◎私の生き方、というよりは「在り方」を目の当たりにし、ダイレクトに触れ合った人々の幾人かは、「宗教的」との感想を実直に抱くようだ。
ここでいう宗教とは、特定の宗派に対する信仰とか、妄想的な気分、迷信の類いなどとは明らかに次元の異なる、人が生きる上における根本、生き様、在り方を指す言葉であることは、改めて述べるまでもなかろう。
宗教的、と呼ばれることが、しばしばある種の侮蔑やいかがわしさを意味する日本社会の現今の風潮そのものが、「末法」と呼ばれる社会の末期現象の端的な「症状」にほかならないという事実に、心ある方々はどうか気づいていただきたい。
特定の教義を信じ、特定の開祖、聖人などを拝み、あがめる、いわゆる組織宗教と区別するため、「宗教性(Religiousness)」という言葉を仮に使わせていただくが、宗教性とは元来、いかなる人の人生においても根本にして不可欠の、生のエッセンスともいうべきものではなかろうか。
それが、私の言う<生命>だ。この生命とは、死に対立する命とは違う。生と死を共に超越し、生と死の根源であるところの超越的実在。それを、ヒーリング・ネットワークでは生命と呼び習わしてきた。
◎冤罪で4年余の歳月を過ごした刑務所にて、大勢の「人殺し」たちと出会った。
私にとって「生」とか「死」は、この上なく重い言葉だ。
誤って、あるいは故意にであってさえ、誰かの命を奪ってしまった者に対し、だから、私は全面的に共感することができる。
殺意の有無に関わらず、自分の直接の行為が1人の人間を死へと至らしめる。
そうなって初めて、人間というものは、命の途方もない重さを悟るのだ。
これは、目の前で誰かが死ぬのを観守るのとはまったく違う経験だ。
命を奪う、ということ。
それは、途方もなく重い。
こちらの命を奪おうとした敵の命ですら、まったく同様に重い。
軽んじ、蔑んでいた人間。何の価値もない、死んで当然と見下していた人間。そのような人間の命であってさえ、いったん奪ってみると、その途方もない重さが一気にのしかかってくる。
こうした「魂の重さ」から逃れることは、どんなに理屈をつけても、言い訳しても、他のことで気を紛らせようとしても、絶対に・できない。
繰り返す。
絶・対・に・不・可・能・だ。
刑務所という特異な環境にて、殺人者たちと深く話し合ってゆきながら、この事実を何度も確認した。
◎いったん、命のぞっとするような、生々しい、脆く儚いにも関わらず、どうしようもなく絶対的な、<重さ>、を、思い知ったのであれば、それに対し責任を負わなければならない。
生涯、負い続けるのだ。
責任を負うとは、他者によって言い渡され、強制される刑罰とは違う。
自分が命を奪った者の分も生きるのだという決意。
強い、強い決意。
それこそが、「責任を負う」と私が言う意味だ。
それ以外に、真の贖罪はあり得ない。
贖罪とは、罪を自ら積極的にあがなうことにより、魂が清められることを意味する。
ところが、「あがなう」とは「金で買うこと」、が、わが国の司法の現実であるという。聴くところによると懲役1年につき1千万円が相場とのことだが、そんな法廷を司る主宰者は神などではあり得ない、と断じることは、果たして暴論であろうか? 妄想であろうか?
法廷の神聖を踏みにじることであろうか?
魂のレベルにおける<あがない>とは、何かを何かで買い求めることなどでは断じてなく、自ら進んで責任を負うということだ。
自分が奪った命に対する責任を、全面的に負う。
相手の命を、自らの命の中に受け容れる。トータルに余すことなく、徹底的に。何もかもすべて。
自分に殺された者は、今や、自分の中で生きている。自分自身の一部となっている。
「彼」は「我」だ。
「我」は「彼」だ。
我々が生きるために奪い続けているあらゆる命・・・魚や鳥や獣だけでなく、植物に至るまで・・・・、すべてに対して、まったく同じことが言える。
こうした生命のバランスを、龍宮道では<生命の対等>と呼ぶ。このヴィジョンについては、『ドルフィン・スイムD』(特に第4章)もご参照いただきたい。
◎「人」対「人にあらざるもの」という図式にとらわれていたのでは、決して理会できない。理会できなければ、魂の救いはもたらされない。
苦悩から解放され、子供の時のような純粋で天真爛漫な気持ちを取り戻すことができない。
生きている人間同士におけるあれやこれや、をすべて事細かく検証し尽してもまだ足りない。
人同士における、殺す者と殺される者との対立、否、対決における、<対等>。
そこまで踏み込まねばならない。
食人族が、他者の勇気や知恵をわが物とするために相手を食べるという話は、皆さんも聴いたことがおありだろう。
わが国では古代、勇敢な敵を倒すとその名を取り上げて自ら名乗る風習があった。ヤマトタケルもそうだ。
命を奪った者の分も生きる。
これを重荷とみるか、2倍に人生が豊かとなったとみるか、人はどちらでも選択できるのだ。
楽しく、有意義に、充実して、日々を生きることこそ、命を奪った者に対する真の供養であると私は感じる。
それは、死者をないがしろにすることではなく、逆に活かすことだ。
ただ自分のためだけに生きるのでなく、自分のために失われた命の分も生きる。暗く、コソコソ逃げ回るような、常にあたりをうかがうような、そんな腰抜けの態度など、自分自身に対し絶対に許さない。
それこそが、生命を真に活かすことであり、自分も自分に殺された者も、共に十全に活きる道だ。
◎他者の命を奪って生きながら、なお、生を楽しめるか?
命の重さにおののきつつ、その重さゆえにこそ、以前とはまったく違う質の楽しみを、人生に見出すことができるか?
無責任と傍からは見えるかもしれないが、これは容易なことじゃない。
ただ単に努力すればできるようなものとは本質的に違う。
だが、それ以外に、<救済>はないのだ。
まことの<ヒーリング>は、他にはない。
自分で自分を容す、容すことができる、そのような境地へとたどり着くための唯一の道が、<生命の対等>というヴィジョンだ。
ヴィジョンの灯火を掲げつつ、「罪を犯した者」が救済へとたどり着く。その巡礼の旅路を観守り、導くのが、龍宮の神々なのだ。
◎先日、随分久しぶりにキャビアを食べたら、何だか以前と違う味がする。より正確に言うと、前は確かにあったはずのある要素が味わいの中に欠けている感じがするのである。少々驚いて今度は希少な生キャビアを試してみたが、やはり何か物足りない。
キャビアの味がわからなくなるとは俺もいよいよ死に時か、と思いつつ、ふと気づいたのは、以前と違って今回初めてシェルスプーン(真珠の母貝になる白蝶貝から作られたキャビア専用スプーン)を用意したのだが、金属製のスプーンとは微妙に違う味になるのではあるまいか・・・と。
直ちに実験。すると、以前の味が戻ってきた。・・ということは、金属の余計な味を、キャビアの美味を初めて知った高校時代から今日までずっと、キャビアの味の一部として認識(誤認)していたわけで、何とも馬鹿馬鹿しい限りだが、頑なな思い込みがかくも容易に人を惑わすという良い見本であろう。
◎本連載で少し前に、ホトトギスの鳴き声について唐突に述べたが、今年のホトトギスは例年になく切迫したような異様な感じで(鳴き方そのものまで違っていた)、「これは何か天地に異変が起こりそうだ」と友人らに話したばかりだ。
梅雨が観測史上最も早く明けてしまい、例年まずニイニイゼミ、少し遅れてアブラゼミ、朝夕のヒグラシ、真夏のクマゼミ、そして秋の訪れを告げるツクツクボウシ、と順番に出現する蝉たちなのに(私が暮らすあたりではミンミンゼミは鳴かない)、今年はツクツクボウシ以外の全種類が混乱したように一斉に羽化し・鳴き始めた。
かと思えば、去ったはずの梅雨が舞い戻ってきたかのように、日本各地を激甚な集中豪雨が襲い、まさに気候変動を実感する今日この頃・・・、皆様いかがお過ごしでしょうか。
<2022.07.20 鷹乃学習 (たかすなわちわざをならう)>