◎今回再録するのは、2014年の年末に記した随想だが、テーマはリヒャルト・ワーグナー・・ではなくて、「喜劇」「道化」だ。
国家社会のヒーリングを念じて裁判と向き合っていたつもりが、インチキ弁護士に利用され喜劇を演じていた側面も濃厚にあったことに対し、読者諸氏と共に宇宙的に哄笑する、そういう趣向だ。
自らの内面より言葉が自ずから迸り溢れるがままに任せ、普段から文体とか文章の構成などには一切頓着しないのだが、ここ最近は特に自由自在に、言葉そのものに委ね切るようにして執筆してきたのは、神意を問う太占の意味もあった。
ほとんど身じろぎもせず、毎日4~5時間、時には6~7時間以上に渡ってひたすらキーボードに指を走らせて言葉を綴り続け、ふうと一息ついて立ち上がった時、一気に20~30歳も年取ったかと思えるほどのこわばりが首、肩、背中などに生じているのを感じるたびごとに、これは一種の狂気にほかならないなと、我ながら感じる。
が、才能乏しき私は、そのようにして狂気の縁まで自らを追い込むことによって初めて、<芸術>の聖堂へと参入することができるのだ。
命と引き換えのようにして、作品が出来上がってゆくことに、私はこの上ない無上の悦びを感じる。
「それ」が、芸術家なんだ。
そして真の芸術家なら誰でも知っていると思うが、芸術の女神は美しく魅力的で蠱惑的であると同時に、魔神の相をも、確かに備えている(呵々大笑)。
例年、なぜかこの季節になると、ワーグナーのオペラが恋しくなるのだが、今こうして書いていてぱっと脳裏に浮かんだのは、マグダラのマリアがイエスの足に香油を注ぎ、自らの髪で拭き清めた聖書の逸話とクロスオーバーする『パルジファル』の一シーンとか、神々のたそがれを予言しつつ夫を火葬する火の中に飛び込む『指輪』シリーズの凄絶なクライマックスとか、書いているだけで胸がビリビリッと振るえるくらいだから、ドイツのバイロイトで例年上演されるワーグナーのオペラ劇が数年先まで予約で一杯というのもうなずける。
オペラの素養などまったくなくても、古代の壮大な神話や騎士道物語などに関心がある人なら、ワーグナーを存分に楽しめるはずだ。
最新のCG技術を駆使した安っぽいSF映画など足元にも及ばぬ、「センス・オブ・ワンダー」が凝縮された独特の、芸術として完成の域に達した世界観。洗練とか嫌ッたらしいとか、何もかも引っくるめ超越してしまっている。
ワーグナーのオペラを歌い、あるいは演奏するためには、極めて高度な音楽的能力と体力が必要なため、ワーグナー存命時から今日に至るまで、それができる者は超一流のアーティストとみなされ大いに敬われてきた。
真に芸術を愛する者ならば誰でも、度肝を抜かれ、そして大喜びするに違いない。かく言う私は、ワーグナー以外のオペラを面白いと思ったことがない。有名なモーツァルトの『魔笛』も、まあ悪くはないと思うが、魂の奥底にまで打ちかかってくるものを感じない。要するにオペラの門外漢なのである、私は。
本物の公演を観ずとも、DVDで充分楽しめるが、演出家、出演者、指揮者によってこれほど印象がガラリと変わるものは他にないといってよく、古代の神オーディンに現代風のコートを着せてみたり、奇をてらったとしか言いようがない、気でも狂ったかと叫びたくなる下らん演出も中にはあるから、これから初めてDVDを購入しようとお考えの方に対しては、少しばかりの時間と手間をかけて慎重に取り組むべしとだけ、友人として忠告しておく。
昨年1月末に保釈されて以来、映画のことなど1度も念頭にのぼることがなかったにも関わらず、なぜかしきりに、映画を観に映画館へ行きたい、いや、行かねば、否、是非とも行くのだ、という切迫したような感覚にしきりにつきまとわれ、近所の総合映画館で今何をやっておるのかとインターネットで調べてみたら、たちまち私の目がくぎづけとなり、そばにいた妻に一声かけたら同様に画面にぐいっと吸い付けられてきて、「行かなきゃ! 今すぐ行こう!!」と叫んだのが、先日のもうすでに夜もふけた頃だ。
METライブビューイングと銘打った、オペラの殿堂メトロポリタン歌劇場(NY)で上演されるオペラを、映画館の大画面と高度な音響システムで鑑賞致しましょうという高尚なシリーズについては、以前から知っていて少しばかり関心もあったのだが、演目リストをみると『蝶々夫人』とか『ハムレット』『ラ・ボエーム』など、有名どころというか当たり障りのないというか、私にとっては関心の埒外にあるといっては失礼だが、まあそんな作品ばかりが1年先の予定表にまでぎっしり埋まっていたので、スッカリ放念しておったところ・・・ワーグナー作品が、今、観られる!? しかも、全国で今やっているのは、川崎の1館とご近所の1館だけ?! おまけに、演目が何と『ニュルンベルクのマイスタージンガー』とは、これは一体いかなることか!?!? と一騒動持ち上がるのも、私たち夫婦にとっては当然にして至極のことなのだが、私たちをよく知る人たちですら、たぶん呆気にとられて傍観するんだろうな、と頭の端っこでちょっと考えるくらいの「正気」はまだしも残っていた・・・と思う。
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は、ワーグナーの全オペラ10作(若書きの『リエンツィ』は含めぬ)のうち、最長(約6時間)にして、唯一の・・・喜劇なのだ。
こんなものを、といったらワーグナー翁に無礼を働くことになるが、普通の映画の倍の値段を払ってわざわざ観ようとする酔狂かつ真剣かつ熱心な芸術愛好者が、私たち以外に、この広島にいるんだろうか・・・と思って出かけてみたら、意外にも多くの観客が楽しんでいたところをみると、もしかして・・・・私の周辺の文化度が、実際に高まりつつある・・・!?
私の保釈と符節を合わせるようにして、近所の庶民派スーパーが全面改装したのだが、リニューアルされた店舗を訪れてあっとびっくりしたのは、世界各国の食材などが彩り豊かに並ぶ以前とはまったく違う品揃えで、私たち以外一体誰が買うのかと心配になるほどだったが、その後順調に繁盛している様子をみると、やはり文化度が高くなりつつあるのではないかと思えてならない。
高級車を乗りつけてわざわざ遠くから訪れる買い物客で広い店内は常に大混雑、というヨーロピアン・スタイルの面白いベーカリーも、すぐ近所にある。
地図を観ると、文明開化、失礼、文化度の向上が、私が居住しているあたりを中心として円形に拡がりつつある、ように観えるのは、気のせいなのだろうか。
ライブも展覧会も、東京、名古屋、大阪と来て、広島を素通りし福岡へ、という流れが定着して幾久しく、「文化の真空地帯」と陰口を叩かれるお寂し山的な広島の地にあって、孤軍奮闘、ひたすら文化の度合いを高めるべく、芸術家としての精進と霊的な祈りを欠かさなかった私の努力は、ここへ来て、まったく意想外なことに・・・知らず知らずのうちに、霊花を結び始め、豊かな霊の果実として現実化しつつある・・・のかもしれない・・・・と、(比較的)ご近所で育てられたチョウザメ(ベルーガの雌とスターレットの雄をかけ合わせたハイブリッド種)から採られた鮮烈濃密な生キャビアを、前後(味の奥行き、強度、並びに歴史的背景や伝統)・左右(幅、ヴァリアント、可能性)・上下(濃淡、トーン)を3D的に総合しながらまったり、はんなりと味わいつつ、われ思うゆえにわれあり・・・なのである。
夫婦ともども、骨を埋める覚悟で暮らし始めた広島だが、前例は作らぬにしくはなしという、芸術家にとっては最悪の風潮がすみずみまでしみこんだくそ面白くもない土地柄に嫌気が刺し、何度も移住を真剣に考えたほどだが、ここへ来て突如、「土地」そのものが満面の笑みをたたえて、私を抱擁し、豊穰な贈り物を無限に降り注ぎ始めたことを実感している。
数ヶ月前、大阪の泉佐野市を訪れた際、古い港町のたたずまいが残る入り組んだ狭い路地を夜、めぐり歩いているうちに、私の住まいの周辺を夜歩きする際に必ず感じる疎外感やとげとげしさのような雰囲気がまったくなく、ゆったりと穏やかな平安の感覚が、古めかしい板垣のひび割れや、どこからかただよってくる薔薇の暗香の粒子にまで、深く染み込んでいることに感動を覚えたのだが・・・・、先日の大阪での公判を終え、広島駅からタクシーに乗り、まもなくわれらが龍宮館(自宅兼アトリエ兼芸術サロン兼合宿所)という時、私の全心身を圧し包んだのは、かつて覚えたことがないような圧倒的なまでの歓迎と悦びの感覚だった。
この場所が私を慶んで迎えてくれている、この場所によって私は祝福されている、そのような感覚と共に脳裏に、<産土>という言葉が浮かんできた。
長年かけ、自らの生き方、在り方を通じ、ひたすら土地を祝福し続けてきたことに対し、今、土地の神々が応え給い始めたのだと、如実に実感するというのは、実にスリリングにして神聖な経験だ。
『マイスタージンガー』に話を戻す。
これは喜劇であると書いたが、喜劇といったって、そんじょそこいらの喜劇とはわけが違う。
そもそも、名作『トリスタンとイゾルデ』を始めとして強い悲劇性に彩られた作品がワーグナーのオペラには多いのだが、そこになぜ『マイスタージンガー』のような喜劇が挿入されることになったのかといえば、ワーグナーが深く研究していた古代ギリシアの演劇において、いくつかの悲劇が続いた後は、サテュロス劇のように明確な喜劇性、滑稽味を帯びた演目が差し挟まれていた故事に倣おうとしたもの、との説が有力視されている。ちなみにマイスターは師匠、達人を意味し、ジンガーは英語のsingerにあたる。つまり、マイスタージンガーとは芸術としての詩を極めた達人・師匠を指すわけだが、騎士が武力ではなく芸術の力をもって競い合うなんて夢物語みたいなことが、中世ドイツのニュルンベルクでは盛んに行なわれていたという。
ニュルンベルクは長い間、ドイツ史における重要な場所であり続けた。熱狂的なワグネリアン(ワーグナー研究/崇拝者)であったアドルフ・ヒトラーの影響ゆえ、イスラエルでは今もってワーグナーのオペラが上演禁止とされているそうだが、ナチスがユダヤ人差別を法の名の元に正当化した悪名高いニュルンベルク法や、ドイツ各地からナチス全党員がニュルンベルクを目指した壮大な党大会行進などへの反発・報復として、第二次大戦の戦火によって灰燼に帰したニュルンベルクの地でナチス政権の要人を裁く戦争裁判(ニュルンベルク裁判)が行なわれたのだ。
『マイスタージンガー』の特等席チケットをインターネットで予約し、ちょっと内容を再確認しておこうかと対訳本を繙いたところ、最初に眼にとまった、マイスタージンガー、ハンス・ザックスが志願者・騎士ヴァルターに語りかける一節をご紹介しておこう。
・・・ザックス(実在したドイツの偉大な詩人、マイスタージンガー)は誇りと確信に充ち満ちて告げる。
「人は若い頃は美しく楽しい歌を歌います。
それは春の歓びが人にそのようにさせるのです。
しかし、夏が来て、秋を迎え、
結婚や子育ての悦びなどにところどころを彩られながら、
人生の苦い味を知るようになって、なお、
美しい歌をひたすらに歌い上げる、
そのような人をこそ、
芸術家と呼び、
マイスタージンガーと呼ぶのです。」
・・・記憶に基づき奔放に書いているので、原作そのままではないことをお断りしておく。
もう一つお断りしておきたいのは、このようにあれこれワーグナーについて書いても、スタートレック・シリーズの全エピソードを映画版も含め複数回観ているからといって、私も妻もトレッキー(スタートレックおたく)でもトレッカー(スタートレック・マニア)でも断じてないのと同様、私たちはワグネリアンでは、決してありませんので、念のため。
今回、初めて映画館でワーグナー作品を観たのだが、周囲に一切遠慮しなくていい大音響を、満身を解き放って細胞の1つ1つにまで響かせるというのは、実に新鮮な体験だった。
妻などは、オーケストラの楽器の1つ1つが細やかに聴こえると上機嫌で、楽譜と観比べながら聴いたら面白そう、なんてワグネリアン協会からお誘いがかかりそうなことを、ぽろっと述べていた。
帰宅後、妻が対訳本を読み返しながら、「ドイツ語だと、あの中で歌われている歌が全部韻を踏んでいるんだ」なんてしきりに感心していたが、道化役ベックメッサーによるパートだけは韻の面でも曲のリズムも、わざと崩してなおかつ一つの調和を生み出しているところがワーグナーの凄いところだよね、といった会話が夫婦間で成り立ってしまうあたり、私たちも結局のところマイノリティ(少数派)なのかなあ、と思えてしまう。
妻といえば、私が大阪で勾留されている間に自身が演奏するバッハのオルガン曲をYouTube上で公開したところ、思いがけず多くの人々の耳にするところとなったそうで、批判的なコメントも寄せられたと本人がのたまうから、一体何を言われたのかと尋ねたら、「リヒターの方がもっとうまい、って」なんて寂しそうに言うではないか。
何をおっしゃる、うさぎさん、なのである。
故カール・リヒターといえば、世界で3本の指に入るといわれたほどの名演奏者、数少ないマイスターの中の至高のマイスターではないか。
30歳過ぎてから週1回の短いレッスンをわずか1年ほど受けただけの、徹底した「シロウト」であるところのお前が、オルガン演奏においてリヒターと比べられるだなんて、もうそれだけで最高の大賛辞ではないか。大惨事どころか、床を転げ回って大喜びするべき、この上なき褒め言葉なのだよ。
と教えたら、「あっ、そうか」と、ぱっと顔を輝かせてたちまちハッピーになるところが、私と同様に能天気なのだろうが、しかし、能天気でなければ芸術家なんてものを、真面目にやり抜くことなど決してできはせんのだ。
笑いという要素が、絶対に欠かせない。ワーグナーが『マイスタージンガー』を創作したゆえんでもある。
<2022.06.27 菖蒲華(あやめはなさく)>