Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション2 第十六回 10人の義人

◎2014.11.13に発表した随想だ。
 繰り返すが、これらを執筆した当時、裁判が公平・公正とはほど遠いことを強く憤ってはいたが、それがまさか、「わかっていて・わざと」であるなどとは、私も支援者たちも想像すらしてなかった。

 そこに10人の義人ぎじん(ただしいひと)がいれば、ソドムとゴモラを滅ぼさない。
 アブラハムとそのような約束を交わした神だったが、両都市は結局、核爆発による被災を思わせるような悲劇的最期を遂げたことが、『旧約聖書』に記されている。
 人類という生物種が地球上に存続し続けることは、許されるべきか、否か・・・・そのような問いかけをいだく宇宙的な<意思>のごときものが、私の目を通じて世界を静かに観察している・・・・そんな奇妙な感じをふっと覚えることが、最近よくある。私だけでなく、あなたを通じて、1人1人の人間を通じて、「観察」が、今着々となされているのではあるまいか?
 1億数千万年に渡る栄華を誇った恐竜の時代は、神の鉄槌に打ち砕かれたかのごとく、6500万年前に突如として終焉を遂げた。
 それより以前、地球上の生物種の大半が短期間で死に絶える大量絶滅が4度起こったことが、地質学上の発見から明らかになっている。
 科学者の多くは、現在いま、まさに第6の大量絶滅が進行中と考えている。ある試算によると、今世紀の半ばまでに、生物種の実に半分が失われる可能性があるという。
 その原因は言うまでもなく、我々人類だ。しかも、(自分たちの野放図な活動が地球環境や他の生き物たちを圧迫していることを)「わかった」上でやっている。これは普遍的な生命の観点からすれば、極刑に値する重罪とならないのだろうか?
 ・・・なあんだ。時と所によってくるくる内容が変わるような浅薄な法を作り出し、「オレはお偉い裁判官様、お前は卑しい被告人」なんて厳めしくやっていても、もっと大きな宇宙の<法>からすると、仲良く同罪、運命共同体なのか。

 地球の歴史を46億年として、それを1年(12ヶ月)に換算すると、最初の生命が誕生したのは2月の半ば頃、魚類や昆虫の出現が11月、人類の誕生は12月31日の午後遅くで、エジプト文明の曙は年が改まる直前、深夜23時59分。
 つまり、私たちが知る文明の全歴史は、地球からすると、秒針がくるりと1周するの瞬時の出来事に過ぎぬというわけだ。

 まことに諸行は無常であり、変化こそ、宇宙の本質だ。
 例えば子供時代から青年期を経て、中年、老年となる、そうした変化を、「自分が変わってゆく」と私たちは通常認識し、外形の変化とは無関係な不変の「自分」というものが存在するかのように信じ込んでいる。
 が、それもまた、プロセスと結果の取り違えなのだ。
 過去から現在、そして未来へと至る時間の流れは、プロセスではなく、ある種の結果に過ぎないと申し上げたら、面食らわれるだろうか?
 しかしながら、過去というものを、あなたは実際に生きたことがおありだろうか? 現実に体験したことがおありだろうか?
 実際にそれを生き、体験している時には、それは過去ではなくて、「現在」だ。過去は記憶や記録の中のみにある。いや、記憶や記録こそが、過去だ。
 同様にして、それを生きるべき「未来」もまた、ない。それを生きている時には、「未来」ではなく、「現在」になっている。

 これは単なる言葉遊びではなく、私たちにとって唯一の現実リアリティは、今、この瞬間しかないという事実について述べている。
 その、瞬間、瞬間の連続、すなわち変化に次ぐ変化、絶えざる変化の流動的連続。それこそが、真の「プロセス」だ。
 そのプロセスに「乗り」続けることができず、「落っこちる」・・・・と、過去やら未来やらがたちまち生じてくる。
 実は、唯一の実在である「今、ここ」から、実際には存在しない過去や未来へと意識を投影することによって、「流れ」から外れるのだ。その途端、重苦しくなり始める。
 無心にその日その日を楽しんでいた子供の頃、「遊んでばかりいたら将来、ろくな人間になれないわよ」とか「将来は何になるつもりか」と親などに口うるさく言われ、「将来」なるものについて考え始めるやいなや、熱にうかされたような不快なだるさや不透明感、重さを経験した記憶がいまだに残っている人が、あなた方の中にもいらっしゃるかもしれない。
 自我エゴという病が、そこから始まったのだ。

 私が言う「流れ」とは、時間と空間の流れだ。意識が動かない時、うちを宇宙が滔々と流れてゆく実感がある。意識が動いた途端、「自分」が宇宙の時空の中を動き始める。
 意識が動くとは・・・思考することだ。思考は言葉(数学的言語を含む)によって成っている。
 思考が停止し、意識が動かない時、時間と空間の知覚が変容する。
 例えば、身体のふくらんだ部分を山とすると、身体内からそれをあるがままに、ダイレクトに感じた時には谷になるのだ。ただ山が谷に変わったというだけでなく、山(凸)という形状に具わる能動性とか男性原理といったシンボリズムまでが反転して、生理的・心理的に感じられる。
 面白いのは、外側の空間から見るような視点から1人の人間としての自分自身というものを認識すると、身体の体積が自分で、それを除いた宇宙の全空間が世界となり、その果てを知らぬ広大無辺な世界の中に身を置く自分は実にちっぽけで、頼りなく、「自分の」生命いのちとは、悠久の時の流れの中で一瞬、ぼおっとかすかに小さく光って燃え尽きるだけの、はかないものに過ぎない・・・そのように感じられる。
 ところが、感覚の視座がくるりと反転して意識が裡へ入るや、「自分」が宇宙の中に存在するのではなく、宇宙全体を下っ腹の中に抱え込んでいる感覚が起こる。
 そのようにイメージするのではない。考えるのとも違う。厳密に言えば、それを「感じる」わけでもない。なぜなら、「感じている」時には、それを感じる「主体(自分)」がいるわけだが、私が述べている体験においては、感覚を感じる主体そのものが消えうせているのだ。
 にもかかわらず、我なき我が、厳然として実在する。
 数学的に表現すれば1=0(唯一であるという意味で1、比較する他者が存在しないという意味で0。両者は同じ状態を表わしている)。コギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)というデカルトの有名な言葉をもじっていえば、スム・エルゴ・スム(我あり、ゆえに我あり)、といったところだろうか。後者の「我」は卑小な個我ではなく、宇宙大の真我だ。

 身体の中心と精神の中心が合致する点が、我々の腰と腹の間に存在する。それは長さも幅も高さもない、ただ位置のみがある1点だ。より正確には、球の中心。
 極めて小さいそれが、意識が内向すると、極大のものと化す。無限小と無限大、一瞬と永遠を、その1点はあわせ含んでいる。この中心点は抽象的・観念的なものではなく、仙骨神経叢内とか腸間膜神経叢内など諸説はあるが、解剖学的にその位置を定義し得るようなものだ。ただ、遺憾ながら、その方面における人類の知識と技術は、旧石器時代なみ、と申し上げるしかないお粗末なレベルに、いまだ留まり続けているのだが。

 右と左、上と下、前と後ろ、という我々に知覚可能な6つの基本的方向(3つのペア)に対する感覚と意識を操作することで、二元性を超える超越的意識世界の多重構造の中を、量子跳躍クオンタム・リープしながら自在に移動してゆくことができる。龍宮道の前身であるヒーリング・アーツは元来、こうした意識のアートを修得するためのトレーニング・システムだ。
 最終的に6方向を同時に感じる球状の意識へと至れば、無限小の球体としての1点の裡に、無限大の新たな時空が拓かれる。これを「内破インプロージョン(=レット・オフ)」と、私は呼んでいる。
 1点の内側に無限に拡がる時空。-1の平方根、いや、立方根。
 実は、その世界こそが宇宙の実体であり、我々の知る宇宙とは、根源的なる実体に起こった波、あるいは揺らぎのようなものに過ぎない。2500年前すでにゴータマ・ブッダ(釈迦)によって説かれたことであり、現代の言葉で量子力学が再び説いていることでもある。 

 さて、話は唐突に変わる。
 例の「依存性薬物検討会」なる異様な会合について調査を進めてきて、日本における公文書管理のずさんさ、という問題にたどり着いた。
 聴くところによると、フランスで国立公文書館が完成したのが1790年であり、わが国の公文書管理法(2011年施行)や情報公開法(2001年施行)と同様のものが諸外国にはかなり以前から存在していたことになる。それは、主権者たる国民に対する説明義務があることはもちろん、国政や外交など国民生活に影響を及ぼした決定や判断に対して、決定者・判断者の氏名を公開し、その決定・判断へと至った過程を議事録として詳細に記録して残すことで、関係者の責任感が増し、後世の参考にもなるからにほかならない。
 我が国における公文書管理法や情報公開法の制定が、一部の熱心な政治家や諸外国からの要求に反して、官僚の激しい抵抗にあい、遅々として進まなかった背景には、議事録を残すことが義務化されれば、責任の所在が明らかとなってしまう、という呆れた理由があるそうだ。国民に対する説明責任という意識は、行政を牛耳る連中には希薄であり、戦前からかなりの公文書が廃棄され、あるいは議事録が作られてなかったということが、研究者により明らかになっているという。
 そうした「適正手続きの無視」が、公文書管理法及び情報公開法により改善される気運が高まりつつあるが、特定秘密保護法により逆行する可能性もあるとのこと。

 責任逃れ、責任逃れ、責任逃れ・・・。
 私の裁判においても、裁判官は自らに与えられた違憲審査権を振るう責任を果たそうとせず、検察官は自らの義務である立証責任を果たそうとせず、却って両者が一致協力して、行政の不手際をかばい、責任逃れを幇助ほうじょしようとしている。
 裁判官も検察官も、国ですら、<法>を守らないのであれば、国民が道理に合わぬ非理性的な法の言いなりになる必要が、どこにあるというのか?
 ひたすら責任を回避するべく汲々とするやからは、貧相でみすぼらしく観える。尊厳のかけらすら、それらの小人物からは感じられない。
 人が尊厳のオーラをまとうようになるのは、自らの責任を深く自覚し、それを引き受けた時なのだ。

 私はこの裁判を通じ、日本国憲法によって被告人に保証されているはずの諸々の権利・・・公平な裁判を受ける権利や、法廷内で自らの言いたいことを自由に述べる権利、必要な証人を公費で強制的に呼び自らも審問できる権利・・・などが、公然と無視され、踏みにじられる実態を実際に体験してきた。
 公平でも公正でもない裁判所、自らの重要な責務を行政に白紙委任して顧みようとしない立法、今や独裁の趣を呈し始めた行政の傲慢。これら諸々の国家的病に対し、その責任がいずこにあるかを問うていった時、私は必然的に一つの答えに行き着かざるを得なかった。
 すべての責任は、主権者である自分自身が負わねばならない、と。
 だから、裁判においていかなる判決が最終的に下されようと、私はそれを、国家の病に対する主権者の責任として、甘んじて受ける所存だ。
 そのようにしてこそ、あなたの、私の、主権者の「尊厳」が輝きを増す。
 これまでも繰り返し述べてきたことだが、より善き社会がもたらされるために犠牲が必要とされるならば、喜んで自らのすべてを捧げつくす用意が、私にはある。

 ・・・・人類が生存を許されるためには、あと何人の義人が必要なのだろう?

<2022.06.16 腐草為蛍(くされたるくさほたるとなる)>