Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション3 第十回 新たな流れ

◎淵に潜みし龍が天へ昇るという春分の直前。3月17~19日の3日間、第8回龍宮会を楽しく執り行なった。
 いつも通り、その模様を記録した動画(一部)を分かち合う。地球調和の祈りに基づいて。

動画1 『自由組手1』 撮影:2023.03.18 於:天行院(広島)

フルハイビジョン画質 01分21秒

動画2 『自由組手2』 撮影:2023.03.18 於:天行院(広島)

フルハイビジョン画質 00分51秒

◎今回の龍宮会では、自由組手中、相手の攻撃が自分のすぐそばを勝手にどんどんすり抜けながら流れ去ってゆく、という奇妙な感じをしばしば覚えた。遠慮してわざと当たらないようにしているのではないか? と思ったが、皆、「遠慮などしておらず、当てるつもりでやっている」と言い張る。
 参加者の一人、佐々木亮君は次のような感想を後日、チーム・コミュニケーション・ツール上で述べていた。
「今回の組手では、先生と向かい合った感覚が大きく違っておりました。
 言葉にし難いですが、何かしようと意図した瞬間から、それが潰され無理筋になっていく感じで、何を試みても難しく感じました。
 もちろん先生のわざが毎回研ぎ澄まされていっていることもありますが、今回あまりにも先生に打ち込みづらいので、大きな違和感があり、自分が悪いのか気のせいなのか、疑問に思っておりました。しかし、他の皆さんの体験談をお聞きして、この不可思議な感覚を思いだし、やはりこれまでと違う何かが起こりつつあるのではないかと思います。」
 なぜ打ち込みづらいかといえば、答えはシンプルにして明快、「不断に波打ち続け、変化し続けているから」だ。  
 別々の方向から同時に攻撃してくるのに対し、自分ではそうと知らず・にもかかわらず、勝手に身体が動き、勝手にわざとなって、勝手に両者を制してしまっている・・・といった珍現象さえ、時折・勝手に、起こるようになり始めた。
 まるであらかじめ入念に示し合わせたごとく、術者である私と攻め手たちの動きが予定調和的に重なり合わさっていって、<わざ>が自ずからそのたいを成してゆくのだ。
 もちろん、これまで何度も述べてきた通り、事前にそのような動きを練修したわけではないし、打ち合わせすら、まったくしてない。
 あまつさえ(それどころか)、ああしたわざを私はこれまで習ったことがなく、多数相手の自由組手すら、武術修業において実際にやった経験がほとんどないのである。これは嘘や誇張ではなく、ありのままの事実だ。
 つまり、私は自分が知らない、できない、できるはずがない、想像したことすらなかった・・ようなことを、帰神(超意識、瞑想)状態にて、ごく普通に、当たり前のことのように、日常茶飯のごとく、今現実になしつつあるわけだ。
 私がいつも心がけているのは、「流心」ということだ。流れ・流れ続け、流れそのものと一体化することによって、自ずから顕われる自生自化じせいじかの境地。自生自化とは、自ずから生じ、自ずから変化する、自然の本質・性質を指す。
 古流剣術の極意の一つとされる無住心むじゅうしんとは、住むところがない心、つまり一ヶ所に留まる(住む)ことがなく常に移ろい続けるような流動的な心、すなわち流れ続ける心・・・に、ほかなるまい。
 それが<流心>だ。

◎目の肥えた皆さんは、ここ最近公開してきた一連の動画をちょっとご覧になっただけで、龍宮道がどんどん進化していっているのがハッキリおわかりだろう。それはもちろん大変結構なこと、ありがたいことではあるのだが、ヒーリング・アーツの一支流に過ぎぬ龍宮道ばかりにいつまでも偏って注力するのも、ヒーリング・ネットワーク復興2周年を経た今、いかがなものかと感じるようになってきた今日この頃・・なのである。
 あまりにも「武」に偏り過ぎれば、武道の専門的な学びを求めているわけでは決してない参加者各位の身体的負担も、相当なものとなろう。ハード過ぎて地球調和の祈りどころじゃなくなってしまっては、元も子もないではないか。
 というわけで、今後も龍宮道の探求は個人的に継続するけれども、これ以降は、本流たるヒーリング・アーツへと回帰することを決意した次第だ。この先、龍宮道が取り上げられるにしても、それは飽くまで「ヒーリング・アーツ」の中の「ヒーリング・マーシャルアーツ」として、である。
 冤罪による不当逮捕から、気づけば今年でちょうど10年。それ以前の「流れ」あるいは「サイクル」と、再びぴったり接続コネクトできた実感が、最近になってようやく味わえるようになってきた。
 人生の、修業上の、分かち合いのワークの、最も重要な時期の大半を失ったことになるが、過去のどの時点を顧みても、悔いは一点も残ってない。
 心も体も、晴れ晴れとしている。限りなく自由で、清々しい。常に水のように自在に、流れ、波打ち、巡る。
 その水としての「営み(波打ち、流れ、巡ること)」が、生命いのちを産み出し、活気づけるのだ。

◎龍宮道については別に新たなシリーズを設け、メモランダムのような形式で、その時々における断片的な情報をアーカイヴしてゆこうと思っている。そうした作業を通じ、龍宮道の全体像とディテールが自ずから明らかになってゆくことを期待している。
 今回の第8回龍宮会で撮った龍宮道関連の動画は、新シリーズ『龍宮道メモ』にて、近日中に公開開始予定。

◎シャーマニック・アート(シグネチャー・シリーズ)。
 呪術的・魔術的な超意識状態において、あたかも超越的存在による自筆サインのごとく、超越的に自顕してくる帰神アート作品群。龍宮道の身体運用原理を使って、一気呵成に描き上げられる。
 その最中、何が描かれつつあるのか、私は何も知らないし、何も関与してない。単なるパターンや模様として、スケッチブックの紙面を視野全体に収めているだけで、普通の意味では「見て」すらいない。にも関わらず、何らかの意思が描いたとしか思えないような、「意味」を備えた画像が、勝手に出来上がってくる。
 一体誰が、何のために、描いているのか? それは無意識とか潜在意識と呼ばれる心理的働きに過ぎないのか? または、芸術の本質としての魂の遊びなのか?? あるいは、これこそが、古来より<精霊>とか<神々>などと呼ばれてきた「現象」「体験」なのか・・・???
 私は知らない。
 誰にもわからない。自分自身ですらわからない。この不可知性を、岡本太郎は呪術と呼んだ。それは、人々の意識の奥底へとダイレクトに働きかける力だ。

シャーマニック・アート

写真右上は、「兎」文字シリーズの一舞。
クリックすると拡大(以下同様)

◎「せとか」の極上品を贈られた。

せとか

 近所で売っている「せとか」とどんな風に違うのか、実際に買ってきて食べ比べてみたのだが、まず外皮が薄くて緻密である。果肉の味も食感もかなり違う。甘さと酸味のバランスまでが違っていた。がさつさや粗さが感じられず、上品。ぎゅっと美味しさが濃縮されたような鮮烈な印象がある。
 百貨店の果物売り場で小分けにして売っている「せとか」も調べてみたが、値段が高ければそれなりに美味しい、というわけでは必ずしもないようだ。

◎第8回龍宮会終了に合わせたわけでもなかろうが、本シーズン食べ収めとなる松葉ガニが京都より届けられた。

松葉ガニ

◎普段滅多に食べることがないパスタもいただいたので、上記の松葉ガニを贅沢に載せた蟹パスタをこしらえてみた。トマトクリームにも蟹の身や蟹味噌をたっぷり使っている。

蟹パスタ

◎パスタシリーズ2。からすみパスタ。
 生と粉末、それからノーマルなカラスミ(スライス)をふんだんに使用・・した結果、ちょっとカラスミの風味が濃厚になり過ぎた。翌日まで口中にカラスミの苦味が残るようでは、「過ぎたるは何とやら」の好見本なり、などと揶揄されても致し方あるまい。

からすみパスタ

◎パスタシリーズ3。生ウニパスタ。
 前日の失敗にも懲りず、ただ生ウニを載せるだけでは飽き足りなくてソースにも塩粒ウニをたっぷり混ぜてみたが、あまりにもドミナント(支配的)となったウニ風味に少々辟易しながら、こういうのを成金趣味というのかなあ、なんて妙な考えがふと浮かんできたりもして、パスタシリーズもこれにて終了、である(呵々大笑)。
 ところで、パスタ料理の本質とは、決して「このようなもの」じゃない・・・と思う。

生ウニパスタ

<2023.04.01 雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)>