Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション2 第六回 愛と祈りのヒーリング呪術

◎「芸術家」から「呪術家」への移行期に執筆した草稿が出てきた。裁判中にインターネット上で発表したものだが(2014.07.17)、一部加筆修正し、ここに再録する。

 赤誠せきせい(まごころ)とか、それをあかしするものとしての血による誓約など、少し前の日本では「真理のスタンダード」とされてきたものが、私の裁判で明らかとなったように、現今の我が国の司法においては、どうやら、まったく重きを置かれてないようだ。
 私が法廷に血判状(冒頭意見陳述書)を提出したことを、芸術家の奇矯な行動として受け止めている人が、もしかすると皆さんの中にもいらっしゃるかもしれない。
 あるいは、その意味を深く推し量ろうとすることなく、「血」というシンボリズムが内包する様々な意味合いの、そのあまりの奥深さにひるみ・たじろいで、思わず知らず、おもてそむけてしまう人も、少なくない、というよりは、(かなり)多い、らしい。
 インターネットを通じて公開した、私が血判を捺すシーンのスライドショー、あれの「人気のなさ」は、群を抜いているのだそうだ(呵々大笑)。

 今は、外側へと向かって活動することを、敢えて、極力、控えている。
 これは、友人らと会うことも、連絡をとることすら、禁じ、2日以上の旅行も禁じるという、裁判所による(ほとんど意味不明とすらいえる)保釈条件も理由のひとつでは、ある。
 しかし、自宅軟禁に近い状態へと自らを追い込んでいることには、もっと深い・別の・理由わけがある。
 外側への動きを極度に制限することによって生じる余剰エネルギーの方向性を反転させれば、自らの内面へと沈潜する、いわば超意識のフリーダイビングが可能となるのだ。
 個を超えた人類の集合的な無意識の領域では、呪術的・魔術的な様相を帯びた様々な力・・・というよりは意思・・・が、そこここではげしくぶつかり合い、ビリビリ振るえる電気的な火花を盛大にまき散らしながら、渦巻いている。
 そんな超絶世界を、深夜、独り訪れ、あれこれ呪術的な作業に没頭する毎日を、現在の私は、送っている。
 まったくもって、呪術的な生活といえよう。

 2002年、90日間の連続断食を執り行なった。「個体保存本能(食欲)」は、「種族保存本能(性欲)」と共に、生物としての人間を突き動かす最も根源的な力だ。断食とは、その個体保存本能すなわち個としての生存を維持しようとする生命いのちの強烈な意思に逆らい、乗り越えてゆこうとする試みにほかならない。
 その時の断食の結果、個を超えて人と人とがつながり合う無意識の領域へと、明晰な意識を保ちつつ「降りて」ゆくための、いわば通路のごときものが、期せずして私の内面に貫通した。
 それ以来、自らのうちにある「魂の井戸」を通じて集合的意識層にアクセスし、秘め隠されし叡知やわざを汲み上げることが、できるようになった。ヒーリング・アーツ、そして龍宮道のすべての修法は、そのようにしてこの世界にもたらされたものだ。

 1人の人間(個人)という小さな枠組を、勇気と愛と祈りとをもって、超える・・・。
 それは、個という「種子」にとっては死を意味するが、たねとして死ぬことによってのみ、種という小さな容れ物の中に秘められていた大いなる可能性は開かれ始める。
 芽生えて、たねの時とはまったく異なる姿、形、生き方へと成長し、さらに花を咲かせ、実を結ぶというのは・・・、種にとっては、想像を絶する、未知なる可能性であるに違いない
 個を超えるとは、言葉を換えれば、人類として生き始める、ということだ。
 科学的な研究でも明らかにされつつあることだが、個人的な目的のためではなく、利他的な目的に基づいて行動する時、人は最も生き甲斐を感じ、最も歓びを感じる。最大の楽しさを感じる。
 どういう生き方をすれば、最も大きな喜びと生きる手応えが感じられるのか・・・。真面目に、真摯しんしに、自らに問いかけ続けてゆけば、己をむなしくして他者のために尽すことこそ、輝きに満ち、エネルギーに溢れた道であると、心の奥底で、あるいは魂で、「感じられる」はずだ。「わかる」はずだ。

 先に述べたように、外へと向かおうとする意識の方向性を意図的に封印することで、内面的な超意識の領域を拓き、意識の裏側、あるいは意識の底から、社会へと働きかける呪術的活動に、今の私は、専念している。 
 祈り願う対象としての、外側の世界に存在するいかなる外在神も、私は信じない。
 私にとり、神とは「信じる」ものではなく、「体験」そのものだ。
 舞を通じて、私は自らの内面に神をみいだしてきた。
 宇宙的な言語としての神聖舞踏を通じ、神々と交流し(流れとして一体となる)、交歓する(共に楽しみ喜ぶ)。
 姿勢を正し、うやうやしく手を合わせ、勢いよくかしわ手のはじけさせれば、たちどころに神秘的な感応が起こり、神々の御心みこころに通じる。これを神通力という。
 私たち日本人にとり、かしわ手を打つことは、神前における重要な作法の1つだ。敬虔けいけんな祈りの行為だ(ただし、沖縄の久高島ではそっと静かに手を合わせるだけで、かしわ手は打たないのが流儀と聴いた。沖縄の他の地方でも、かしわ手不要とされるところは多いようだ)。
 外側の空間ではなく、自らの内面に響き渡るかしわ手の音を、神はお聴きになり、そして、こたえたまうのだ。
 神々とのこうしたエクスタシーの共感・共振こそ、「神楽かぐら」という言葉が元来意味していたものであろう。

 20世紀における最も偉大な芸術家たちの1人とみなされている岡本太郎は、「真の芸術とは呪術にほかならない」、と喝破かっぱ(真実を洞察すること)した。
 私がインターネット上で公開してきたすべてのアート作品は、どれも皆、観照(鑑賞)者の心を通じ、人類の集合的無意識層へと生命いのちのメッセージを送り届けるための媒体にほかならない。
 それは、愛と祈りの呪術なのだ。
 私は、自らを仲介者、あるいはメッセンジャーとみなしてきた。宇宙的な生命いのちの意思から発せられる無形のメッセージを、自分なりの表現方法を通じて人々に伝えること・・・。それが、私にとっての「芸術」だ。

 笑いたい者は笑えばいい。
 が、1つだけ言わせていただきたい。
 さげすみ、冷笑する時、人間の横隔膜は上がる。
 これに対し、愉快に楽しく笑う時、横隔膜は必ず下がっている。
 みぞおちのあたりに両掌を柔らかくあて、いろんな笑い方を試しにやってみれば、その際における横隔膜の動きをハッキリ感じ取ることができるだろう。冷笑と楽しい大笑いの違いを比較してみるといい。あなたの心と体と魂の健康に大いに関係がある、極めて大切な事柄について、私は述べている。
 横隔膜が下がる後者のような笑いには、深甚しんじんなるヒーリング効果があって、免疫力を高め、病気回復を促進し、健康を向上させることが、すでに医学的事実として広く認められている。
 横隔膜が上がる前者の笑いは・・・・、一般にはまだあまり知られてないようだが、精神面でも身体面でもマイナスに働くのはもちろん、積もり積もれば人生そのものから精彩が失われてゆく。人をあざ笑っている時、あなたは自らの体内でさかんにあざけりの波紋を起こしているのだ。つまり、自分自身をもあざ笑っている。

 神話や呪術・魔術と同じく、芸術は人間の集合的な心の深層とダイレクトに関わるものだ。その意味において、なるほど岡本太郎の言う通り、芸術は呪術と直通する。
 怨念を込めた祈りによって他者に悪影響を与えることは実際に可能だが、同じ原理を使って、愛と調和の祈りを、時間と空間を超え他者に伝えることができる。
 とすれば、個人に対する遠隔ヒーリング術を応用することにより、社会レベルのヒーリングもあながち不可能ではあるまい。
 このような超意識の内的テクノロジーは、使い方次第で大変な害悪を社会にもたらしかねないと同時に、世界の調和を実現するため大いに役立てることもできるはずだ。
 だから、私は「愛」と「祈り」を強調している。「自覚」と「責任」を重んじている。表現手段の中心に「美(芸術)」をえている。

<2022.04.18 虹始見(にじはじめてあらわる)>