◎野母崎(長崎)の名人が作ったカラスミでないとダメだ、などと以前は公言していたものだが、そういう名人らは皆すでに姿を消してしまったようで、上質なボッタルガ(イタリア製カラスミ)の方がむしろいけるじゃないか、と今では感じるようになった。
ボッタルガの薄切りを梅昆布茶と共に楽しみながら、『地球の限界』(河出書房新社刊)なんて辛気臭い本を読んでいると、これが年を取るということかなあ、とつくづく思えてくるから面白い。
『地球の限界』は、地球システムの現状を手っ取り早く知るには良い本だが、読み始めてすぐ落胆したのは、地球の危機に対処する方策として「オン(何かをすること)」の方面のみが説かれ、「オフ(するのをやめること)」がスッカリ忘れ去られている。
残念ながら、そうしたオンの手法はあまり効かないだろう。なぜなら、オンへの偏りこそが、現在の全地球的な危機の根本原因だからだ。
キリスト教では自殺は最悪の大罪とされ、地獄で永劫の罰を受けることになっているそうだ(ただし、自殺を罪悪視して禁じる記述は聖書のどこにもない)。人類が今やっていることは、地球規模の自殺にほかならないのだが。
◎オフは死に通じる。ヒーリング・ネットワーク1の初期から、ずっとそのように説いてきた(だから、あまり人気がない・呵々大笑)。龍宮道では、武術的要素が強調されているから、オフと死の距離はさらに近くなった。武術の本質とは元々、命のやり取りにほかならない。それは、生と死、生きるか死ぬか、が直接問われる実存的な道だ。
かつてレット・オフを、「死のアート」(アルス・モリエンディ)と呼んだこともある。
死に極めて近いところまで行ったことは何度もあるのだが、まだ完全に死んだことがないので全面的確証をもって述べることはできないが(読者に対し誠実であるためには、このように回りくどい言い方をせねばならないのだろう)、しかし、死とは、トータルなレット・オフにほかなるまい。レット・オフを深めてゆけば、そのことが理屈だけでなく全身丸ごとでもわかる(感じられる)ようになってくる。
ところが、レット・オフは死のアートであるとわかった途端、多くの者が怖じ気づく。遅かれ早かれ確実に誰もが皆、死ぬというのに、そのあらゆる人にとって人生最大・最後の大イベントである死へ向け準備するのは、ある一定年齢を迎えた者全員が心がけるべき基本事だと思うが、どういうわけか皆が背を向けるのだ。死がとても怖いらしい。
死んだ後のこととか、死ぬ瞬間などについて考える勇敢な人が少しはいるけれども、そこからさらに進んで、死ということ、死そのものを自ら実際に味わってみようとする者、死をダイレクトに感じてみようとする者――それを真の勇者と言う――は極めて少ないようだ。
◎裁判中に記した過去の草稿を整理しながら再録してゆくのは、こんなひどい目に遭ったんだぞと自慢したり・感傷にひたるためではもちろんないし、社会的な不正義を告発するためでも「ない」。このことは最初にハッキリお断りしておく。
なぜそうするかといえば、過去に執筆した文章を読み返すたび、強烈な<怒り>を覚えるからだ。
レット・オフを使ってすでに充分、禊祓ったはずなのに、次から次へと怒りが湧き上がってくる。・・ということは、レット・オフが不充分だったということだ。より正確に言うなら、レット・オフの対象(材料)としての怒りが、徹底的でトータルなものではなかった。不完全にしか怒ってなかった。怒りが十全なものとなるほど、事態・事情を明晰に理会できてなかった。朴念仁、と自ら呆れ返っているのはこのためだ。
真実と全面的に直面して受け容れ、怒りを開放して燃え上がらせる。個人的な瞋恚(怒りや憎しみ、憎悪)の暗い火を、個我を焼き尽くす不動明王の憤怒炎へと高め・明らめ、自らのすべてをその火炎へ投ずる意気をもって、すべてを徹底的に・芯の芯まで燃やし尽くす。
これは、怒りそのものとなって超次元の宇宙的焔で灼かれるということだ。怒りを究極的にヒーリングする行だ。
そうした宇宙的ヒーリングのため、私は「こんなこと」を今、やっているのだ。だから、どうかくれぐれも誤解なきように。
◎当時の状況や大まかな裁判内容を知らない方々には意味不明の箇所も多かろう。大まかにかいつまんで説明しておく。
ヒーリング・ネットワークで学んでいた友人の一人が海外のウェブショップを通じ、メチロンという化学物質を購入した。低俗なお遊び気分によるものではなく、真剣・誠実な動機に基づくものであったはずだ(真剣・誠実ならば何をやってもよいと言っているわけではない)。
メチロンというのは、その数年前まで何らの規制もされてなかった比較的穏やかな作用の物質だが、それがいつの間にか我が国で麻薬指定されていたのだ。麻薬などとは知らなかった、知らないこととはいえ申し訳ないことをした、同じ失敗は二度と繰り返さない・・・。そのように当人は心底驚き、深く反省していたのだから、起訴されて裁判になっても無罪か、仮に有罪となっても執行猶予がついて刑務所へなど行かなくてすむのが普通だ。しかし結果は、問答無用で1年半の刑務所送りとなった。
だが、それで・なぜ、私までが刑務所へ、4年半も行かねばならなかったのか?
「すべて高木に指示されてやった」「麻薬とわかった上で密輸を企てた」「ヒーリング・ネットワークとは麻薬密輸組織である」・・・このような驚くべき偽りの供述を、警察&検察が友人から強制的に引き出していたからだ。
むろん、すべて事実無根のデタラメである。普通の社会的常識に照らせば、むしろ馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないような低劣な讒言・作り事だ。が、そのデタラメに基づき、私は不当逮捕され、裁判にかけられ、「悪質な反社会的犯罪」と決めつけられて執行猶予なしの実刑判決を受けたのだ。
◎すでに刑務所へ入っている友人を裁判の場へ喚び出し、私に関する供述が事実かどうか確かめれば良いではないか・・・誰でもそのように考えるだろうし、私もまた、そう思った。証人を喚問することは、憲法が保障する被告人の権利でもある。
ところが、検察官は頑なに証人の喚問を拒み、裁判官もそれを支持した。友人がどこの刑務所へ入っているのかさえ、検察官は弁護士に教えようとしなかった。弁護士たちですら、「どうせ喚んでも、こちらに不利な証言をさせられるだけだから」と異様なほど消極的だった。
検察官は非公式の場で弁護士に、「もし証人を喚べば立証の柱が崩れる」と漏らしたそうだ。私を起訴できなくなる(起訴したことが間違いだったことになる)から証人は喚ばない・喚ばせない、というわけだが、「立証の柱が崩れるほどの重要かつ根本事であるとしたら尚のこと、その証人を喚んで詳しく調べ、確かめるのが本筋ではないのか?」というごく普通の市民感覚を、あれら司法に携わる者たちは持ち合わせてない。感性が、まず根本的に違うのだ。
◎自分の無実を直截に証しする道が不当にも断たれてしまったなら、それでは一体どうすればよいのか?
今もそうだが、当時私が人生をかけ取り組んでいたのは、<ヒーリング>の一事だった。ならば・・・裁判そのものをヒーリングし、ひいては社会、国家へとヒーリングを及ぼす。私に「意図」できるのは、ただそれだけしかなかった。
裁判の一部始終をインターネットですべて公開し、それを素材とするライヴ・ドラマ・アートという新しい作品を、インターネット上で創造してゆく。このライヴ・ドラマ・アートの観照(観賞)者は、超宇宙法廷における陪審員たちだ。果たして私は有罪なのか、それとも無罪なのか・・・。
今回ご紹介するのは、『インターネット裁判』と題して執筆し始めたその作品の、冒頭に掲げた序言だ(2014.04.24公開)。
本ウェブサイトをひもとかれる方々の中には、私という人間をよくご存知の人もあれば、その存在を初めて知ったという人もいらっしゃることだろう。
そもそも私自身が、「私とは誰か? 私は何ものなのか?」について、半生をかけずっと問い続け、探し求め続けてきた。
「私は誰か?」・・・「私はどこから来たのか?」・・・「私はどこへ行くのか?」
この3つの疑問は、「私(自分)」への、「生」への、人類共通の根源的な問いかけだ。
人はこの世に生まれ、言葉を発するようになって間もなく、身の回りのあれやこれやについて疑問を持ち、周囲の人々に問いかけ、「知る」ことを欲するようになる。この、尽きることなき<知>への欲求は、まことに我々人類の本性、あるいは本能とすら呼び得るものではあるまいか?
「私は誰か?」・・・この、言葉によっては決して答えることができない究極の問いを、真剣に、誠実に、謙虚に、30年以上かけ、人生のすべてをかけて、ずっと探求してきた。
その間、可能な限り周囲の人々に迷惑を及ぼさないよう配慮してきたことはもちろん、探究の過程で得た「善きもの」――それを私は<ヒーリング>と呼んでいるが――を人々と分かち合うべく、常に祈り願ってきた。人々を病苦から解放する手助けをしたことは少なからずあるが、いかなるものであれ、他者に強制したことなど、これまで1度も、ない。
ここ最近は、特に芸術という表現手段を通じ、自己と他者の間に橋を架け渡し、世界へメッセージを伝えることに全精力を注いできた。ここで言うメッセージとは、「私」という一個人の意見とはまったく違う。それは、私の内面を通じて顕われ出ずる、人類の、否、地球生命の、時間と空間を超えた、声なき声のごときものだ。私は、そしてあらゆる芸術家、宗教家、シャーマン、改革者、探究者・・・らは、皆、この普遍的で大いなる生命の意思の媒体にほかならない。
世紀が改まってから10年近く、テレビを見ず、本も雑誌も読まず、年に1~2回程度開催する公開ワークショップとインターネットを通じての情報発信以外、世間とほとんど接触を持たない生活をずっと続けていた。東日本大震災のことも随分遅れて知ったし、日本の総理大臣が今誰なのかさえ、私は知らない。
もちろん、その間、ただぶらぶらして無為に時間を過ごしていたわけではない。
私の探究は、根源的な<知>への欲求に端を発する哲学的・宗教的なものであると同時に、人類への、生命への愛に根ざしたものであり、人々のため、地球生命のために献身したいという裡なる熱願は、今も昔もまったく変わらない。否、ますます激しく燃え盛っている。
献身とは・・・私にとっては、わが一命を捧げることを意味している。これは、比喩とか誇張ではなく、文字通りの「意味」だ。
そのようにして、外面においては静かに、世界の片隅で目立たず、内面においては烈しく、真剣に、「生きる」べく、努力を払い続けてきた。その結果として、今、私は「罪人」として糾弾され、裁きの場に引きずり出されるに至った。
それみたことか。
真摯に生きるなんて馬鹿を見るだけだ。
(ずる)賢く立ち回らねば。
理想と現実は違う。
この世は、「うまくやった者」が勝つのだ。
表と裏を使い分けるのが大人だ。
わが身が大事。
・・・そんな声が、人類の集合的無意識のヘドロ的堆積物の中から吹き出る瘴気のあぶくのように聴こえてきそうだが、生来ナイーヴにできているのか、53歳になった今でも、そうした「つぶやき」に耳を傾けようとする気持ちが、まったく起こらない。
罪があるかないかを判断するために存在するのが裁判であり、あらゆる被告人は最終的な判決が下されるまでは「無罪」として扱われるのが大前提・大原則となっているはずだ。これを「無罪推定」といい、この言葉は世事に疎い私ですら知っていたほどだが、体験に基づいて断言するが、この重要な原則が、日本においてはまったく守られていない。これは私のみの特殊なケースではなく、日本の司法一般に深く浸透している通弊であることを、保釈後、いろんな情報に接する過程で確信していった。
逮捕されて留置場に送り込まれるや、名前を取り上げられて番号で呼ばれるようになる。年下の刑事から、なれなれしい口調・態度にて、あらかじめ犯罪者と決めつけられた上で、蒸し暑い小部屋で連日長時間の取り調べを受ける。最低限の食事、最低限の入浴。外から丸見えのトイレ。取り調べ期間が終わり、留置場から拘置所に移送された際には、裸に剥かれて肛門の中まで調べられ、「(陰茎に)玉を入れて」いるか否か、といった意味不明な問いかけを受けた。4ヶ月の勾留期間の後半を過ごした大阪拘置所には冷暖房施設もなかった。極寒期であっても、湯たんぽすら支給されない。にもかかわらず、 1日20~30分の運動時間以外、狭い居室内で終日じっと座り続けているよう強制されるのだ。
これは・・・明らかに犯罪者扱いにほかならないと思うが、諸君はいかがお感じか? 国際的な基準に照らせば、日本で公然と行なわれている「これ」は、基本的人権の侵害であり、拷問にすら相当するものであるという。
留置場でも拘置所でも、紐のついた衣類の持ち込み、差し入れが厳禁されているが、これは首をくくって自殺することを防ぐための配慮であるそうだ。逆に言えば、そこは、人を自殺したくなるような気持ちにさせ、追いつめるような場所である、ということだ。
基本的人権とは・・・・人が生きる上での最低限のラインを示すもの。死なないように、病気にならないように、ただそれさえ守られておれば、それで充分。
このたびの一件を通じ、私は無意識のうちに、そんな風に感じるようになっていたことに、保釈後、しばらく経ってから気づいた。
が、それはまったく違う!!
基本的人権とは元来・・・・人が、人らしく、溌剌として希望に満ちて生きるための、権利と自由を意味する言葉であり、憲法に先だって存在するものであったはずだ。それは、罪人であろうが、身体的あるいは知的障害者であろうが、認知症患者であろうが、回復の見込みがない植物人間であろうが、「あらゆる」人間に、「平等」に適用されるべき、「基本的な」権利であり、自由なのだ。
人類の有史以来の歩みは、常に、「自由」を求める努力、戦いに、貫かれてきた。
現在の日本では、それはある一定の勝利を収め、私たちは自由を謳歌し、人間らしく生きるための権利を保障されながら生きていると、大半の人々が信じている。思い込んでいる。かく言う私自身が、ずっとそのように信じていた。
が・・・、真実を言おう。
それは幻想なのだ。
真実は、時として耳に痛い。苦い味がする。目を背けたくもなるだろう。
直面するためには、勇気が要る。
私は、自らの実体験を通じ、あなた方に告げる。
人が人として、人らしく「在り(存在し)」、「生きる」ための、最も基本的な権利と自由とが、極めて巧妙な形で、我が国においては、侵害されている、と。
顧みて、誠実に、真剣に、自らに問いかけていただきたい。
あなたは、溌剌として、歓喜と感謝に満たされながら、<今>を生きているだろうか?
あなたの<今>は、希望の光に輝いているだろうか?
あなたは、自らの人生に、自分が「生きている」という事実に、確信を抱き、深く満足しつつ、日々を送っているだろうか?
あなたの「生」に暗い影が差すとしたら・・・・それは、あなたの「自由」が、何らかの形で制約され、抑圧され、妨げられていることを示している。
私は、何でも好き勝手にやりたい放題という意味で「自由」という言葉を使っているわけではない。くれぐれも誤解なきように。私が言う自由とは、心身両面における「囚われからの解放」を意味する。
2014年3月3日の深夜、突如、天啓のごとく全身全霊を撃つ「理会」に貫かれた。
誰もが嫌がり、面を背け、可能な限り避けようとする、難解な、わけのわからぬ、そしてしばしば極めて理不尽なる、「裁判」というものを、「ヒーリング」し、「芸術化」し、面白く、楽しいものへと変容させること・・・。
それこそ我が使命であり、人生を賭けたチャレンジであり、取り組み甲斐のあるヒーリング・アーツ創作活動にほかならないと、「わかった」のだ。ちなみに、頭だけでわかる「理解」に対し、頭を含めた全身丸ごとでわかることを、私は「理会」と表記して、両者の違いを強調している。
裁判はすでに始まっており、弁護人より冒頭意見陳述書なるものを記すよう求められ、せっつかれてきたのだが、相手側は反則でも何でもやりたい放題、こちらは制約の多い中でルールを守りながらひたすら防戦一方、多勢に無勢、蟷螂の斧・・・どころか戦車に轢かれる寸前のアリ、という状況にて、一体いかなる「意見」を述べたものかと思い・惑っていた。
ところが、上述の「裁判のヒーリング・アーツ化」という理会と共に、陳述書の全体像が一瞬で閃き、それを直ちに文章化していく過程で、逮捕以来今日までずっとつきまとっていた、もやもやとして何か釈然としない感覚の正体や、このたびの裁判がはらむ国民レベルの問題点などが、判然として「わかる」ようになってきたのだ。これも一種のヒーリングといえようか。
ようやく・・・・ようやく、裁判が「楽しく」なってきた(呵々大笑)。
私は、たとえ自分の命がかかっていようが、「楽しく」感じられないことに対しては、まるで真剣になれない人間だ。
裁判を「遊ぶ」。
むろん、浮ついた、その場限りの無責任な「お遊び」ではなく、自らの命を、人生を賭けた真剣な「遊び」だ。「心を天に遊ばせる」といった言葉でもわかる通り、「遊び」には、大いなるものと通じ合い、一体化する意味も含まれている。
ライヴ・ドラマ・アート。
これは、裁判をモチーフとして、「生きる」ことの本質や「自由」について、 ヒーリング(調和、心身統合、生命力の迸り)を旨としつつ、まったく新しい芸術様式を通じ、問いかけ、表現していこうとする試みだ。
そして、果たして私に「罪」があるのか、ないのか、真に罪ある者とは誰あるいは何なのか、その最終的な判断を、「皆さん1人1人」に、委ねたいと思う。
インターネット裁判の開廷を、ここに宣言する。
<2022.05.26 紅花栄(べにばなさかう)>