◎裁判中に作成した極楽寺山探訪シリーズの第3作だ。当時記したライナーノーツは以下の通り。
2014年10月24日。
極楽寺山の秋を、妻と共に帰神撮影してきた。
1ヶ月半前に訪れた時はツクツクボウシが盛んに鳴いていたが、今回は・・・実に静かだ。
あらゆるものが息をひそめ、時折上空を通りすぎる飛行機の轟音が、かえって静寂を一段と深める。
歩一歩、山道に散り重なる落ち葉を踏みしだくごとに、足元より秋冷の気がしんとあふれ出るかのごとし。
現地録音とか音楽などをクロスオーバーせず、沈黙の中でスライドショーを観照(鑑賞)するのがベスト、という結論に、妻共々達した。
世界が渦巻くシーンが本作にも登場するが、私の作品であることを示すサインであり、龍宮道の原理・螺旋のシンボルでもあり、さらには秘教的な深い意味も込められている。
◎世阿弥は言う。
能に、体・用のことを知るべし。体は花、用は匂のごとし。または月と影のごとし。体をよくよく心得たらば、用も自ずからあるべし。
そもそも能を見ること、知る者は心にて見、知らざるは目にて見るなり。心にて見るところは体なり。目にて見るところは用なり。さるほどに初心の人は用を見て似するなり。これ、用の理を知らで似するなり。能を知る者は、心にて見るゆえに、体を似するなり。体をよく似するうちに、用はあり、知らざる人は、用を為風と心得て似するほどに、似すれば用が体になることを知らず。これ、まことの体にあらざれば、ついには体もなく、用もなくなりて、曲風断絶せり。かようなるを、道もなく、筋もなき能といえり。(世阿弥『至花道』)
能では、体・用のことを知るべきである。体は花、用は匂のようである。または月と影のごとし。体をよく心得たなら、用も自ずから備わるものだ。
そもそも能を見る場合、深く体得している者は心で見、そうでない者は目で見る。心で見るところが体だ。目で見るのが用である。
したがって、初心者は目で見たままの用を真似しようとする。これは、用を成り立たせている根本の道理を知らないで真似ているのである。
能を知る者は、心で見るゆえに、体を似せようとする。体をよく似せるうちに、用も備わる。
知らない者は、用を作為的な芸風と誤解して似せようとするが、似せれば用が(偽りの)体になってしまうことを知らない。これは、まことの体ではないから、ついには体もなく、用もなくなって、芸が断絶する(成り立たなくなる)。このようなものを、道に外れた、道理も筋道もない能という。
世阿弥の言葉を借りて説明するなら、表に現われる技術が「用」。外からは伺い得ない秘めたる内面性が「体」。この体を「スピリット」と言い換えることはあながち間違いではあるまい。当然ながら龍宮道は、体に重きを置く。
「道もなく筋もない」者となることなかれ。
<2022.10.24 霜始降(しもはじめてふる)>