◎2014年11月頃に執筆した、裁判関連の随想だ。
今回の事件の発端から現在へと至るすべての根底に、<プロセス対結果>の図式が、一貫して流れている。
メチロンなどが有害であるという「結果」あるいは「結論」が、国民に一方的に押しつけられる形で、憲法によって定められた原則を無視しながら、殺人と同等の重大な刑罰を含む法律として制定され、それに基づいて多くの人々が罪人の烙印を魂に焼き付けられ、人生そのものを破壊された。
烙印・・・焼き印ともいうが・・・、を捺す様子を、実際にご覧になったことがおありだろうか?
真っ赤に灼けた金属製の焼きごてを、じゅわっと押しつけ、決して消えぬ痕をつけるのだが、相手が木や皮の製品ならまだしも、牛とか、・・・人間に対して、奴隷(所有物)や犯罪者であることを示すマークとして、烙印が実際に使われた歴史を、人類は自らのぬぐい去り難き過去として、背負っている。
近代以降はもっぱら、魂に対して、目に見えぬ烙印を捺すことが、逮捕・監禁(勾留)・裁判・刑罰という一連のシステムの、秘め隠された「目的」となっている・・・といったことが、ミシェル・フーコー著『監獄の誕生』でも説かれているらしい。
・・・らしいと書いたのは、私の裁判を支援してくださっている社会学者の山本奈生先生(佛教大学特別専任講師)がフーコーを師と仰がれていると人伝えに聴き及び、何か共通の話題ができれば、との思いから、監獄がテーマの本であれば自らの体験とも照らし合わせながらきっと興味深く読めるに違いない、と勇んで読み始めた・・・まではよかったが、まず口絵で紹介されている昔のいろんな図版・・・軍隊の兵営(集団居住所)の図面やら、物差しと共に描かれた児童の絵など・・・を一瞥しただけで、心と体にぐぐっと重くのしかかってくるものがあり、さらに本文冒頭で、中世ヨーロッパで行なわれていた四つ割き刑・・・両手両足を4頭の馬に引きちぎらせる処刑法・・・の模様が、一切の感情を交えず淡々と、事細かに描写されるに至って、それ以上、いかに努力しても、一歩も進めなくなった。
ごく一部を瞥見したのみで、フーコーが伝えんとしたところの本質を掴んだ、などというつもりは決してないし、山本先生にお叱りを受ける、というよりは笑われることは承知してもいるのだが、いかんせん、いかに努めても、私の「目」自体が、それ以上読むことを、断固として拒絶するのだ。
信じていただけないかもしれないが、こうなると私は、実際に文字がまったく見えなくなる。ボーッとかすんでしまって、顔がくっつくほど近づけても、一文字一文字を判読するのに苦労するほどだ。
ところが面白いもので、明治、大正期の古書で文字はかすれ、言葉遣いも内容も難解で読みにくいことこの上ないような書物であっても、楽しく読み進んでいる時には、文字が読みにくいと感じることがまったくない。
「登校拒否」という言葉がかつて使われていたが、それが「不登校」へと変わったのは、子供たちが自分で主体的に拒否するのではなく、頭痛や腹痛など自分ではコントロール不可能な症状が起こり、その結果として学校を休んでしまうという事実が知れ渡ったためだろう。
私のは、その不登校をもっと押し進めた、不読症とでもいうべきもので、これを「発症」したのは随分前のことだが、しかし、限られた人生の時間の中で、その時その時に、真に読むべき・・・真に読むに値する、書物のみが自ずからセレクトされるようになり、とても有り難いと思っている。
これはもちろん、「私にとって」という主観的な価値観について述べているのであって、例えばフーコーの『監獄の誕生』が価値なきものであるとか、面白くないものであるなどとけなしているわけでは、決してないからどうか誤解なきように。
もしかすると、近未来のいずれかの時点で、それを突然、読める(文字が見える)ようになるかもしれない。
が、少なくとも現時点において、『監獄の誕生』は、私にとってあまりに重く、苦し過ぎる。
読めない理由(感覚)は、本によってまったく違うが、『監獄の誕生』の場合は、ある種のPTSD(Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス症候群)にも似た、苦痛に満ちた過去の体験・記憶を無意識的・本能的に避けようとする・・・「拒絶反応」に最も近いのではあるまいか。
口絵にあった物差しと子供の絵を観た瞬間、大正時代に日本でも流行したドイツ体操の創始者にまつわるエピソードを、私は思い起こしていた。その人は、自分の子供の姿勢を正すべく、いつも物差しを背中に差して矯正し続けたところ、その子は気が狂ってしまったという。
外側の基準に合わせて、人間の身体や心を「矯正」しようと図ることは、必ずや悲劇的な結末を生む・・・、と、この書物を著した人(フーコー)は、きっと伝えたかったのに違いない、と私は口絵1枚から「感じた」のだが、果たしてそれは妄想か、単なる思い込み、誤解、曲解、あるいはまったく見当違いの誤謬なのか。
さて、本題の「プロセス対結果」に話を戻す。
なぜプロセスを重んじなければならないか、なぜプロセスをはしょって結果が先に来てはいけないのか、司法の言葉を用いて明確に答えられる検察官、裁判官、弁護士は非常に少ないか、あるいは皆無だろう。
龍宮道の観点からすれば、答えは自ずから明らかだ。
スポーツなどのテキストで、ある動作をする場合における運動の軌道が、線によって示されているのをご覧になったことが、皆さんおありだと思う。手とか足などが、これこれこういうラインを描く・・・と。
それを見て、できるだけ正確に真似しようとする。ラインをトレースしようとする。
すると、いつまでたっても上達しない。それどころか、だんだん体のあちこちに不快感が生じるようになる。さらに頑張れば、必ずや体を壊す。
なぜか?
そのラインをプロセスと誤解しているからだ。
それは、プロセスではなくて、結果なのだ。
そのラインが生じるに至った原因と、そこから発した真のプロセスは、手や足が空間に描く軌道とは、まったく別のところにある。
そもそも空間に神経など存在しない。にもかかわらず、空間に動きを求めるような体の使い方をすれば、本来の自然な流れとあちこちでぶつかり合い、停滞を来すのは当然だ。
例えば、立って腕を下ろした状態から、腕を伸ばしたまま真横へ、肩の高さまで上げる。
その動きを図示すると、最初に手があったところから、肩を支点として腕の長さを半径とする4分の1の円周が描かれる、というのが普通だろう。が、それは肩の筋肉である三角筋が収縮した「結果」であって、真の原因とプロセスを線で示すとしたら、三角筋の筋繊維に添ってラインが引かれねばならない。
ところが、その4分の1の円弧という結果がまず最初にあって、それを再現あるいはトレースすべく手を上げてゆく時には、その動作の主要因となっている三角筋が完全に疎かになってしまう。すると、表面的には似たような動作であっても、内面実質はまるで違うものとなるのだ。
三角筋を直接働かせると、その作用は肩→上腕→肘→前腕→手と伝わってゆく。この時、力の流れは身体の「中」に感じられる。元来、自然であり、当然のことなのだが、日常における一挙一動において体内を流動・循環する感覚を覚えている人が、皆さんの中にどれだけいらっしゃるだろう?
これに対し、手からいきなり動作しようとする。と、肩から腕を通じ手へと至る自然な流れが阻害されてしまう。肩、腕、手の内的つながり、連動はもはや感じられない。あちこちで力がぶつかり合い、流れが分断されるからだ。
こういうやり方は、単に動作の上達を妨げるのみならず、不自然な体の使い方は不快な凝りや痛みの原因となり、長きに渡れば重大な障害をもたらす。自分で自分の体を痛めつけている、と申し上げればおわかりいただけるだろうか?
だから、プロセスをはしょって、結果が先に来てはいけないのだ。
始めに結果ありき、というやり方は、必ずや病へと行き着く。
まったく同じことが、社会というレベルでも言える。
私がこの裁判でなぜ「プロセス」を重んじ、プロセスについて問いただしてきたかといえば、プロセスを無視して結果のみを一方的に押しつけられるやり方によって、社会が歪み、病むからにほかならない。
プロセス(適正な手続き)を最も重んじよ、と憲法31条にあるのも、同じ理由によるものだ。
正しい手続きに則ることなくして勝手にデッチ上げられた法律はそもそも無効であり、それに基づいて国民が処罰されるなどあってはならない、・・・・と。
<2022.06.13 腐草為蛍(くされたるくさほたるとなる)>