Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション2 第二十二回 生命の祈り

◎2014年の年末に発表した随想(の一部)だ。

「誠」を徹底して突き通そうとする私のような生き方は、世間一般の価値観からするとずいぶん損なものと思えるかもしれない。が、 一つだけ確かなことがある。
 物心ついて以来、ずっとそうした生き方を押し通してきて、今ハッキリ言えるのは、「まったく、微塵も、後悔が感じられない」ということだ。
 生命いのちの高まりを、時々刻々に強烈に感じられる人生。
 そんな生き方こそが、真に人生と呼ぶに値する、生き方ではなかろうか?
 それ以外の生き方など、私はまっぴらごめんこうむりたい。生ぬるい生を延々生き続けるくらいなら、躊躇なく死を選ぶ。

 悔いが残らぬという結果を得るため、何らかのライフスタイルを選択すべし、などと皆さんにお勧めしているわけではない。
 それではまたしても、プロセスと結果を取り違えることになってしまう。
 私が強調しているのは、あくまでもプロセス(流れ)だ。
 社会を変えるとか、裁判の状況が良くなるとか、そういう結果だけに注意が偏り、刻々に変化するプロセスに臨機応変に随い、流れに乗り続けることができなくなるとしたら、それこそ本末転倒というべきだ。
 プロセスに乗り続ければ、最も正しい結果へと自ずから至る。
「正しい」とは、個人的に都合が良いという意味では必ずしもないかもしれない。が、「後悔が一切残らない」「瞬間瞬間を全面的に生き切る」という意味において、最も充実し、最も満足のゆくものであることは間違いない。
 他人から見てどんなに素晴らしい境遇であれ、当人が歓喜も感謝も一向に感じてないとしたら、そこに生命いのちの輝きはまったくないのだ。貧相で、みすぼらしい。
 無条件の歓喜と感謝に満たされるということの何たるかを知る者にとり、プロセスに忠実に随った結果として自ずから至る「そこ」は、エクスタシーに満ちた極楽でありパラダイスだ。
 より正確に言うなら、極楽へと至る道のり、その一歩一歩にこそ、真の極楽はある。
 This very place, the Lotus Paradise. This very body, the Buddha.
 当処すなわち蓮華国。この身すなわち仏なり(白隠)。

 遊びたいのを我慢して勉強し、青春を犠牲にして努力し、社会に出ても出世やらローン返済やらでとにかく頑張りに頑張り通し、停年退職後は若者の可能性を強引に奪ってでも自己の安泰にかまけ、そのさらに先に待ち受けている最後のゴールとは痴呆老人・・・なんて下らない、浅ましく情けない有り様を見せつけられて、誰が人生に希望などいだけるものか。誰が、「生きる」ということに対し、尊厳・・尊さと厳粛さ・・を感じるものか。
 ただ一つだけ確かなのは、そんな生き方、より正確に言えば「死に方(死へと近づいてゆくだけのあり方)」に対し、心ある者は、「ふざけんな、馬鹿野郎!!」と叫び、土足で踏みにじり、ドブの中へたたき込んでしまわねばならない、ということだ。

 人様の手本になりたいと思ったことはこれまで一度もないし、手本となるような生き方をしてきたわけでもない。が、このたびの一件を通じて私を知り、その「生きる姿勢」に感動し共感を覚えると言ってくれる年若き人たちがいる。寒風ふきすさぶ荒れ野のごとき人の世にあって、孤立無援の私たちにそっと寄り添い、暖かな手を差し伸べてくれる少数の人たちこそ、まことの光であり、力だ。
 ある女性は、前回の公判を初めて傍聴したが、自らの人生と重なり合うものもあって、公判終了後トイレにこもって震えながら泣いていたという。にも関わらず、その次の公判にも敢えて参加したというのだから、その勇気と愛の深さがわかるだろう。
 別の一女性は、妻と私がこれまでインターネット上で発表してきた芸術作品に深く打たれ、「真実がここにある」との自らの直感に従い、友愛を実際の行動で現わしつつある。
 彼女/彼らの熱きまなざしに対し、自らの生き様をもって誠実に応えることは、ある程度の人生経験を積んできた年長者が果たすべき当然の義務と私は感じる。

 龍宮道の瞑想を通じ、人類の集合的無意識層に沈潜することが日常と化している私だが、時折そこから浮かび上がり、いわゆる「現実」に戻ってふとまわりをみると、バスタオル一枚をまとっただけの美女たちがリビングをうろついていたり、色も形もとりどりの極小サイズの女性下着が私のアトリエにズラリと干してあったりする。
 夢かうつつか、はたまた幻か、と思わず我が目を疑いたくなる光景だが、夢でも幻覚でも、どうやらないようだ。
 人間の名に値しない麻薬犯罪者として糾弾されつつあるにも関わらず、年若き女性たちがこんな風にすっかり安心し切って信頼し、応援し、愛してくれる、この活ける事実こそ、私が信念をもって歩んできた・歩みつつある生き方が、女神(宇宙的な女性原理)の道にたがうものでないという、何よりの証だ。 
 この事実が、私にさらなる力を与える。
 女神から注がれる祝福。恩寵。
 そういえば・・・・、2000年ほど前、イエスがゴルゴダ丘上で十字架にかけられた時、男の12使徒は全員逃げ出してしまって、ただ母親のマリアとマグダラのマリアのみがイエスの死を観届みとどけたのだった。

 龍宮道という、私自身もいまだにその全貌を把握しかねている「何か」が、今、歴然として私の手の裡にある。
 その輝きは、ますます増していって、もはや覆い隠すことができないほどだ。
 私一人で独占すべきものでも、独占できるようなものでも、なく、しかるべき人々と分かち合い、各々の道(生き方)にて活用されるべきものとの感が、日増しに強まりつつある。
 女神より賜りし道であるからには、女性の求めに応じ女性的な形でもわざを示し、説く必要があるのかもしれない。
 ただ、最近、龍宮道の武術的な稽古に参加した女性たちは、武道経験が皆無か、あるいはほとんどないような人ばかりだが、皆さんかなり楽しんでくださっていたようだ。
 龍宮道の伝授・稽古内容は臨機応変で、毎回違ったものとなり得るが、木刀で(初心者に対してはソフトに、だが気迫を込め)撃ちかかってくるのに対し、(避けたりかわすのではなく)迷わず毅然として、真っ正面から歩を進めてゆき、裁く・・・、いや捌く、なんてことを、君もやりなさいといきなり言われ、「エエーッ!?」と一応かわいらしく驚いてみたり、抗議のそぶりを示したりもするのだが、いざやるとなったら実に堂々とした態度で、男たちが振りかざす木刀にひるまず立ち向かってゆく。
 そういう時には、自然と腰が「入って」、腹が「落ちて」いるものだが、「それ」こそあらゆる武術が最終的に目指すものであり、「それ」さえあれば、わざの良し悪しとか出来具合など、問題とするに足らぬ些事に過ぎないことを、遺憾ながら現今の大多数の武術流派、ならびに武道家が見失っているようだ。

 喧嘩で相手をやっつけた武勇伝を誇ろうが、試合で立派な成績を残していようが、実人生のいかなる逆境に対しても即・応じて悔いを一切残さぬ、それができないとしたら、その人の真の武術的実力は、お粗末なものと断じざるを得ない。
 徳川以前の戦国時代ならばイザ知らず、現代いまの世界を生きる者にとって武道が何の意味を持ち得るのかは、すでに徳川時代に武士たち自身によって鋭く問いかけられ始めたテーマだった。
 徳川幕府の治世によって大規模な合戦が終焉し、武力集団たる武士の存在理由レゾン・デートルそのものが疑問視されるようになったからだ。
 精神力とか粘り強さとか、そういうものを目的とするのであれば、武術以外にも、硬・軟、インドア、アウトドア、知的方面、肉体的方面、選択肢はいくらでもあり得る。
 武術の修業というものは、セミナーやワークショップにちょっと参加しただけで一朝一夕で身につくようなものでは、当然、ない。長い年月をかけ、肉体と精神を特別な方法で鍛え、錬り、磨いてゆくのだが、それに値するいかなる「価値」を、実際の肉体的闘争の機会がほとんどない現代日本のような社会において、武術は示すことができるのだろう?
 現代において、武術とは、健康法や能力開発法のあまたあるヴァリエーションの一つに過ぎず、個人的な趣味嗜好に属すものであり、俗世の好奇心に訴える一過性の出し物となったり、時に文化人気取りの一風変わった趣向となる、その程度のものでしか、所詮、あり得ないのだろうか?

 無限の深淵に等しい大宇宙の超絶的な時間と空間のはざまにただよう、実にはかないかりそめの存在に過ぎぬ人間。それは、大海に生起しては消えることを延々繰り返す、波のようなものだ。
 そんな、大宇宙においては「無」に等しい卑小な存在たる人間に、より一層の確信に満ちて祈りに祈る以外、一体何が為し得るというのか!? 
 生きる、とは、本質的にそのようなものではあるまいか。すなわち、一瞬一瞬を祈りに満たす、ということ。
 だから、いにしえより遥かな超未来を一貫して貫く<生命いのち>の意思に基づき、私はおもいをこの上なく強烈無比に集約して、祈る ! 

 祈念きねんたてまつる。
 我らを導きたまう、大宇宙の聖なる御力みちからよ。
 我らをして、その聖なる御意思ごいしのまま、円転滑脱えんてんかつだつ無碍自在むげじざいなるがままに、遊び、流れることを、せしめたまわらんことを!
 女神、神々と共に歓び、楽しむ、聖なる神楽舞かぐらまいを舞うことこそ、我らが唯心の望みにして、唯物の奉納なり。
 一層、心のうちなる声高らかに。あらゆる生命いのちの声を折り重ね、絶対の確信に充ち満ちて、祈りに、祈りげる!

 我らは、歓喜と感謝に満たされる!!!

<2022.06.28 菖蒲華(あやめはなさく)>