Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション2 第十四回 神の遊びを舞う

◎前回発表した内容は、裁判中からずっと私を支援し、共に裁判を戦った友人たちにとっても衝撃的だったようだ。流心会のチームコミュニケーションツールへの投稿を2、3ご紹介しておこう。

「・・・(前略)・・・裁判における『深刻な疑問』について読ませていただいたとき、衝撃を感じ、公判の記憶が走馬灯のように蘇りました。推定無罪という原則に基づく裁判の公平性を信じ、有志一同が力を合わせましたが、こちらに有利なたくさんの証拠も殆ど全てが無視され、却下されました。それだけでなく、被告人の発言を途中で遮ったり、都合が悪くなると強制終了させるなど、裁判官達のあの横暴さを思い起こしますと、先生がおっしゃられています『深刻な疑問』が真実ではないかと思えてきました。」(渡邊義文)
「・・・(前略)・・・今回、裁判中に発表された内容を再録して順を追って説明されていく中で、ゆっくりと胃の中に嫌なものが流れ込んでいくように納得していっております。司法が機能していない、検察が腐っている・・・などなど、週刊誌などにいくらでも載っていますし、裁判中もそれを理解した上で運動していたと思ってはいたのですが、改めて、それらの組織や人々が正義や真実、公平・公正を全く信じておらず、はっきりと『そういうものだ』と認識した上で社会を管理していることが腑に落ちてきました。自分たちは支配・統制する側であって決して反対側には回らないことを前提に、便宜を図り、もみ消し、押し通す悪辣さに吐き気がします。」(道上健太郎)
「・・・(前略)・・・裁判の話は、私もすべての公判を傍聴しておりましたので、全くの真実だと証言できます。当時は怒りを通り越し、こんなことが起こるのか? これが我が国の司法であり、私たちを守ってくれると信じていた憲法や法律を守る人々なのか? と信じることを拒否したい気持ちの方が強く、長らく忘れ去ろうとしてきたことに気づきました。古傷に触れるような痛みを感じながら読ませていただきました。当時ははっきりと認識できていないところがありましたが、有罪の根拠である友人を証人喚問し、検証していくというシンプルな方法をとれば、無罪であることは明白であったのだと改めて思い出しました。最初から弁護士にもそのことを相談していたのに、何かよくわからない裁判の常識のようなことを聞くうちに、できないものだと思い込まされていました。共犯者とされた友人の裁判資料にも、よく読めば検察が先生を起訴する根拠とした内容と逆のことが書いてあったのに、弁護士ですらそれを読んでいなかったことが、控訴審終了直前になって判明し、文章中にもありましたが、そのような重要な証拠を提出しても、読むことなく不採用とした検察官、それをあっさり認めた裁判官は、まともな論理的思考、判断をしているとは思えませんでした。思い出すだけで悪寒の走る光景でした。
 もうそれだけでも充分ひどいのに、あの理不尽さのすべてがわかった上でわざとやっていたのだとなったら(そして、それこそ確かに真実ではないかと思えるのですが)、あまりのひどさに頭の中が真っ白になるようなショックを感じます。 」(東前公幸)

 ・・・裁判の一部始終を熟知していながら、今ごろになって本当のことがわかってきたというんだから、私同様、皆、朴念仁なんだなあ(呵々大笑)。
 私の裁判で問題とされたことの一つは、(有罪であることは確定済みという前提の上で)、それでは、「麻薬とあらかじめわかった上で密輸した」のか、「麻薬とは知らなかった」のか、ということだ。
 そもそも私は密輸なんかしてないのだから、知っていたも知らなかったもあったものじゃないのだが、「知らなかった」のであれば罪は随分軽くなるし、無罪となることさえある。
 ところが、すでに友人の供述の段階で、「わかった上でやった」と巧みに誘導され、決めつけられていたのだが、これをレット・オフで矛先を反転させてみると、まったく同じ論法が警察・検察・裁判所に対しても当てはまることになる。
 連中が知らず知らずのうちに不正義をやらかしていたとしても、責任の重大さを考えれば極悪である。それが「よくわかった上でやっている」、となったら、これは途方もなく悪質ではあるまいか。

◎今回は、2014.11.07(立冬)に発表した随想を再録する。大阪地方裁判所における第一審が開始されてから、約1年が経過した頃の文章だ。
 この当時はまだ、「~のようだ」とか「~らしい」などと、曖昧で甘っちょろい書き方をしているところが、我ながら笑える。

 メチロン等を麻薬指定した際の証拠となる議事録が存在しなかっただけでなく、わが国における麻薬指定を決定する「依存性薬物検討会」(厚生労働省)という存在そのものが、そもそも法的根拠を何ら有さない、単なる参考意見を提供する程度の私的諮問しもん機関にすぎなかった・・・?
 ゆえに、「審議会」ではなく、「検討会」という名称だった・・・?
 そうした私的諮問機関は、大臣や内閣官房長官の決定により開催されることが多いそうだが、こと「依存性薬物検討会」に関しては、それらにも当たらないという。
 本件に関心を抱いた全国市民オンブズマンによる調査結果の「一端」だ。担当者によれば、厚生労働省がこれほど情報を出し渋る事例も珍しいそうで、非常に関心があるので、今後も徹底した調査を進めるとのこと。
 明るみに出ると非常に具合の悪い「何か」が、あるのだろう。

 私的諮問機関が重罰を含む法律の制定を行なっているということ、それ自体も驚きだが、さらに驚くべきは、それを黙認し、それに従ってきたわが国の司法制度だ。
 どうやら、「それでもいい」らしいのである。
 その方が、日本の現体制を維持する上で、何かと都合がいいようなのである。
 法、というものが、人々の自由と権利を守るためではなく、逆に自由と権利を制限し、侵害するために・・・活用(悪用)されている。
 法の複雑さを理解しない部外者(一般国民=主権者)は、いいようにもてあそばれ、あしらわれるばかり。
「愚弄」、とそれを述べることは、決して大げさでも誇張でもあるまい。
 
 例えば、麻薬指定の根拠となる議事録が存在しないじゃないか、と責められれば、私的諮問機関なので議事録作成と保管を義務づけた公文書管理法違反には当たらない、と言い逃れればよい。
 私的諮問機関が重罰を含む法律の制定(改正)を行なっていることの是非を問われれば、あくまで参考意見を提供しただけで、直接法律を変える作業に携わったわけではない、とかわし、さらには、刑罰の根拠はあくまでも法律にあるのであって、議事録の在非在とか公開の有無とは無関係、と強弁すれば、法律のシロウトなどたやすく丸め込めるという次第。
 日本という国の根本原則を定めた憲法を・・・、検察官や裁判官、さらには弁護士までもが、・・・特段に重視しているわけでも、神聖視しているわけでもない「らしい」という驚きの事実が、裁判を通してくっきりと浮かび上がってくるに至っては・・・・、「馬鹿馬鹿しい」と宇宙的に哄笑する以外、一体何をすればよいのか?
 まあ、わが国においては憲法が重要でも神聖でもない「らしい」ことは、戦争とそのための手段(軍隊)を永久に放棄することをうたった憲法第9条に明確に違反することを、自衛と戦争は別物、などと強弁しながら国が公然とやらかして恥じようともしない事実を観れば、自ずから明らかなわけで、人間で言えば厚顔無恥にして誠意のかけらもなく、言うこととやることがまったく違う、そんなやからをまともに相手にしようとするなんて、・・・時間とエネルギーの無駄遣い以外の何ものでもないと、私には感じられる。

 検察官や裁判官は、こちらの言うことに真剣に耳を傾けようとする気なんて、・・・どうやら、全然ない、ようだ。
 はなから相手にしてない。
 まさかそんな「無法」や「無道」が公然と行なわれているなど露知らず、正論は正論としてきちんと受け止められ、真摯に議論されるはずだ、とナイーヴに信じてここまで進んできたが、相手は最初から聴く耳など持ってなかったという次第。
 ただ、あらかじめ決めた通りに、頑なに、こだわり続けるだけ・・・。まるで機械を相手にしているみたいだ。

 率直に申し上げてよろしいですか?
 これは・・・年寄りの頑迷さにほかならないよ。
 頭も体も硬くなった頑固一徹の年寄りは、もはやいかんともしがたいものだが、まったく同じことがわが国のあらゆる体制、システムに、隠しようもなく表われているのではないか?
 つまり、体制そのものが「高齢化」している。
 下手すると、痴呆化している部分さえ、あり得る。
 日本という国、それ自体が、権力にしがみついて絶対手放そうとしない頑迷で独裁的な年寄りのようになっているのだ。
 何とかは死ななきゃ治らない・・・のかもしれんなと、真剣に考えるようになった今日この頃である。
 古い体制が自然に死に絶えた後で、若々しい新たな社会が、自然に生まれ、育ってゆくのかもしれない。

 新しい時代は若者らによって拓かれる。俺も、社会への貢献とか、還元とか、そんな余計なことを考えずに、さっさと若い人たちに世界を明け渡し、新たな世代の台頭と活躍を観守っておればよいのではないか、とふと考えたりもする。
 いずれにせよ、私は自らのすべて、一切合切を、命も生活も何もかも全部、天地自然にゆだね切っている。全部お任せである。不安定で、不確実なことこの上ないと同時に、究極の気楽さ、気安さがある。
 こういうのを古人は惟神かんながらの道と呼んだのだろうが、それを気まぐれや約束を守らぬ無責任さの言い訳に使うとしたら、神をも怖れぬ不届きな心根こころねというしかあるまい。
 惟神の道は、無責任さとか安易さとは、まったく関係がない。それはむしろ、大いなる責任を引き受ける道だ。
 私は粛々として、天地神明の指し示すところに従うのみ。
 天行てんこうけんなり。
 天地の運行と生理的実感を伴いつつ調和することができた時、外側の状況とはまったく無関係に、その人の内面は時間と空間を超えた至福で満たされる。

 キノットというイタリア独自の炭酸飲料をたくさん贈ってもらったので、それを飲みながら本稿を執筆しているのだが、今、瓶に張られたラベルを何気なく読んでみたら、「この商品には、香料として微量ではございますがアルコールが含まれております。アルコールに弱い方やお子様はご注意下さい」と書かれているではないか。
 本稿の調子がやや饒舌じょうぜつに流れがちなのは、キノットにごくわずか含まれるところのアルコールのなせるわざか・・・。
 ちなみに、私は酒もタバコも一切やらない。さらに余談ではあるが、酒宴の場において、酒を1滴も飲むことなく楽しく酔い、その場に全面的に溶け込めるという特技を、私は持っている。

 キノットゆえということにして、今少しの饒舌をお許しいただけようか?
 この裁判を通じ、私は「国家のヒーリング」を唱えてきた。
 が、国家こそが、実は病なのではあるまいか? 
 そのように、今は感じている。
 真に健全な国家というものが、かつて存在したためしがあったろうか?
 歴史上のいかなる国が、調和的な、美と平和に彩られた理想国家といえよう?
 皆さんは、その実例を一つでも挙げることができるだろうか?
 皆無、ではなかろうか。
 世界地図を観ればわかる通り、国家は地球表面に人工的な境界線を作り出すことによって存在している。
 分割、こそ病だ。
 アンチ・ヒーリングだ。
 分割によって成り立つ国家という存在が、だから病そのものにほかならない。
 その病それ自体をヒーリングするも何もあったものじゃない。
 ヒーリング(統合、調和)が真に成った暁には、国家そのものが消失している。
 病気が完全にヒーリングされれば、病気は存在しなくなる。ヒーリングされた病気になる、なんてことは、ない。
 個人の霊的探究においても、これとまったく同じことが起こる。
 インドではこんな風に言うそうだ。「自分がいる時には神はいない。神がいる時には自分はいない。自分(自我)と神(宇宙意識)とは決して出合わない」、と。
 真に健全な国家とは、国家なき国家、すなわち世界国家以外にはないのかもしれない。私がここで言う世界とは、ただ人類のみの世界ではなく、あらゆる生命のための世界、を意味する。 

 意識をさらに宇宙的に拡げてみよう。
 宇宙ステーションから撮った地球の映像をインターネット上でいろいろ観ることができるが、丸くて青い、ということだけに撮影者たち(宇宙飛行士)の意識は狭くとらわれてしまっているようで、大半の動画の空間性の乏しさときたら思わず天を仰ぎ長嘆息するほどのひどいレベルだ。あんなものを観たところで、初期の宇宙飛行士らが宇宙に出て世界観が根底から変わった理由わけを、実感を伴いつつ深く理会することなど決してできまい。
 子供のように素直な目で、心静かに、地球と向き合わねばならない。
 そうすれば・・・・・・壮大な調和ヒーリングに圧倒されるだろう。
 そして美しい。ひたすら美しい。涙があふれこぼれるほど、美しい。
 地球を覆う空気の厚み(生き物が暮らす対流圏が約10キロメートル、ぼうっと青く光る大気圏が約100キロメートル)が、宇宙から観た際にどれほどの空間性(奥行き)を感じさせるものか、想像してみたことがある人はいらっしゃるだろうか。
 宇宙の真空中にあって、空気の膜が地球表面にずっと保たれていること、それ自体が絶妙なバランスのなせるわざだが、その成分(酸素、窒素、二酸化炭素、etc.)の配合までが常に新鮮に維持され続けている事実に至っては、「奇跡」と呼ぶしかあるまい。人知を遥かに超えている。
 この、いわば宇宙的な子宮の中で、大地は形を換え、多様な生命いのちの営みが複雑精妙に絡まり合いながら繰り広げられてきたのだ。幾億年も、幾十億年も。
 神・・・・、というよりは、女神という言葉が、自然に浮かんでくる。
 宇宙の創造原理としての女神だ。
 思うに、最先端の映像技術を駆使して宇宙空間から地球を「帰神撮影」し、映画館のような大画面で人々に提供することこそ、宇宙計画における最重要事であり、急務ではあるまいか。
 帰神撮影にあたって撮影者は、宇宙服をつけて宇宙空間に独り浮かび、あらゆる通信をシャットアウトして、超越的・瞑想的な意識状態を保つのだ。
 人類の意識を、新たな段階ステージへと引き上げる、宇宙芸術。そういう新たな芸術を通じ、人類の一人一人が、地球を一つの巨大な生命圏として観て・感じる、新しい感性を養うことができる。さもなければ、地球規模の諸問題を人類は切り抜けることができないだろう。切り抜ける、とは、生き抜く、という意味だ。
 
 宇宙から地球を静かに観るような超越的意識においては、裁判とか法律の解釈がどうのこうのとか、本当に些細な、ちっぽけなことと感じられる。
 命を失うことに対し、私は何らの怖れも、不安も、感じない。
 不当逮捕が現実のものとなった瞬間をもって、死へと至る断食のスイッチが入った。
 抗議しながら死ぬことこそ、私の主張が最も活きる唯一の道と、その当時は思えた。
 絶食60日ともなれば、食を断つことによる苦しみは、もはやまったく存在しない。むしろ、食べることの方がずっと困難であり、とりわけ断食から徐々に食事を再開してゆくための細かい配慮と注意などまったくなされない拘置所内の劣悪な環境にあっては、食べることは即、苦しみであり、痛みにほかならなかった。
 生きるよりは、死ぬことの方が、ずっと楽で、・・・気持ちが良かった。
 死の中へと入ってゆくことは、実に自然なものと感じられた。平安の予感が、そこには濃厚に満ちていた。
 その、死への甘美な道のりをたどることを敢えて中断し、生きることを決意したのは、『ヒーリング随感5』の最終回に付記として添えたように、裡なる祈りと問いかけに即応して天地神明による示しがあったからだ。
 その瞬間をもって体得した新たなわざが、現在の龍宮道の基本となっている。
 こんな素晴らしいものを独り抱えこんだままで死ぬというのは、宇宙に対するとんでもない冒涜となりはしないか・・・。全部投げ捨て、何もかも失ったと思っていたら、途方もない豊穰な宝が期せずして転がり込んできた。
 こんなものを、一体どうすればよいのか。天地神明は、何を私に求めているのか・・・。
 おそらく、すべて「神の遊び」なのだろう。 
 聖なる戯れ、リーラ。
 であるならば、その宇宙的な遊びを、私は無心に舞うのみ。

<2022.06.08 蟷螂生(かまきりしょうず)>