Healing Discourse

対話篇1 第六回 観の目、極意への道

編集:高木一行

【高木】

 観の目について、ごく簡潔にまとめておこう。
 観の目とは、観法(目の使い方)によって引き起こされる視覚と意識の変容状態のことだ。あるいは、そうした状態を引き起こすためのメソッドそのものを指して、観の目と称する場合もある。空間認識のトレーニング、という言い方もできるだろう。
 ヒーリング・アーツ、龍宮道共に、観の目は基本中の基本であると同時に、奥義でもあり、ひときわ深い行を修めるため常に欠かせない要素となっている。
 ゴータマ・ブッダはそれを「正見しょうけん」と呼び、人生を正す8つの道(八正道はっしょうどう)の一つとして、正見を最初に挙げている。

 この、大切な観の目を煉り磨くための超時空的修養道場として、ヒーリング・ネットワーク1のウェブサイトではスライドショーのギャラリーを創設し、多種多様な作品を常設展示している。
 あれを余興のようなものと誤解して軽視する人が少なくないようだが、覚醒と成長の機会を目の前にしながらみすみす取り逃がすのは、実にもったいない話だ。

【東前】

 目を閉じて観の目を修してみました。
 目を閉じてみえてくるおぼろげな光に視点を凝集してみると、イメージが形になりだし、そこから視点を定めたままレット・オフすると、様々な色彩が乱舞する空間の中に飛び込んだようになった時や、アニメーションのリスが活躍する映像が展開された時などがあり、時間を忘れて楽しんでいました。
 頭の裡で、たまふりが活性化しているように感じました。たとえるなら夢と瞑想がドッキングしたような、不思議な体験だと思いました。
 今後も深めていきたいと思います。

【高原】

 観の目といえば、広島の天行院で道上さんのご指導を受けていた時のことです。
 ふと気づくと、先生がお描きになられた書が、こちらの空間に出てきているのを感じました。不思議なことが起こっているなと思いましたが、ハッキリと文字が浮き上がり、立体的なのです。
「樂」の大きな書は、筆の運びのラインが息づいているのが手に取るように実感され、前方に飛び出ていました(本当に息をしているように脈打ってみえました)。空間にちりばめられた文字の片鱗を、両手ですくうことが出来るのではないかと思うほどでした。
 紙という平面ではなく、三次元空間に描かれているのだと実感しました。渦巻いてうねる曼荼羅マンダラのようでした。
 予期せぬ出来事で、驚きの体験でした。

【高木】

 今、帰神スライドショーを観ていて、ふと帰神フォトの移り変わりの速度と、観の目のレット・オフ速度を正確に合わせたらどうなるかと閃き、そのようにしてみたら、これまで以上にさらにすごい共鳴体感が起こってきた。
 これは面白い。

【渡邊】

『ヒーリング随感2 第18回』のスライドショーPart 1で実験してみました。
 スライドショーの移り変わりの速度に合わせ、レット・オフの速度を調整しますと、帰神フォトの移り変わりの時にずっと意識が途切れることなく、スライドショー全体を観照することができました。最初から最後まで意識が途切れなかったというのは、初めての経験ではないかと思います。
 帰神フォトによって織り成される「物語」がリアルに感じられ、先生方が体験されたリバー・クルーズを、時空を超えて追体験させていただいているような感覚に浸ることができました。
 新しい体験に大変驚いています。

【東前】

『鳩間島巡礼:2020』を観照いたしました。
 先生は随分以前より、地球環境問題などの人類が直面する危機について警鐘を鳴らしてこられました。私自身の問題意識と共感・共鳴するところがあり、先生の文章や生き様に、お示しくださるわざと共に魅了されてきたように思います。
 鳩間島巡礼記では、海と珊瑚の現実について、生身でぶつかり繊細に感じ取られた事実、実感が、文章と写真で表現されており、海とそこに暮らす生き物と私(たち)の繋がり、一体性を、深いところで感じることができました。
 環境問題への取り組みとして、政治的、経済的なアプローチが取り上げられることが多いと思いますが、その根本である人間の意識についてアプローチしているところが、先生が「呪術的」(広義の宗教性)とおっしゃるゆえんなのだろうかと思っております。
「瞑想は、エコロジーの基本でもある。」という一文は、何よりもそのことを物語っているようで、私の心に突き刺さりました。

【高木】

 あらゆる修法マナを行なう際には、観法(目のあり方、すなわち観の目)が基盤となる。マナを修して、自然にすーっと観の目にならないようでは、ちゃんとわかり、できているとは言えない。
 観の目を、極意レベルにバージョンアップしてゆくための修法を一手、伝授しよう。先に東前君が提起していた、「オフをオフにするとオンになり・・・」という問題を、具体的なわざを通じて検証する機会ともなっている。

<マナ>
 帰神スライドショーを観照しつつ(最初は単体のフォトで練修)、「観の目」と、それが正反転した「けんの目」とを、レット・オフを使って交互に行き来する。

 そうやって観ることを、日々鍛練する者は、日ならずして極意へと至るだろう。
 見の目は、1点に凝集(集中)してそれ以外を排除する普通の見方、その凝集をレット・オフして画面(視野)全体に注意がまんべんなく拡がり満ちている状態が、観の目。
 見の目は輻輳ふくそう(外から中心へと求心的に凝集すること)、観の目は輻射ふくしゃ(中心から外へと遠心的に拡散すること)。

 観の目をレット・オフによってほどけば、自ずから画面の真ん中に注意が密度を高めつつ集中してきて、見の目があらわれてくる。
 見の目を認知したなら、その見の目であること・それ自体にレット・オフをかけ、観の目を招来、・・・大体このあたりで早くも効果があらわれてきて、画面の奥行きや立体感がぐっと増すだろう。
 観の目をほどくことで、逆に、どうやって集中するのかが、意識の方向性としてわかる。わかれば、できるようになる。

 試してごらん。
 これは、いわゆる「眼力」とか「眼光」を「鍛える」ための訓練法ともなっている。目の力がほしければ、それを鍛えなければならない。
「マスターの目付け(龍眼)」というものを、マスター(ヒーリング波紋の発信源)を志す者は、必ず会得せよ。

【渡邊】

 観の目のバージョンアップ法を練修させていただきました。
 帰神スライドショーの移り変わりの速度に合わせて、レット・オフの速度を調整しながら行ないますと、見の目と観の目との間で揺らめいているような感覚になり、画面も波打っているように観えてしまいました。
 また、眼圧が強くなったり、弱くなったりする感覚があり、それが波紋のようにも感じられ、眼球自体が揺らめいているように感じました。
 日々、実践してまいりたいと思います。

【東前】

 観の目のバージョンアップ法をご伝授くださり、誠にありがとうございます。

 お教えいただいたマナ(修法)を、『鳩間島巡礼:2020』へ応用してみました。最初は、文中の静止画から始めました。
 今までは、画面中央に向かって凝集する見の目をレット・オフし、観の目に移行することばかりに意識が行っていましたが、逆の方向も意識することで、波や呼吸のように波紋が往還する感覚が出てきました。
 見の目の際に凝集をより高めていくと、焦点となった視点にビームのようにエネルギーが集まり、圧が高まっていくのを感じたのは新鮮な驚きの体験となりました。
 スライドショーで執り行なってみると、時々ですが、レット・オフの際に姿勢が崩れず静中求動がうまくいくと、下腹内部あたりで球状の凝集と拡散の作用を感じる時がありました。
 肥田式強健術では、人体の物理的中心と精神の中心を下腹内部の重心点(正中心)で合致させることと、目の使い方(瞳光不睨どうこうふげい)とが密接な関係があることが説かれていますが、そのことを思い出しました。

 極意への道と先生がおっしゃるだけあり、素晴らしい可能性を秘めたマナだと感じました。深めてまいりたいと思います。

【高木】

 渡邊君と東前君の感想を聴いていて、ふと疑問が湧いたのだが、二人とももしかして、レット・オフが波打つということを、初めて体験した・・・のだろうか?
「レット・オフ波紋」という言葉を、ヒーリング・ネットワーク1時代からずっと使ってきたはずだが。

 レット・オフは波打つ。レット・オフを波打たせることにさらに特化したのが、龍宮道だ。
 今回紹介した観の目の修法においては、オフをレット・オフしてオンとなし、そのオンをまたレット・オフしてオフにする、そういうサイクルを繰り返すのだが、気づいたろうか、オンに移るにせよオフへ行くにせよ、常に「レット・オフ」が共通しているということを。
 このように、まったく反対の両極を貫き、結ぶ扉が、レット・オフなのだ。

 初心者は混乱しやすいようだが、レット・オフにもいくつか段階があって、最初は「オフ」にする、すなわち「力を抜く」、「やめる」、「手放す」、ことに重きが置かれる。
 直接力を抜こうとするのではなくて、力をちょっと入れて神経的に反転させ、「抜ける際の波紋(オフの波紋)」がより広く・深いエリアへと、自然に浸透・拡散してゆくのを待つ。
 実は、力を抜くことは、非常に難しい。比較的自由に動き、コントロールしやすい腕ですら、そのコントロールを完全に手放す段になると、ぶざまに権力にしがみつく凋落ちょうらくした独裁者のごとき執着ぶりで、自分でも笑えてくるだろう。
 胸郭の力(不自然な力み)を抜くとなると、ことは格段に難しくなり、(龍宮道がなければ)下手すると一生実感・実現できないまま、ということもあり得る。おそらく・・・現代社会を生きる人々の大半が、そうした閉塞状態のまま人生を送り、そして終えているのではあるまいか?
 それは大変な人生の損失であると、私は思う。

 力抜きがある程度できるようになったなら、次はそれを内向させる段階へと進む。
 それができるようになれば、今度はオンとオフを融合させ、オンとオフを共に超越する心身即融状態へとシフトする境地を目指す。
 レット・オフとは、最終的にはオンとオフを超越するわざであり、オフの方面から入り、常にオフを強調することから、レット・オフと呼んでいる。レット(Let)は、「~が起こるに任せる」、「~となるのを邪魔している要素を消極的に排除する」、といった程度の意味。

 余談ながら、未来においてオフ優位の社会、文明が実現し、逆にオフが過剰となり始めたなら、今度はオンへと強調点を移し、バランスを取ってゆかねばならない。すでにオフの世界になっているのに、「創始者はオフを強調していた」といったつまらない理由で、いつまでもオフにばかりこだわり・とらわれ続けたりしていては、いけない。
 生きた<道>というものは、時代のニーズに合わせ、自由に形を変えてゆくものなのだ。
<道>に生命いのちを注ぎ、それを活かすこと、それと共に活きること・・・に、常に意を注ぎなさい。

<2021.04.10 鴻雁北(こうがんかえる)>