Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション2 第九回 言霊の鎮魂

◎私は今でこそ(必要に応じて時折)「執筆家」なんて名乗っているが、25歳の時、『ムー』誌(学研)に初めて寄稿する以前は、そもそも物書きになりたいと思ったことすらなく、したがって文章を書く訓練などこれっぽっちもしたことがない。
 にも関わらず、はたと気づいてみると結構な量の、というよりおびただしいほどの、言葉をすでに綴ってきた。改めてし方を振り返ってみると、「言葉」というのはやはり、私の<天命>における重要なファクターの一部なのであろうな、と思わざるを得ない。

◎主として学習研究社のために文章を記し、少なからぬ額の原稿料や印税を受け取りながら、文章を書くことの何たるかについて学んだ。
 我ながら、実に要領がいいと思うわけだが、もちろんそうしようと考えてのことではなく、第一やろうとしたってできるものじゃないのは、常識に照らしても明らかだし、事実の上からもそうだ。
 当時、学習研究社といえば、出版業界の誰に尋ねても「日本一」との答えが常に返ってきたが、それについても私自身は随分後で知ったという次第で、何とも浮世離れした奇妙な話だと自分でも思うが、しかしすべてありのままの事実だ。
 当時私が記した文章は、単行本になったものを含め、いずれも皆、未熟な「若書き」以外の何ものでもないと感じている。が、最初に『ムー』誌に持ち込んで編集長にその場で読んでいただいた原稿は、「よく書けている」と即採用が決まったし、「格調高い文章だ」との意想外なお褒めの言葉まで頂戴した。
「実は、たくさん原稿が持ち込まれるんだがまったく使い物にならないものがほとんどで、今回もひどいものと覚悟して読み始めたんだが、うれしい予想の外れ方をした」、とも。
 その時聴いたことで今でも心に留めているのは、「頭の悪い人間に限って、難しい言葉をえてして使いたがる」、という編集長の言葉だ。
「しかし、君の場合はちゃんと意味がわかった上で、独自の世界観を表現するために古文調の難しい言葉を適度にちりばめているから、そういうのには好感が持てるし、うちの読者にもアピールするだろう」、とも言われた。
「頭の悪い人間に限って~」というのは確かにその通りで、法曹家(裁判官・検察官・弁護士)などは皆その類いだろう。法廷で被告人のことなどそっちのけで、あれこれ「隠語」を使って盛んにやり取りしているが、「一体何やってんの?」と、被告人も傍聴人も呆れ返っていることに、ご当人らはまったく気づいてないところが、滑稽でもあり不気味でもある。
 法律とはそもそも、法曹者のためではなく、一般市民のためにこそ、存在するものであるはずなのに。

◎話を戻す。
 後に様々な出版社の様々な編集者と一緒に仕事をしてみてよくわかったことだが、私の執筆記事を担当した学研の編集者たちは、いずれも皆「一流」と呼び得るだけの実力と見識を備えていた。
 近~現代の名を成した作家たちが皆口を揃えて言うことは、素晴らしい編集者との巡り合わせがなければ今の自分はなかった、と。
 私もまったく同意見だ。
「自分」ではなく、「読者」の観点から、いかにテーマをぶつけ、語りかけ、説明してゆくか。どういう構成を取ることで、読者の興味を引きつけ、最後まで飽きさせないようにするか、などなどなどについて、私は編集者たちから貪欲に学び取っていった。時に、多忙なはずの編集長自ら私の原稿の編集を担当してくださることもあった。
 今思えば、ずいぶん目をかけられ、特別といっていいほどの待遇を長年に渡って受け続けたものだと思う。
 言葉を綴る、ということについて、その後もずっとたゆまず精進し続け、今、自分が書くのが「上手な文章」かどうかは知らぬし、そんなことなど一切気にかけないけれども、自らの裡なる思いはいわずもがな、自身の内面にあるのに自分では気づいてなかったようなものすらも自由自在に表現し、人に伝えることができるようになったのは、恵まれ過ぎといえるほどの出発点があったからこそ、と痛切に感じている。
 そして、「言葉の道」を歩み始めた当初において、得難き貴重な教えを実際的な場の中で受けたことに対し、人生の貴重な宝を得たものと深く感謝している。

◎そういえば、よい機会だから個人的なことをちょっとお話しするけれども、私が初めて「担当」というものを体験したあの外部委託の女性編集者、その後も何くれとなく世話を焼いてくれたりして、今頃こんなことを言うのもどうかと思うけど、本当に「いい女」だったよなあ。
 有能で快活で魅力的。でも、それが却って災いし、膨大な仕事をあちこちから依頼され過ぎ、当人にはまったく関係も責任もないようなミスの後始末まで押し付けられたりして、無理がたたり、心労が極みに達したのだろう、私が広島へ引っ越して間もなく、『ムー』誌編集長より電話で訃報を受け取った。
 胃ガンが発見され、即、入院、手術したが、そのわずか3ヶ月後に亡くなったのだそうだ。
 胃ガンの中でも、とりわけたちが悪いとされるスキルス性胃ガンだったらしいが、それにしてもあんなに元気でいつも明るく大笑いしていた人が、どうしてそんなに呆気なく・・・と、私は電話口で返す言葉もなかった。
 かつて、関係者一同を集めて毎年盛大に行なわれる『ムー』編集部の忘年会の帰りに、2人だけで喫茶店へ寄り、それとなく誘われた時、その人の心の中にある寂寥感せきりょうかん――同棲相手の浮気とか、あれやこれや、彼女は一言も言わなかったけれど、まったくもっていまいましいことに、何もかも透けて観えてしまうのだ――を、やさしくうずめ、慰めてあげることをしなかった・できなかったのは、当時若干23歳であったことを差し引いても、やはり1人の大人として、男として、未熟ぶりも甚だしく、今頃になって「抱いとけばよかった」なんてくだらんことをほざくようでは、それは女神の神罰が下って刑務所送りになっても当然、とは思うわけだ。

◎「抱いとけば」で思い出したが、自分に好意を寄せてくれる年上の美女と一つのベッドで一夜を明かす、といういささか非日常的な状況を、若き日の私は幾度も、いろんな場所で、体験したことがある。・・のだが、今となってはトチ狂っていたとしか言いようがないけれども、そんな風に私を信頼し、すっかり心を許してくれている相手の好意に乗じ、手を出そうとするなぞ不届き千万である・・・、と、一指をも触れようとしたことはないよ(やや勢いなく、呵々大笑)。
 一緒に寝ていて性的妄想をいだいたことすらなく、どうしてそんなことができたのか、不思議なくらいだ。かちかちの石頭だったのであろう。
 まあ、当時はヒーリング・タッチのことなぞ夢にも知らぬ小僧っ子であり、そんな低劣な子供のやること・なすことなど、所詮しょせん高が知れている・・・・とはいえ、ヒーリング・タッチをちょっと応用すれば、相手の官能的な高ぶりを知らず知らずのうちに意のままに導くなど実にたやすいことであり、ただそれだけでも危険な劇薬並の作用であるのに、さらに多種様々の媚薬に関する詳細な知識にまで私は今や精通しているのだから、「職業は?」と裁判所などで尋ねられた際には、「魔道士です!」と生真面目な顔で返答するのが本当のところかもしれないが、そういう力と知識をいまだかつて女性たちに対し1度も悪用したことがない、というのが、どうも「魔道士」になり切れてないところなんである。
 なお、念のため申し添えておくと、「悪用」したことはないが、「善用」したことならいっぱいある。大切なのは、ずっと後になっても相手から感謝されるかどうか、お互いに対する敬意と愛が続くかどうか、だと思うんだ。
 この点、明確に述べ、女神に対し、「情状酌量」を願っておく。
 心ならずもいっぱい泣かせてきたけど、うんと努力していっぱい悦ばせるようこれ努めてもきたのですから、プラスなんておこがましいことは言いません、プラスマイナスゼロで帳消しにしてくださいな、とね(呵々大笑)。

◎親しい友に語りかけるような気分で記しているので、ざっくばらんな口調がつい混じってしまいがちだが、ご了承いただくと共に、言葉について今少し述べることをお許しいただきたい。
 私が関わっていた当時、出版業界は空前の大盛況へと突入した。学研などは儲かって儲かって仕方がないから、何か新しいビジネスへ手を広げねばと、いろんな新製品をずらり並べた社内見本市のようなものをしばしば開催していた。私も『ムー』誌編集長に誘われ出かけたことがあるが、いずれもくだらん奇をてらったようなものばかりで、「これはダメですね」と率直に申し上げた、それからわずか10年も経たぬうちに、インターネットの普及と共に業界全体の「斜陽」が本格化し、そして現在の凋落へと至ることは皆さんもよくご存知の通りだ。
 1980年代半ば頃から10数年間に渡る出版業界の活況は、果物が腐る直前に最も美味くなるのと同じように、没落直前の爛熟にほかならなかったのだろう。
 その一番おいしいところだけいただいて、さっさとおさらばしたのは、決してそうしようと思ってしたわけではないのに結果としてそうなっていたというだけのことなのだが、どこまで要領のいいやつなのか、と自分自身でもそう思う。

◎私が執筆業に本格的に取り組むようになる前、夫婦2人で小さな会社を経営している写植職人と知り合った。
 当時、言葉を「活字」として定着させるためには、「写植」という作業が不可欠だった。文字を1つ1つ探して文章を組み上げてゆき、それを元に「製版」がなされ、印刷・製本し、雑誌や本が出来上がるのだ。
 どこが気に入ったのか、生意気盛りの若輩者じゃくはいものに過ぎぬ私を夫婦揃って随分もり立ててくださり、いろいろお世話になりもしたのだが、その人たちの言葉の端々に妙な自尊心と卑屈さがみえ隠れしていたのは、自分たちがやっているのは言葉の農奴のごとき裏方仕事ではあるが、しかし、我々がいなければ出版業界など成り立たないのだ、ということだったのだろうと、今になってそう思う。
 ところが、その後まもなくワープロが一気に普及し、コンピュータ処理による電算写植という新技術が登場して、手作業で一文字一文字根気よく組み上げてゆく写植業者は一斉にお払い箱となってしまった。
 私の最初の本は、原稿用紙に手書きした。2冊目は西表島いりおもてじま滞在中にワープロで書き上げたが、グーテンベルク以来の大規模な印刷革命の嵐のまっただ中を、私は呑気に・平穏無事に、くぐり抜けたわけで、一体どこまで要領がいい、というべきかラッキーというべきか、いずれかは知らぬけれども、「こいつはもう」、とまたしてもそう思うわけだ。
 その自らの幸運を、独占しようとか、自分のためだけに使おうなどと考えたことは、これまで一度だってないけれども。

◎過ぎ去った過去について、くどくど述べてきたことには、もちろん理由わけがある。
 幸運とえにしに恵まれ、努力と研鑽を重ねながら、「言葉の道」をひたすらに歩み続けた結果として、言葉のエッセンスと言うべき<何かサムシング>が、私が紡ぐ言葉には期せずして、自ずから、こもるようになった。
 言霊ことだま
 私の言葉は、だから、呪術だ。
 とりわけ、裁判中にインターネットで発表した文章にはすべて、激烈とすら言えるほどの言霊の呪力がこもっている。最近、それらの草稿全部を一気に読み返してみたのだが、裁判関連の無機質な事務資料は別として、ところどころに織り交ぜた随想に込められた言霊は、極めて危険なレベルのものであることがよくわかった。あれでは・・・諸々もろもろの荒ぶる魂や復讐の女神などが召喚され、世界に災厄がもたらされて当然、とすら思えるほどだ。
 ディスコース『対話篇1』第三回、第四回にて、私への理不尽な弾圧が世界に反転した(かのようにみえる)ことについて友人らが熱心に述べているけれども、冗談、ではもはやすまされぬのかもしれない、と切迫感を伴って感じている。ちなみに、今や誰もが知る言葉となったロックダウン(lock down)には、「囚人を閉じこめる」という意味がある。
 もちろん私は、多くの皆さんがよくご存知の通り、ナイーヴ過ぎるほど真剣・誠実に、常に愛と祈りに満たされながら裁判を「生きる」べく、終始一貫して努力し続けた。
 が、その全地球的にトータルな祈りは、軽んじられ・侮蔑され、そしてたぶん怖れられて・・・巨大な国家権力により踏みにじられた。
 そうした体制側の悪意が、内破レット・オフの作用により勝手に反転し、思いがけず全世界へ波及したとしても、そのことに対し私が負い目や責任を感じる必要などないのかもしれない。
 正当防衛ですらない。何もしてない、のだから。龍宮道とまったく同じだ。
 が、自らを通じて顕われ出た言霊を鎮魂することくらいは、この惑星を去る前にやっておくべきToDoリストに加えてもいいかな、と思う。「あとは野となれ山となれ」よりは「立つ鳥、跡を濁さず」の方が、どちらかといえば、私は好きだ。
 というわけで、実はその鎮魂作業をこのリフレクション・シリーズですでに始めているわけだが、今後も頻繁に裁判時の随想を再録し、そのつど言霊を鎮めてゆく所存だ。・・・ことこころざしたがい、ますます反転呪術が世界へ強力にかかってしまうかもしれないけれども。

◎Google社は毎年、『Year In Search』を発表し、その年、最も頻繁に検索された言葉を公表している。
 昨年(2021年)、世界中でこれまでにないほど検索されたのは「ヒーリング(healing)」という言葉だったそうだ。
 世界はいやしを求めている。身にしみて、この上なく切実に。
 そのことだけは確かだ。

<2022.04.30 牡丹華(ぼたんはなさく)>