Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション2 第四回 人類の終焉

◎<死>は人気のないテーマだが、死と全面的に向き合うことなくしてヒーリングの本質は決してつかめないし、死から逃げ回り続ける人生は活気に乏しく空しい。
 このことは人類そのものについても当てはまる。
 人類が滅亡するなど絶対にあってはならない、と誰もが疑うことなく決めつけるかたくなな先入観を、芸術家・岡本太郎は平然と踏みにじり、見事に蹴飛ばしてくれる。

「人類は滅亡するかもしれない、と不安気に言う人が多くなった。いや、絶対に滅びない、と頑張る楽観説もある。
 ぼくは両方の説に腹が立つ。
 滅びたっていいじゃないか。当たり前のこと。ぼくはそう思う。」(岡本太郎『自分の中に毒を持て』より。以下同様)

 どうして人は滅びたくないと考えるのか? 太郎は疑問を投げかける。生物は栄え、そして滅する。永遠に滅びないと考える方がおかしいではないか、と。

「人類がこの世界に出現した、それは当然、いつかは消え去ることを前提にしているはずだ。めそめそと悲しみ嘆く必要はまったくない。」

 思わず笑ってしまうくらい、本当に清々しい。こういうことが言える人は、叡知の人であり、腰が入り・はらわった人だ。現代の武術家あるいは宗教家の中で、死の受容を説き・実践できる者が、果たして幾人いるだろう。
 真剣で斬りつけるような、太郎の鋭い問いかけはさらに続く。人間の一人ひとりは、一体本当に生きているのか? 本当に生きがいを持って、瞬間瞬間に自分を開いて生きているといえるのだろうか?

「システムのベルトコンベアに乗せられ、己を失って、ただ惰性的に生活を続けているというのなら、本質的に生きているとはいえない。ならば人類滅亡論をいうことも意味がないじゃないか。一人ひとりが強烈な生きがいに満ちあふれ、輝いて生きない限り。」

 机上の空論とか観念論などでは、これは、あり得ない。岡本太郎自身の生き方・生き様からあふれ出てきた、魂のこもったいやしの言葉だ。

「進歩だとか福祉だとかいって、誰もがその状況に甘えてしまっている。システムの中で、安全に生活することばかり考え、危険に体当たりして生きがいを貫こうとすることは稀である。」

 確かに、自分を大事にしようとすると、いつの間にか生きがいが失われてしまう。長く生きても、この事実に気づく者は極めて少ない。

「己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生きぬかなければならない。今日の、すべてが虚無化したこの時点でこそ、かつての時代よりも一段と強烈に挑むべきだ。
 強烈に生きることは常に死を前提にしている。死という最もきびしい運命と直面して、はじめていのちが奮い立つのだ。死はただ生理的な終焉ではなく、日常生活の中に瞬間瞬間にたちあらわれるものだ。この世の中で自分を純粋に貫こうとしたら、生きがいに賭けようとすれば、必ず絶望的な危険を伴う。
 そのとき『死』が現前するのだ。惰性的にすごせば死の危機感は遠ざかる。しかし空しい。死を畏れて引っ込んでしまっては、生きがいはなくなる。今日はほとんどの人が、その純粋な生と死の問題を回避してしまっている。だから虚脱状態になっているのだ。」 

 ・・・これは、武士(戦士)の死生観そのものと言っていい。龍宮道修行者にとって、この上なく大切な教えだ。

「死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間瞬間にベストを尽くすことだ。現在に、強烈にひらくべきだ。未練がましくある必要はないのだ。」

 あらゆる人生が、死によってリセットされる。莫大な金銀財宝を蓄えたとて、死の瞬間、すべてを手放さねばならない。幸せも歓びも、堪え難い苦しみも、悲しみも、あるいは罪も、徳も、死によって全部消し去られる。長く生きても早死にでも変わらない。死と出会った後にはプラスもマイナスも残らない。常にゼロだ。そういう意味でも、死は宇宙で最も公平なものといえる。
 そして、岡本太郎は言い放つ。

「一人ひとり、になう運命が栄光に輝くことも、また惨めであることも、ともに巨大なドラマとして終わるのだ。人類全体の運命もそれと同じようにいつかは消える。
 それでよいのだ。無目的にふくらみ、輝いて、最後に爆発する。
 平然と人類がこの世から去るとしたら、それがぼくには栄光だと思える。」

◎沖縄からノコギリガザミと、大量のシャコガイが届いた。

ノコギリガザミとシャコガイ

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 こんなにたくさんのシャコガイはとても食べきれない・・・などと、龍宮道探究者は匙を投げたり、自暴自棄になったり、しない。まず刺し身と貝汁を楽しみ、残りはアジケーナシムンを漬けることにした。 
 シャコガイの身を殻から取り出し、黒く苦い部分を1つ1つ丁寧に取り除いて、適当な大きさに切り、塩(今回は屋我地島の塩を使用)をしっかり振る。冷蔵庫に置いて2~3日経ったら泡盛で洗い、泡盛(古酒)・氷砂糖と一緒にガラス瓶に漬ける。時々瓶をゆっくり回してかき混ぜ、半年~1年くらいしたら贅沢極まりない「たじねーむん(沖縄珍味)」の出来上がりである。伝説的な琉球料理家・山本彩香さんの本(『てぃーあんだ』)で学んだレシピだが、山本さんの料理を実際に何度も味わったことがあるというのも、今となっては貴重な体験であり、人生の財産となっている。
 ところで、今回漬けたアジケーナシムンを帰神撮影したのだが、えぐり取った女性器とか切り刻んだ内臓など正体不明の怪しげなものがあれこれいっぱい漬けてあるサイコキラーのコレクションみたいな感じに撮れてしまい、省略(呵々大笑)。

◎一緒に送られてきた中サイズのノコギリガザミは、塩茹でにして蟹味噌と爪はそのままダイレクトに味わい、残りは身をほぐしてシンガポール名物ブラックペッパー・クラブ(黒胡椒炒め)とタイ料理のプーパッポン・カリー(卵とカニのカレー)を作った。
 東南アジア産のノコギリガザミは味が薄くて食感もぱさついているため、上記のような強めの味つけで食されることが多いのだが、同じ料理を沖縄産のカニで作ると、その味わいの複雑さと奥行きはまさに別次元のものとなる。
 写真はプーパッポン・カリー。見てくれはシンプルだが、現地の最高級レストランでもまず口にできない美味なり。

プーパッポン・カリー

◎冷凍物の猫山王(マレーシア産ドリアン)がたくさん届いたのだが、先日生の猫山王を食べた後ではいまいち物足りない。
 失敗覚悟で牛乳と一緒にミキサーにかけてみたら、濃厚かつ上品なドリアンジュースが出来上がった。ミキサーに匂いが長期間染みつくかと思ったが、大丈夫のようだ。
 あまりの美味しさに一気に飲み干してしまったので、写真は例によって、ない。

マヤ
テラ

<2022.04.04 玄鳥至(つばめきたる)>