Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション2 第二十四回 カルマ

◎第一審判決言い渡しの日まで残り13日となった、2015.04.02発表の随想だ。

 すぐ隣の県立高校から毎放課後、「我を聞け!」とばかりに嫌らしく鳴り響いてくる軽音楽部やら吹奏楽部などの一大騒音は、全身の神経をかき乱されるがごとき不快感のみをもたらす実にひどいシロモノだが、それにじっと耐えつつ裁判関係の事務的なことごとについて細々こまごま叙述するというのは、ほとんど拷問に等しい責め苦と私には感じられる。
 最近聴いた話だが、歴史上の偉人や天才と呼ばれた人たちの多くが、私同様、「音」に極めて鋭敏で、その鋭敏さは時に病的ですらあったという。
 たぶん彼女/彼らは、私と同じく、タクシーに乗る時はカーラジオを断固として切らせたに違いない。「あれ」が人間の言葉として、私には認識できないのだ。異星人か何かがわけのわからないことをぺちゃくちゃおしゃべりしているみたいにしか、感じられない。
 と、ここまで書いてきて、あっと気づいた。
 もしかして、オレも・・・、「天才」だった・・・わけないか。
 冗談はさておき、この許し難き騒音がやめば、このあたりの人々にとってもずっと暮らしやすくなるのに、とは思う。 
 以前、私が長期断食を行なった際、まるで狙いすましたかのように、夏期でないにも関わらずわざわざ窓を盛大に開け放ち、騒音の集中砲火を浴びせ来る摩羅マーラの軍勢に、妻が抗議の電話をかけるも、教頭と名乗る男は「教育上必要なこと」の一点張りで耳を貸そうとすらしなかったといい、それではどうしたらよいかといえば、今ざっと思いつくのは以下の3つのプランだ。

1.引っ越す。
2.騒音計で計って「うるささの度合い」を科学的に示し、抗議の電話に対する不遜な応対などもすべて録音しておき、相手に不利なデータが充分集まったところで、行政訴訟を起こし、音楽部を廃部に追い込むと共に、傲岸不遜な対応をした教職員を降格&左遷させる。
3.私か妻が音楽部総監督に就任し、少なくとも調和的な音が出せるよう努めて指導すると共に、余計な音が外部へとできるだけ漏れ出ないよう、可能な限りの努力を払う。

 騒音が鳴り響いている真っ最中に、下っ腹に力を込め、「やかましいッ!」と怒鳴りつけるのも、ワンシーズンくらいは効果があるのだが、「美意識」という点で難があると、1度実際にやってみてわかった。
 それに・・・・この高校、実は私の「母校」なのである。
 毎年「体育の日」が近づくと、にわかづくりの応援団がにぎやかに練習している、そのメニューのあれやこれやは、何を隠そう「オレ」自身が始めたことであると思えば(高校の3年間を通して応援団に属し、3年生時には団長を務めた)、これもカルマよ因果応報よ、とぐっとこらえることも・・・できないではないのだが、しかし・・・・・、私が通学していた当時、山を切り開いて急造した「我が母校」の周辺には、ただ山林のみがあって、今のように人家に取り囲まれてなどいなかったのだ。 

 私が入学した年にようやく全学年が揃った新設の高校には、県下の全高校から優秀な教師が集められたらしいと、もっぱらの噂だった。
 学問の楽しさと歓びを、私はこの高校で初めて知り、全面的に満喫した。新設の学舎まなびやゆえ、進学のプレッシャーはまったくなかったし、受験のための機械的な受験法などもほとんど重視されてなかった。
 情熱的に学ばんとする者に対しては、情熱的に応える器がそろっていた。夏休み中も私は毎日学校に通い、当直の先生方が私一人のために熱弁を振るう講義に熱心に耳傾けた。
 後年、人畜無害なホウ酸がゴキブリにだけは猛毒となる特性を活かしたゴキブリ駆除剤が市販されるようになったが、それに先立つ何年も前、私は生物学の授業で自作法を学び、実家で試して母から大喜びされた。
 それを教えてくれた先生は、商売気の一つも起こして特許でも取っておれば、大金持ちになっていたのではあるまいか。
 なお一つつけ加えるなら、ホウ酸団子では不充分なところを補い、ゴキブリを完全に駆除するための奥義の一手があって、こちらに関してはどうやらいまだに商品化されてないようだが、私が発見したことではなく、勝手に公開するような不粋・不義理は慎ませていただく。
 物理学の教師は、「ただ上がり下がりするだけのジェットコースターなんて、あんなものは生ぬるい!」と宣言し、私ならこうする、とぐるり360度大回転する図を黒板に描いて生徒一同の度肝を抜き、「さらにこうだ!」と螺旋状の回転をつけ加えて皆を大笑いさせていたが、それとまったく同じものがアメリカの遊園地で実際に造られたというニュースを私が耳にしたのは数年後のことだ。
 何かの細菌を新発見して自分の名前が学名につけられた生物学教師とか、囲碁の実力者として有名でNHKテレビの解説にもしょっちゅう登場していた数学教師とか、優秀でユニークな人材が集められ、学問への情熱が沸騰せんばかりに集中していた特別な時期に、外界から遮断された閑静な環境で高校生活を送ることができたのは幸運以外の何ものでもなかったと、今でも感じている。
 学問とは・・・・・文字通り、「学び」「問いかける」ことだ。

 その後進学した東京大学の授業が、どれもこれも皆、あまりにも退屈でみすぼらしく感じられたのは、高校時代に味わった真の学問とのギャップゆえだ。
 一例のみ、あげよう。
 微積分学の授業。教授が入場し、出欠を確認し終えるや、ノートを片手にくるりと背を向け、そのノートに記してあることを読み上げながら、同時に黒板に書き記してゆくのだが、それが一時的に止まるのは、左右の黒板全面にびっしり書き終えて上下を入れ替えたり、それも全部一杯になって、最初に書いた左右を黙々と消す時のみ。
 そうしたことが毎回、毎回、延々90分も続く異様を、異様とも変だとも一向に感じてないらしい同級生たちに取り囲まれながら過ごす異状を、瀬戸内海を見下ろす広島の山奥でのんきに学んだ私がどんな風に感じたか、リアルに想像してみていただけるとちょっと面白いかもしれない。
 1度の授業で1、2度差し挟まれるジョークですら、毎年同じものが繰り返される、とも聴いた。
 私が最も衝撃を覚えたのは、学問をしたくてこの大学に入ったと言う私に対し、同級生の誰もが驚きとあざけりの入り交じった表情で、「今どきそんな目的で東大を目指す者なんかいない」と口々に答えたことだ。

 大学1年生の夏休みをタイ、マレーシアで過ごした後は、もういけなかった。
 キャンパスに戻ったとたん、自分の価値観が決定的に変化したことが生理的に実感された。
 周りの誰を観ても、目が・・・・・死んだ魚のように曇っている。
 私が初めて訪れた頃は、深夜に働く幼い子供たちの姿も珍しいものではなかった彼の地においては、出合ったすべての人々の目が活き活きと活気にあふれ、美しく輝いていた。希望があり、・・・・生への情熱があった。
 改めて鏡に映る自分自身の瞳と向かい合い、日一日とそこに、徐々に・・・薄膜のようなものが覆ってゆく様を明瞭に自覚できるようになってしまっては、何の意味も意義も価値も見出せないキャンパスにそれ以上身を置き続けることは「不可能」だった。

 今、厚生労働省がらみのあれやこれやについて調べていて、いわゆる官僚と呼ばれる人間たちの経歴をチェックする機会も多いのだが、東京大学○○学部卒とあったりするのを観ると、年齢的にも私が実際に知っている「あれら」の連中が、何かの悪因縁よろしく払っても払っても降りかかってくる火の粉、あるいは掃除しても掃除しても降り積む埃のように、まあ、あちらからすればこちらの方が塵芥ちりあくたみたいな夾雑物きょうざつぶつなんだろうが、つきまとって離れないというのは、一体いかなるカルマか因縁か、と思わざるを得ないわけだ。
 そもそも、一体何をトチ狂って、中学時代まで常に落ちこぼれ気味であった私が東大なんかを目指そうと思ったのか、関連する記憶をデリートしてしまったため今となっては定かではないのだが、盆地にある京都は夏蒸し暑くて冬はものすごく寒い、と誰かから聴いて、最初京大と思っていた志望校を東大に換えた記憶だけがある。
 京都大学へと進んでおれば、その後の人生は随分違ったものとなっていたのだろうが、しかしながら、人の中身が人ならざるものへと書き換えられる魔界の「総本山」の実態を肌身で知るためには、敢えてそこに身を置く以外に方法がなかったことも確かだ。
 いずれにせよ、これまでの人生にまったく後悔はない。改めて振り返れば不器用極まりないとはいえ、その時々を精いっぱいに、誠実に、全面的に、生き抜いてきた。

 耳栓をぎゅっと詰め込んでも、全身の皮膚と骨を通じて薄気味悪く響いてくる騒音にひたすら耐えながら、こわばりがちとなる手を時折盛大に振りつつ、裁判資料の整理に没頭していて、ふと気づいたら、窓の外にはいつの間にか夕闇が迫り、あれだけ猛々しかった騒音も嘘のように止んで、時折行き交う車の音や近所の家で扉を開け閉めする音、道行く人々の楽しげな語らい・・・以外には、穏やかに静まり返った春の宵のしじまを破るものとてない、今、一体何を書いたかとはじめのところから改めて読み直してみれば・・・・・・・・、何だッ、過去を振り返ってくどくどしく書くなど、「わが輩もまた老いたるかな」を地で行く無様さ、滑稽さ、否、醜悪さよ、と自らを厳しく叱責・叱咤せざるを得ない。
 が、自ずから湧き溢れてたいを為した言葉にはいつも通り最大限の敬意を払い、これはこれとして、そのまま、『インターネット裁判』に収めることとしよう。

 第一審とリアルタイムで制作・発表した『インターネット裁判』は全76回(かなりの長文や英文、帰神スライドショーなどを含む)。第一審判決後から控訴審〜最高裁への上告棄却〜そして収監までの期間に執筆した『遊びをせんとや生まれけむ』が全57回、『戯れせんとや生まれけむ』が全48回。『戯れせんとや〜』の最終回では、収監先へと私を送っていった妻による付記を添え、裁判を支援してくださった方々に対する私からの最後の挨拶状を公開した。
 上記から、かなり多量に含まれる裁判関係の事務資料をすべて除いても、残りはまだ膨大である。全部はとても再録しきれないし、鎮魂の呪術作業が効いてきたのか、もう、当時の随想を読み返しても、あるいは検察官や裁判官らが「わかった上で・わざと」やったのだと考えても、弁護士までが一種のグルで所詮同じ穴のムジナであったと気づいてすら、私自身はもうあまり怒りを感じなくなってきた。
 このあたりで言霊の鎮魂に一区切りつけることとしたい。もちろん、これで終わりというわけではなく、裁判関連の話題は今後も適時、取り上げるつもりだ。

<2022.06.30 菖蒲華(あやめはなさく)>