがあります。
先生の裁判支援活動をしている時、怒りや混乱、祈るような思いなど様々な感情や思考が湧いてきました。先生からは、レット・オフを心がけるようにアドバイスいただいていましたので、レット・オフを常の祈りの行為のようにして行なっていました。
先生の裁判以前は、裁判文書や行政文書などほとんど読んだこともなく、読む気すら起こりませんでした。しかし、実際に裁判が始まってみると、そういった難解で退屈な文書を、集中力を切らさず読み込むことができるようになっており、不思議でなりませんでした。弁護士でさえ見落としていたような事実を発見できた時が何度もあり、自分でも驚きました。
佐々木さんがおっしゃっていたように、文書の読み込みや検索などの論理的な作業においても、レット・オフの効果があることの一例ではないでしょうか。
これまでできなかったこと、自分ができるようになるとは想像もしなかったようなことが、突然できるようになってしまうというのは、ある種の潜在能力の開花と言えるかもしれません。それは、裁判支援活動に携わった皆さん全員に起こったことだと思います。
弁護士がまったくあてにならないので、本来であれば弁護士が行なうべき調査などをすべて代わって我々が行なったり、英語の難解な学術論文(多量)を読みこなして裁判資料を作成したり、あるいは海外の著名な研究者とコンタクトし裁判所に対する意見書を作成していただいたり、など、皆さん目をみはるような大活躍で、そのことに自分自身が一番驚いていらっしゃいました。
先生の元で学び始めて間もないころ、「夢見術」に関するセミナーを受講したことがありました。
夢見術は、夢の中で夢であることを自覚し、明晰夢を観るための術で、明晰夢を自覚すると自由に夢をコントロールし行動できるようになりますが、それ以来、夢の中で様々な興味深い体験を味わいました。
毎回ではありませんが、夢の中にいると気づいた時は、自分自身が持っている願望やストレスを解消するために、明晰夢を用いてきました。
例えば空を自由に飛び回る開放感を味わったり、好みの女性とスキンシップを楽しんだりなど・・・(笑)。
明晰夢の楽しさから、ずっとこのような活用の仕方を続けてきたのですが、変化し始めたのは数年前からです。
いつものように夢を自覚して、さあ自分の願望を実現するぞと思った時、ふと「これは自分がしたいことを映画のように上映しているだけなのでは?」と感じ、それを実現しようとすることで大きなエネルギーを使っていることに気づきました。
そこで、その思い通りの夢を見ようとするコマンドを強調→レット・オフ・・・すると深い静寂が訪れ、とても楽で自由になり、自分で幻を生み出すより大きな充足感があることを感じました。
同時に大きな強張りが溶け去り、それが執着であったと気づくことができた貴重な体験となりました。
それ以来、好みの夢を観たいとはあまり思わなくなり、明晰夢ではレット・オフし続けることを心がけるようになっています。とは言え、無限にレット・オフし続けることは難しく、いつの間にかまどろみの中に沈んでいってしまっているのですが・・・。
夢の中にまでレット・オフが継続するという体験は、現在の私には想像を絶することですが、敢えてお尋ねさせていただくなら、先生の場合、夢の中でも身体感覚があり、レット・オフを修することができるということなのでしょうか?
私の場合、夢の中では身体感覚がないことが多く、レット・オフを夢の中でも修するということは、それこそ夢のまた夢のように聴こえます。まずは、夢の中でも意識することや、身体感覚を呼び起こすことはいかにすればできるか、と問うべきかもしれません。
レベルの低い質問ではあるとは思いますが、先生のお話をお聴きしてレット・オフを深めていきたいとの思いは強まりますが、非常に深遠なる距離を感じるのも事実です。一気に多くを望むことができないことは理会しているつもりですので、何がしかの手がかりがあればお答えいただけますと幸いです。
佐々木君が夢の話なんかするから、いつの間にか、「夢の中でレット・オフ」ということになってしまった。
私は、「眠りの中にレット・オフを持ち込める」と述べたのだ。レット・オフしながら眠りに就き、レット・オフを眠りの中でも持続させる。これを、夢の中でレット・オフすることと混同しないように。
私は瞑想が深まった結果として夢をほとんど見なくなっているので、夢見術については佐々木君にでも尋ねてほしい。
ところで、レット・オフと密接な関係があるのが、「観の目」だ。
レット・オフの最中に目を動かすと、レット・オフの流れがたちまち途切れてしまう。つまり、レット・オフする際には、常に観の目を保たなければならない。
目を閉じて、観の目を修するのも面白い。
暗がりで目を閉じると、そこにあるのは闇ではないとすぐ気づくだろう。おぼろげな光、あるいは影、のようなものがうごめいている。それらに対し、観の目と同様の原理で「観る」のだ。すると、全身を満たす光ならざる光(=闇ならざる闇)が観えてくる。
真っ暗闇の中で(夜、寝床の中で布団をかぶるなどして)、閉じた目の前に手をかざし、ひらひらやると、それらしきものが動いているのが観えることがある。上記の、瞑目して行なう観の目では、それがさらに深まり、手の動きだけでなく、身体内を流れる動きとか、意念の働きすらも、観えるようになる。
<2021.04.05 玄鳥至(つばめきたる)>