◎初夏になると、真夜中、突然素っ頓狂な鳴き声があたりに響き渡り、何も知らない人は鳥か、獣か、それとも珍しい昆虫、または妖怪でも現われたのか、と驚く。
私もその1人で、ある時、どうにも我慢ならなくなって、ネットで「夜中 鳴き声 鳥」と検索してみたら、騒ぎの主がホトトギスであると判明した。「鳴かぬなら・・・」の句で有名な、あのホトトギスである。
◎冤罪で刑務所にぶち込まれていた時のことだ。
ある時ラジオから、ショパンの『幻想即興曲』(即興曲第4番嬰ハ短調)が唐突に流れてきたことがあった。ほとんど同時に、背中一面に細かなひび割れが無数に入ったような感覚が起こり、背中のこわばりがみるみるほどけ始めた。冒頭の流麗なメロディに続き、モデラート・カンタービレの中間部へ移ると、背中のとろけ具合はもう、言語化できるレベルを越えている。
いつも○○ポップスやら△△ロックやら、うるさいだけの興味もない曲を無理やり浴びせられ続け、背中(背骨周辺)を無意識のうちに固め防御していたのだと、その時初めて気づいた。刑務所の中でクラシック音楽を聴いたのは、全部で2~3回だったろうか。そのたびに背中が緩んで開くのを確認した。
そんな体験をしたからか、出所後はショパンをしょっちゅう聴いている。龍宮館リビングで四方の窓を開け放ち、吹き抜ける爽やかな風を気持ちよく浴びながら、今の季節だとマレーシア、キャメロンハイランド産のBOH TEAをミルクティーで美味しくいただきつつ、ショパンを全身の皮膚で感じる、これが最近の楽しみの一つである。・・・まったくもって年寄りめいている、と自分自身でもそう思う(呵々大笑)。
ちなみに、「ピアノの詩人」フレデリック・フランソワ・ショパンは、わずか39歳でこの世を去っている。
◎最近はまた、南洋のSASHIMI研究にも没頭している(ここで言う南洋は、南方の広い海、程度の意味)。
ミクロネシアのパラオでは、かつて日本の信託統治領だったこともあり、醤油とわさびで普通に刺し身が食べられているし、「サシミ」という言葉もパラオ語に取り込まれている。
ところが、マーシャル諸島のサシミは、薄切りにした生の魚に塩・胡椒・ガーリックパウダーを振りかけて10分ほど置き、ココナッツミルクで和えてライムを搾り、最後にパプリカかピーマンのみじん切りを乗せるのだそうだ。レシピを聴いただけで、南洋気分が盛り上がってくる。
小笠原のピーマカとかフィジーのココンダなど、南洋各地のSASHIMIはそれぞれ独特で、本当に面白い。
フィリピンにはキラウィンという生魚のマリネ料理があるが、以前龍宮巡礼で訪れた際、フィリピン主婦に作り方を習ってきた。フィリピン製の材料を使わないと現地と同じ味にならないのが難点だが、今はそういう特殊なものも通販で比較的簡単に手に入る時代だから、興味のある人は是非試してみるといい。
写真に写っているソース(クラシック、チリ味、カラマンシー味の3種がある。カラマンシーというのはフィリピン特産の柑橘類)と調味料(顆粒)、それから酢を混ぜればマリネ液が出来上がる。酸味を少し強めに押し出すのがフィリピン流のようだ。このマリネ液で、まぐろ・新タマネギ・キュウリ・パプリカをみじん切りにしたものを(ヒーリング・タッチにて)和える。最後にライムまたはレモンを搾り、粗びきの黒胡椒を振りかければ完成。ポンペイ島(ミクロネシア)産の黒胡椒をお勧めする。豊かで奥行きのある香りが素晴らしい。
余談だが、タイ料理のトム・ヤム・クンが好きなのだが辛すぎるのが困りものだ、という人が案外多いようだが、そういう人にはフィリピンのシニガン・スープをお勧めしたい。簡単に言えば、トム・ヤム・クンから唐辛子の要素を抜いたスープなのだが、タマリンドベースの奥深い味わいがやみつきになる。現地では毎日必ず飲んでいたし、日本でも特に暑い時期には時々作って楽しんでいる。具は海老、白身魚、鶏肉、カブ、チンゲンサイなど、適当なもので構わない。シニガンスープの素なるものも通販で売っている。
◎ヤングココナッツのジュースと共にキラウィンをいただきながら、ハワイやカリブの音楽を聴いていると、さらなる南洋気分の高まりと拡がりを感じる。
不当な冤罪で刑務所へ行き、人類の罪業を幾分かでも贖ってきたからか、霊的マイレージがたっぷりたまっているようだし、海外各地の巡礼候補地から霊的招待状が届き始めてもいるので(これがないと勝手に巡礼へ出かけても大した成果をあげることはできない)、そろそろ海外巡礼の再開である。パスポートは昨年のうちに油断なく更新してある。
撮影機材とかシュノーケリング・セットなど、大荷物を抱えて渡航するとなると、それなりに体力も要る・・・ということで、身体鍛練も少しずつ開始した。龍宮道には、短時間で行なえて効果抜群の鍛練法がいろいろある。
そういえば、随分さびついているであろう英会話の勉強も始めねばなるまい。刑務所内での余暇時間に英語やインドネシア語を勉強し、特にインドネシア語は初級レベルの本を何冊か、最初から最後まですべて暗記するほど熱心に取り組んだけれども、何せCDプレイヤーすら持ち込めない環境ゆえ、発音やアクセントがまるでわからない(インドネシア語は新しい言語のため、現在もかなりのスピードで変化し続けている)。私のインドネシア語は、現地の人が聴いたら思わず吹き出すような、時代遅れの珍妙なシロモノであるに違いない。
◎現在、地球上に暮らすほ乳類の全体重のうち、我々人類と、牛や馬、羊などの家畜が占める割合は約96%、残りの4%が野生のほ乳類だという(ゾウやクジラなども含む)。
この数字を初めて刑務所内で目にした時、印刷ミスかと思った。が、出所後にいろいろ調べてみると、どうやら本当らしい。数世紀前まで、この比率が反対だったことを思えば、人類のせいで地球がかなり際どいところまで来ていることがよくわかる。
環境考古学で判明した過去の局地的な気候変動と人類の歴史とを重ね合わせてみると、気候が変わる時には大規模な民族移動や戦争、価値観の転換などが起こっていたことがわかってきた。つまり、文明の推移は気候と密接な関わりがある。
このたびの気候変動は、地質年代が変わるほどのかつてなかった規模のものだから、それに伴い地球レベルの地政学的変化や、おそらくは世界大戦などが、これから頻々として勃発することになるだろう。
今さら個人が巡礼して地球生命へ奉納を捧げていっても、とうてい追いつくようなものではないのかもしれない。・・・だからといって、投げ出し、放っておくわけにもいくまい。
ただ、超越的なる要請に応えるのみ。いつでも命を捧げる用意が、すでにできている。
◎友人が不注意にしでかしたことの「とばっちり」を受け、不当逮捕・拘留・取り調べ・起訴・裁判へと進んでいった経緯については、以前も簡潔に記した。最初、「自分の元で学んできた者の行ないに対しては、全面的に責任を負う覚悟がある」と警察で堂々と述べたことも、悪意ある曲解により、私に罪ありとみなす判断材料とされたようだ。「ほら、責任を認めたぞ。やはり有罪だ」、というわけだ。
「共犯者」とされた友人を法廷へ呼び、問い質しさえすれば、私の無罪は簡単に証明できたろう(事実、控訴審終了直前にその友人と弁護士を通じ連絡が取れるようになった時、当人は、拷問に等しい尋問により事実無根の供述を引き出されてしまった事実を認め、喜んで法廷で真実を証言すると約束してくれた)。が、そうなるかもしれないとあらかじめわかっていた検察官と裁判官は、証人喚問を不自然なまでに頑なに拒絶した。
我が国の司法制度においては、裁判官が一言、「この証人は採用しない」と法廷で宣告すれば、書類上、その証人は存在しないのと同じになってしまう。いかなる無罪の証拠も同様だ。不採用の理由や根拠を示す必要すらない。そして、そのような意図的操作を加えたことで、後になって裁判官が非難されたり、責任を問われることは一切「ない」のである。明らかな証拠をわざと見過ごして、無実の人間を死刑台送りにしたとしても、だ。「やりたい放題」というのは、決して誇張ではない。
◎私を取り調べた刑事らは、論難され自分たちの都合が悪くなると口々に、「法律で決められているのだから絶対だ!」「法律を守らなければ警察に捕まり、刑務所へ行くのは当然だ!」と大声でわめき散らすのが常だった。
なるほど、それは確かにその通りかもしれない。それでは、検察官殿、私を裁く根拠となるその法律が、一体いつ、どこで、誰によって、どのような理由で、改正(あるいは改悪)されたのか、まずはそれを教えていただけませんか。・・・そのように、法廷で謙虚に申し出た。
やってもいないことをやったと一方的に決めつけられ、それについては最初から確定で覆すことはできないという実に奇妙かつ理不尽な状況の中で、被告人として積極的に何かできることといえば、それくらいしか思いつかなかったのだ。個人的な無罪を勝ち取ることを抛擲し(投げ捨て)、国家・社会のヒーリングへと意図を向け換える、というのはそういう意味だ。
ところがその肝心要の「法的根拠」なるものを、検察官は裁判の場で明確に示すことができず、自身の責務たる立証責任を最後の最後まで果たせなかったのである。「これがそうだ」と彼が提出した文書は、少し後になって判明したことだが、実際には裁判とは直接関係のない書類に過ぎなかった。
まともな裁判であれば、もうこの時点で私は無罪だ。起訴し、裁判にかける根拠となる法律の正当性を証明する公式記録が、存在しない(作成してない)というのだから。その存在しないものを、あると偽って法廷へ持ち込んだ検察官の非と責任こそ、むしろ糾弾されるべきであろう(虚偽有印公文書作成/使用罪)。
◎刑事らが騒いだように法律の絶対性を言うのであれば、憲法が求める正しい手続きに則ってその法律が制定・改正されたものであることが、「絶対に」必要だ。民主国家・法治国家であればごく当たり前のこと、そのように断言しても決して過言ではあるまい。
適正な手続きに基づかない法律により、国民が裁かれたり罰せられたりしてはならない。そのように日本国憲法第31条は力強く明言している。「適正手続き」こそ、あらゆる法律の根幹にして最重要事なのだ。
中学生でも知っているように、法律のことは国会で審議して決めることになっている。ところが、この三権分立の大原則すら、日本ではまるで守られてないのだから情けない話だ。殺人と同等の重罰を含む法律の制定・改正が、白紙委任された行政(各省庁と内閣)によって平然となされている。
これ自体も由々しき問題だが、仮に白紙委任を認めるとして、そうであるならばなおのこと、国会と同等、あるいはそれ以上の厳正な手続きが求められるのは当然だろう。具体的には、透明性を確保した上で国民監視の元、有識者らによるしっかりした議論を重ね、国民の意見を誠実に傾聴し(有名無実となっているパブリックコメント制度は本来このためにある)、その上で国会で慎重に審議するのだ。後の検証に資するため、すべてのプロセスをきちんと議事録に残すのも、これまた当然のことだ。
ところが、メチロンという化学物質を麻薬指定した際の議事録は作成すらされてなかった。我々が独自に国立公文書館で発掘した800ページ以上にも及ぶ関連資料は、厚生労働省によって9割が黒く塗りつぶされていた。何か、知られては非常にまずいことを、厚労省は国民に隠れてコソコソやっているらしい。
国家によるそうした「おかしなこと」「怪しいこと」が、裁判の過程で次々と浮上するに到っては、一体誰の裁判をやっているのか、真に問題とされるべきは何なのか、被告人たる私自身でさえ時に方向性を見失いそうになるほどだった。
◎次回より、(他のあれやこれやを差し挟みつつ)裁判中に記した随想の整理・鎮魂作業を再開するが、これ以上読者をじらせるのはやめにして、私が先日来、述べている「深刻な疑問」を、今ここでハッキリ記しておこう。
・・・あれらの裁判官や検察官どもは、「先入観や強固な思い込みにとらわれ過ぎて判断を誤ってしまった」わけでは「なく」、「何もかもすべてわかった上で、わざとやった」のではないか・・・。
!?!?!?!?
まっとうな議論をすべて一方的に退け、私に有罪を宣告した際の、第一審担当裁判官らのあのきょろきょろ不安そうにまわりを見回す落ち着きのない態度(その後、逃げるように法廷を立ち去った)、あるいは第二審(控訴審)の裁判官らが判決文(控訴棄却)を読み上げる時の、人を小馬鹿にしたような薄気味悪いニヤニヤ笑い、などが今も鮮明に脳裏に焼き付いている。
ところで、その判決文と称する下手くそな文章には、以下のようなことがあからさまに記されている。
「厚生労働省が(法律の改正を)きちんとやったと言っているのだから、(証拠となる文書はないが)それで別に問題はない(=行政様は無謬なり。過ちを犯すことはない)」「第一審の裁判官たちは裁判手続き上のミスを犯しており法律違反である。が、大勢に影響を与えるものではないから何の問題もない(=国民はわずかな過ちも決して犯してはならないが、裁判官や検察官、警察官についてはこの限りにあらず)」。
控訴審を担当した女性検察官は、こちらが新たに提出した無罪の証拠について、「昨日受け取ったばかりで、まだ内容を確認していませんが、不要と考えます」などと、法廷でしゃあしゃあと述べ立てた。それに対し裁判官は何と答えたか? 「それでは不採用とします」・・・だそうだ。
そういうことが日常茶飯事のようにまかり通ってしまっているのが、我が国の暗黒裁判だ。
私は東京大学で一時学んだことがあるので、一般社会の常識からは想像すらできないほど異様に歪み・膨れ上がった、いわゆる「エリート」の価値観や考え方というものをよく知っている(東大をやめたのは、そうしたエリート主義にどうしても馴染めなかったことが最大の原因だ)。
「わかった上で、わざとやった(今もやっている)」と、私が一方的に決めつけるのは不当だろう。が、「間違いを犯してしまった」というよりは、「間違いを間違いと考えておらず、(権威に屈することなく疑義を唱える)生意気な被告人を苛め罰するため、わざとやった」と考える方がずっと理にかなっているし、私が直接知っているあれらの連中が、いかにもやりそうなことではある。
果たしてどちらが正しいのか、それを明らかにすることに、前にも述べたが、今の私はまるで興味がない。ただ、怒りを沸点まで高め、それを材料として巨大なレベルのヒーリング作用を発生させようとしている・・・私がやっているのはそれだけだ。
<2022.06.05 蟷螂生(かまきりしょうず)>