◎2015.03.09に発表した随想。
Tyger! Tyger! burning bright
In the forests of the night,
What immortal hand or eye
Could frame thy fearful symmetry?
虎よ! 虎よ! 夜の森に、あかあかと燃え盛る
不死なる者のいかなる手または眼が
汝の恐るべき均整を作り得たのか?
ウィリアム・ブレイク『経験の詩』より
先日、裁判を通じて知り合ったある美少女が唐突に言うには、「血判とか血染めの手形とか、自分の体を自分で切って血を流したがるなんて、要するに変態ですよね?」と。
歯に衣着せぬ物言いに、一瞬呆れ、次の瞬間、思わず笑い出してしまった。
「なるほど、君はそんな風に感じるんだねえ。なかなか新鮮な意見だ。
でも、体を傷つけたり、血を流すのは私だって嫌だし、好き好んでああいうことをやっているわけじゃあないんだよ。
誰もが嫌がること、痛みを感じることであっても、個人を越えた大きな目的のために敢えて踏み込んでゆく覚悟が俺にはあるぞ、と示すことが目的なんだ。
とはいえ、血にかけて誓うというのは、確かに前時代的な古めかしいやり方かもしれないね。君が言う通り、ある種の変態かもしれない。
ところで君、変態は嫌い?」
と答えたら、「ふう~ん」と神妙な顔つきで考え込んでいた。
保釈後、妻がよく口にするのは、「あなたはどこか変わってしまった」、と。
埋めることのできない溝のようなものを、私も感じる。これは妻との関係性だけではなく、世界そのものとの間にできた裂け目のようなものだ。
第二次大戦の末期に特攻隊員として志願し、そのための訓練を受けたにも関わらず、出撃直前に敗戦となって結局生き残った人たちは、故郷に帰ってきた時、まったく別人のようになっていたという。
その人の中の何かが、永久に死んだのだということを、同じような状況を経験していない者は決して理会することができない。
私もまた、<決死>を覚悟し、神風特攻の意気をもって逮捕の日を心静かに迎えた。
1人の人間が希望も愛も何もかも抛って<死>に焦点を定める時、その周囲では時空が鳴動し、揺れ動く。
そのせいなのだろう、当時の私と接することで精神に異常を来したり、人生そのものが狂ってしまった者(迫害側の人間)が実際におり、私が最も異様に感じるのは、それらの人々に対して気の毒とも、いい気味とも、一切何も「感じない」という事実だ。
昨年8月の公判後に開かれたイベントのトークショーに駆けつけてくださった中山康直氏は、大麻事件で逮捕・勾留され、2年近い歳月を裁判のため捧げた人だが、すぐ隣で中山さんが話されるのを聴いていて、熾火のようにくすぶり続ける「怒り」を、如実に感じた。
ああいう純粋で心優しい人であればこそ、「なぜ同胞に対し、お前たちはこんな非道を平然と働けるのか!?」と、自分を取り調べる警察官にも、留置場の世話係にも、検察官にも、裁判官にも、強烈な憤りを覚えたであろうことは、想像に難くない。
今、中山さんが寝食の時間も惜しんで全国各地を駆け巡り、自らが携えるメッセージを心ある人々に届けようとしているのは、彼なりのやり方で世界との間に再び橋を架け渡そうとする努力のあらわれなのだと思う。
類い稀な幻視者でもあったウィリアム・ブレイクは、人間の奥底に眠る原始的で凶猛な衝動を虎として描き出したが、私もまた自らの裡にある血に飢えた<虎>を自覚する瞬間が、ここ最近、頻繁に起こるようになった。
かつてシャーマンの修業を積んでいた頃、しばしば・・・・、唐突に、不可思議な時空に連れ去られたと思った次の瞬間、自分が虎になっていて、丈高い茂みにそっと身を隠し、息を潜めてあたりの様子をじっと窺っている・・・、そんな神秘的な体験をした。
世界を虎が感じるように感じている。虎そのものとして世界を知覚している。体毛をこする草の感触とか、自らの瞳に映る月影の静謐さなどが、この上なくリアルに感じられるのだ。
先住民文化に伝えられる、動物の形をとって現われるスピリット・ガイド(守護霊獣)と呼ばれるものに相当するのかもしれないが、そういう「知識」を、「体験」の後で逐次確認してゆくということが、科学という実際には一つの信条に過ぎないところの偏見に凝り固まっていた私のような人間にとり、どれほど衝撃的で、斬新で、まったく新たな宇宙が目前に拓かれるのと同等、否それ以上の・・・冒険心を呼び起こし、と同時に<希望>を、感じさせるものであったか、どうか、わが事のように、想像してみていただきたい。
・・・心の赴くがままに言葉を綴っていたら、愛猫マヤのそぶりが明らかにおかしい。
出窓のところでしきりに外を窺ったり、かと思えば目を真ん丸に見開いて、いかにも警戒心にあふれた様子で私の横をさっと駆け抜けてゆき、どこかへ行ったのかと思うと、またすぐに戻ってきて窓の外を一心不乱にみつめている。
いつもなら飛びついてくる猫用おもちゃにも関心を示さず、声をかけても上の空。
私の意識の裡の奥底に眠る<虎>が身じろぎし、目覚めようとする気配に、猫も鋭敏に反応するのだろう。
マヤは上記のような普段とは違う行動をとったし、ちょっと求刑、いや休憩するため階下へ下りて行ってみると、他の猫たちは私と決して目を合わせようとしない。
こういう時は、危険な野獣のごときオーラを自分が放ち始めているのだと自覚せざるを得ない。
戦死した英雄の魂をオーディンの宮殿ヴァルハラへと運ぶワルキューレの叫びか、と思えるような風のうなりが窓外でごうごうとうなり哮っているのは、春一番というやつなんだろうか。
私が情念込めて言葉を綴るや、それに完全に共鳴するかのようにリズムを合わせてうなり轟き、私がまったき思考停止状態に入って沈黙すれば、同じようにピタリと鳴り止むところが不気味といえば不気味だ。
ちなみに、皆さんは思考を意図的に完全な白紙状態にすることができますか? そこまでいかずとも、少なくとも何か一つのことを、どれくらいの時間、ずっと覚え続けていられますか?
簡単な方法で、自分の「想起」具合を計ることができる。アナログ時計の秒針の動きを観ながら、「自分は今、時計の針を観ている」という事実を想起し続けるのだ。想起とは、思い起こし、確認する、という意味だ。
初めて試す人は一驚するに違いない。
最初の固い決意はどこへやら、ものの10秒とたたぬうちに、気づいてみると、もう何か別のことを考え始めていたよ、と。
これはいかん、と決意を新たにしたところで、結果はまたしても同じ、または似たようなものとなるだろう。
たった1分間、瞬時も絶えることなく、ずっと「私は時計を観ている」と想起し続けるという、一見実に容易いことが、実際にはヘラクレスの難行に匹敵、否、それ以上の難行なのだと心底から理会したあなたは、<智者>への第一歩を歩み始めたのだ。
おっと、話が思わぬ方へ逸れそうになってしまったが、このように書き記す私の思考のリズムをダイナミックに彩るオーケストラのごとく、風が吹き荒れ、木々の梢をわななかせるのは、天地万象が私の心の動きに応じているのか、あるいは天地の動きに感じて私の心が思考を紡ぎ出しているのか、どちらがどちらとも判じ難いこの「状態」は、芸術家にとっては悦ばしいものであるには違いないが、まあ、世間一般の価値観からすると極めて厄介な代物であり、危険きわまりないものでもあって、・・・・・なんて書いていたら、びゅうびゅうと風のうなりが、物理的な危険を感じるほどに高まり、切迫してきたから、このあたりでLet’s take a Blake じゃなくて break とまいりますか。
<2022.06.29 菖蒲華(あやめはなさく)>