文・写真:高木一行
◎刑務所というのは本来、劣悪な環境を強いて囚人を苦しめるための場所などではなく、罪を犯した者が更生し、社会へ復帰できるよう、大慈大愛をもって教育し、人道的に支援するための施設であろう。更生とは、生(生き方)を更る、という意味だ。
ところが、冤罪(無実の罪)で4年余の歳月を刑務所で過ごすうち、これは囚人が更生するための手本にはとてもならんな、と思えるような無様な実態を幾度も目にした。
「知らぬが仏」という言葉もあるが・・・、一例をあげる。
新型コロナウイルス感染拡大に伴うマスク不足騒動は、読者諸氏の記憶に新しいことと思う。当時私がいた作業工場では、従来のすべての刑務作業がいったん中断され、全員がマスク作りに専念させられた。マスクを一つ一つ手作りし、パックして最終的な製品にするのだが、問題はその製造環境である。
衛生商品を作るのだから、作業者の手指消毒はもちろん、マスク・手袋着用は当然だろう。が、そんな配慮などまったくない。
刑務所内も高齢化が進んでおり、大小便垂れ流しという者も少なくないのだが、そんな連中がトイレに行った後の手も洗わず、もしかしてあなたが使ったかもしれないマスクをネチネチ粘液質に・・・、時折自分の指を舐めたりしながら・・・、あれこれいじくりまわしている様を、リアルに想像してみていただきたい。
中には、自分の陰毛や床に落ちているゴミなどをわざとマスクに混入させ楽しんでいる変態野郎もいたが、刑務所暮らしの極度のストレスや恨みつらみがたっぷり込められた特製・呪いのマスクは、健康な者でもたちまち病気にさせる特効があろうよ、と囚人同士でしばしば笑いの種になっていた。刑務所職員までが一緒になって笑うのだから、もはや何をか言わんや、である。
ちなみに、世間のマスク不足が落ち着くと、今度は「鶴折り」作業を、全員がやらされることになったのだが、小さな四角い白紙を折った鶴が何に使われるかといえば、火葬の際、棺桶の上に載せる千羽鶴にするのだそうだ。つまり、コロナ禍による死者増加を当て込んでのことであり、こういう情報は、普通囚人には一切知らされないのだが、私は幹部職員から直接教えてもらっていた。
◎蟹が蟹を呼ぶのだろうか。先日、西表島巡礼土産のノコギリガザミを堪能したばかりなのに、これでもかとばかりに沖縄からまたどさっと届けられた。1日3食、すべてこれノコギリガザミというのは、充分に非日常の体験といえよう。
◎隣の区まで足を伸ばし、時折チェックしている大型スーパーの果物売り場へ行ってみたら、初めてみるパキスタン産マンゴーのチョウサ種なるものが入荷していた。
何だかしょぼくれた外見なので、あまり期待せず試しに5個ほど買ってみたら、これが意想外の飛び抜けた美味さである。
マンゴーの中でも随一ではないかとさえ思えるほどの熱帯的かつミルキーな甘さに、野性味を感じさせる独特の華やかな香りが、深みと奥行きを与えている。
このチョウサ種についてネットで少し調べたところ、マンゴー王国インドで最高級のアルフォンソ種と双璧をなす、至高のマンゴーとされているとのこと。
翌日、残りを買い占めるべく、朝一番で件のスーパーへとタクシーを走らせ、ついでにネット通販で箱買いもした。
◎満腔の同情と共感をもって、再審請求はしないのか、あなたが無実の罪を晴らせるようできる限りの協力を惜しまないが、・・などと言ってくださる方々がいらっしゃる。・・のだが、この場で現在の私の考えを簡潔に、ハッキリ、述べさせていただく。
応援してくださる方々のお気持ちは大変うれしく、ありがたい。が、再審請求はしない。あらゆる可能性を検討し、熟慮した上で、そのように決めた。
理由その一。再審請求とは裁判のやり直しを求めることだ。これまでの冤罪事件の事例では、素人目にも明らかに無罪とわかるようなケースでさえ、再審を請求してそれを検察と裁判所が認めるまでに、10年、20年、あるいはそれ以上、かかったような例も決して少なくない。仮に再審開始となっても、それはゴールではなく、単なるスタート地点に過ぎない。再審の結果が無罪になるかどうかは、また別問題なのだ。司法制度がまともに機能してない我が国のインチキ裁判などに、残りの人生の貴重な時間とエネルギーをわずかでも割くことを、私は望まない。
その二。再審請求、再審、と長年月闘い続けてゆくためには、多額の資金が必要となる。憲法にまで踏み込む複雑で高度な内容を含むので、弁護士も最低2人は必要と言われた。が、日本にはまともな弁護士など(私が知る限り)1人も存在しない。いい加減で不誠実かつ無能な三百代言どもばかりである。
その三。裁判所を動かすには、万単位の署名も要るそうだ。殺人とか死刑とか、そういう「華々しい」事件には世間も注目するかもしれないが、私の事件には1人の被害者すらおらず、刑罰も(無期懲役や死刑に比べれば)軽いため、たくさんの署名を集めるなど夢のまた夢なり。
その四。これが最大の理由なのだが、法廷闘争という言葉からもわかる通り、裁判の本質とは「戦い(争い)」にほかならない。これに対し、争いを超越する非暴力の道について、今の私は人々に説いている。たとえそれが裁判という様式化されたものであれ、つまらん戦いに大勢の人々を巻き込むことは、自らの生き方・信念に背くものだ。
その五。前科者のムショ帰りという国家認定の烙印には、大いに使い道がある。表面的かつ一過性の好奇心しかない者、人間性とかものごとの真実を見極める目のない人間、などを遠ざけるスクリーニング効果を発揮するのだ。(省みて恥と感じる部分が一点もないので)刑務所に入っていた前科者であることを堂々と公言して憚らない私のような人間の元へ、それでも構わず学びを求めて来るとしたら、よほど熱心な探究者か反逆精神の持ち主、あるいは他人の意見に左右されず自分自身で判断し・行動できる者に限られるだろう。そういう熱誠真摯な・観る目のある人々だけのために、残りの人生すべてを捧げたい。
◎無実の罪で刑務所へ送られ、そこで何を学んだかといえば、容易に想像がつくだろうが、様々な犯罪の手法とか、裏社会の構造など、刑務所へ行かねば一生無縁だったであろう事柄ばかりだ。
刑務所で習い覚えたスキルや、そこで培った人脈などを「活用」する気は、今のところ、ないけれども(呵々大笑)。
<2021.08.07 涼風至(りょうふういたる)>