◎以前、チーム・コミュニケーション・ツール上で和息法と観の目をクロスオーバーすることについて話題になった時の記録をご紹介しておく。やや上級者向けの少し高度な内容だが、基本から注意深く修してゆけば、誰でも到達可能な境地だと思う。
東京で開催された龍宮会(2022.07.16)で、和息法を観の目に応用する修法を伝授していただきました。
一緒に参加した佐々木さんは、その効果を直ちに実感されていましたが、私はその時はまだよく分からなかったため、自宅に戻ってから検証いたしました。
しばらく行なっていくと、観の目の状態で視界の上下が明るくなっていく状態が現出しました。急にパッと明るくなるのではなく、徐々に変化していったため、佐々木さんが感じられた体験とは異なるかもしれませんが、練修の結果「観の目」が自然に深まったように感じられました。
正しい成果、結果が得られていないかもしれないので、観の目に和息法をクロスオーバーすることについてご教示願えればと存じます。
平川さんが書かれておりますように、東京での龍宮会において和息法が扱われた際、和息法の観の目への応用についてご教示いただきました。
具体的には、まず、何らかの眩しすぎない光源に視点を合わせて観の目にシフトします。
その状態で呼吸していきますと、呼吸と視覚が同調する感覚が出てきますので、それを使ってハミングを起こします(この際、観の目が崩れないように注意します)。
会場の照明を観つつ何度かトライしておりますと、ある瞬間に突如ライトがピカッ! と光量を増し、光の粒子がどっと眼球へと流れ込んでくるような感覚が生じました。
これまでに味わったことがない感覚で、そのインパクトに驚き、思わず声が出てしまったのですが、この実践後、観の目が普段よりもかなり深まり、思考も静まってまいりました。
和息法は様々な修法とクロスオーバーでき、その凄さを日々実感しておりますが、観の目に応用できるとは、想像もしておりませんでした。
その後、自宅でスライドショーを観つつ、この修法を行ないますと、やはり大きな違いがありました。
写真の解像度が増したように情報の密度と立体性が高まり、被写体が圧倒的な存在感をもって迫ってきました。
和息法を観の目に応用する際には、観の目にシフトした状態の眼球で呼吸を感じるよう意識するのでしょうか? それとも粒子的に意識した視線に呼吸を通わせるように意識するのでしょうか? それとも全く別のところでしょうか? その点につきご教示いただけますと、助かります。よろしくお願い申し上げます。
龍宮会(一般公開)参加者の中には、ある程度龍宮道を身につけた者もいれば、まったくの初心者もいる。それらの全員に対し、同じレベルでわざを説くということはできない。
観の目に和息法を応用することについては、まず観の目を身につけていなければならない。もちろん和息法もできる必要がある。
そして私が思うに、観の目×和息法においては、中国の南禅と北禅のように「頓悟(一気に悟りが起こること)」と「漸悟(段階を追って悟りへと至ること)」の違いが、修行者によって生じるのではあるまいか?
つまり、誰でも同じように突然ぴかっと光ったりするということではなく、人によっては「明るさが増す」程度の体験を重ねるうちに、確かに和息法が視覚にまでハッキリした影響を与える事実が体感的に確認できるようになってゆく・・のかもしれない。この件については、データが集まってないので、今はこれ以上詳しくわからない。
東前君が述べていたことについては、なぜそんな風に話を複雑にしたがるのかわからぬが、観の目で立体視の状態になっている、そこに和息法をクロスオーバーすれば、観えている世界そのものが呼吸とシンクロして張りつめたり、緩んだりするのが感じられるはずだ。そうなったら(息が視覚とシンクロしたなら)その息を使ってハミングを起こせば、息とシンクロした対象(視界)が振るえ始め、ほどけ、変化するのは、むしろ当然のことではあるまいか?
ご教示いただき、ありがとうございます。複雑に考えすぎておりました。今までのご投稿を参考に、観の目に和息法を応用してまいりたいと思います。
観の目と和息法とのクロスオーバーについて、日常の仕事や生活の合間に空や木々、ヒーリング・ネットワーク公式サイトの帰神写真作品などを対象に行なってまいりました。
特定の部分に焦点をあてて分析的かつ詳細に見ようとする「見の目」の場合は、眼球やその周辺に力が入るのが分かりやすいのですが、トータルに全体を観る「観の目」では全身が「観る」という行為に関わっており、筋肉や腱などと違って当初は息による張りを意識するのが難しく感じていました。
開き直って観の目の状態で全身を意識し、呼吸によって起きている変化を感じ取っていくと、吸う息と吐く息により視野にある種のゆらぎが感じられるようになったので、その連動を意識していきました。
そうすると、ハミングによって視界が粒子的にビリビリ震えるのが感じられるようになり、終わった後は木々の緑や空の青さ、雲の白さや陰影がよりくっきり鮮やかに感じられることが増えてきました。
帰神フォト作品については、昨年ぐらいから急速に観照が進んで、「観よう」とする前からもう立体的に浮かび上がって、向こうから目に飛び込んでくることをしばしば体験しているのですが、和息法とクロスオーバーするとよりくっきり鮮明に、そして高い情報密度で立体的に観えてくるのが感じられます。
先日、見るともなく漠然と前方を見つつ移動している時に、自分の目が円く柔らかく自然に観開かれて 眼に飛び込んでくる光を心地よく受け容れている状態になっているのが突然感じられ、日に数回、継続的に執り行なってきた効果が実感できました。
昨夜、改めて観の目×和息法をやってみた。
すると、やはり光る。頭の上にまぶしい光源があるみたいに(実際には何もない)明るくなる。よくよく観察すると、頭の上ではなく、頭の中(脳の中心あたり)が光っているようだ。
平川君が以前、視野の上下が明るくなった感じがする、と述べていたが、見の目から観の目にする際、上下の方向性を特に意識しているとそうなるのだろう。今度は左右を意識してみれば、左右が明るくなるはずだ。そうやって全方向が意識できるようになれば、「明るさ」の感覚がリアルにわかるようになってくる。
観の目×和息法の実践に取り組んでいます。
観の目の状態を作り、観えている世界が呼吸とシンクロしているのを確認してからハミングを起こすと、少しずつですが視界の明るさが増していきました。視野は180度もしくはそれ以上広がりをもって観えている感じで、ハミングを起こしている間は腰の辺りが意識化されてくるのも感じられました。
観の目の状態にする際は、上下だけでなく左右も含め、全方位を意識するよう取り組みましたが、本日の実践ではハミング中に一瞬閃光が走った時があり、おそらくこれがピカッと光る状態ではないかと感じました。引き続き取り組ませていただきます。
補助修法を一手。
暗い部屋でロウソク、あるいは小さな電球と1~2メートル離れて向き合い、目から光源への方向性をよく感じ取る。それが感じ取れたら、掌芯(掌の中央のへこみ)を凝集。すると視線の方向(向き、流れ)が強調される。そこで掌芯をレット・オフ。静中求動で自ずから反転が起こるに任せる。
こうすると、これまで目から光源へ、と向いていた意識の方向性が完全に反転する。つまり、光源から目へ、という流れが起こってくる。そして、目からさらに身体の内面(裡)へと光が流れ込んでくる。実は、これこそ、我々が「みる」時、常に起こっていることなのだ。
この時の光の感覚は、ただ単に明るいとか光るとか、そういったものじゃなく、光の本質のようなものが生理的・神経的に「感じられる」。「みえる」というよりは「感じられる」。
ロウソクに火をつけ、部屋を暗くして、目から光源への方向性をよく感じておいて、掌芯を凝集→レット・オフすると、光源から目へ、目から身体の内面へと光が流れこんできました。「光の本質のようなものが感じられる」との先生のご教示を思いおこしつつ、光の流れを感じ続けておりました。
ロウソクの光が揺れてゆらゆらと揺れるのにともない、目の内面を光の粒子が移動していくような感覚を覚え出しました。
さらに続けていると、光の粒子が波動として光源から四方八方に放たれているように感じられてきました。
その粒子を感知する器官(網膜でしょうか?)が光の粒子の動きを捉えていて、しかも光は波動状に光源から放たれ続けていると感じられてくると、光というものに対する認識が一変するかのようでした。
光は波であり粒子でもあるとの説明は、前に何度か読んだことがあるのですが、全く理解できませんでした。改めて振り返ると光を静止した一本の棒のように仮想していたのだと気づきました。
光が粒子の波動(縦波)であると感じられたことで、光について、知識ではなく体験による理会が深まったと感じました。
和息法をクロスオーバーしつつ、ロウソクの火を観続けていると、暗闇に放たれる微細な光の粒子が感じられて、時間を忘れて興味深く火を観ることを楽しんでおりました。
ご教示いただき、誠にありがとうございます。
小さい電球を使用し、1.5mくらい離れたところに座り、目から電球の光への方向性を感じ取って掌芯を凝集すると、視線の方向性が確固たるものとなりました。
そして凝集した掌芯をレット・オフすると、身体が緩み受動的な状態になるとともに、電球の光が目に向かって押し返されてくる感覚となりました。その光を受け入れていくと、光のエネルギーが充填されるかの如く、身体内が充実していきました。
エネルギーと安易な言葉で表現してしまいましたが、再度電球の光と向き合って、掌芯の凝集→レット・オフにて光を受け入れていくと、光の本質は視覚で感じる云々ではなく、東前さんも書かれていましたが、波のようなものに感じられました。
暗い部屋で、ロウソクに火をつけて執り行わせていただきました。
目から光源への方向性をよく感じ、掌芯を凝集し、レット・オフしますと、目から光源へという方向性が反転し、光源から目へと光がスーッと入ってくるような感覚になりました。
光源を「見て」いるときは目に力が入って、見続けることに疲れを感じてしまいましたが、レット・オフで反転した途端に目の力がスッと抜け、いつまででも楽に「観て」いられるように感じました。
また、外側にあるロウソクの火を観ているのですが、身体の裡側にもロウソクの光が感じられ、内面がロウソクの光に照らされているような感覚になりました。
ロウソクと向き合った観の目について取り組ませていただきました。
掌心の凝集と自分の「見る」ということがしっかりリンクしているのを確認するのに時間ががかりましたが、何度も繰り返していると自分がロウソクの光を見るという意識、方向性、流れが感じ取れるようになっていきました。
そこから掌芯をレット・オフしていくと、自分が見ているのではなくロウソクの方がこちらを照らしている、と主客が切り替わり、心身の裡・外の両方が光と熱に照らされ満たされていきました。
光と熱、と書きましたが、光だけでなく小さなロウソクの炎のあたたかさもわずかに、しかしはっきりと感じられるのが不思議でした。
再び掌心を凝集すると、意識が眼球周辺まで集まり、そこから外界のロウソクに向かって見るという方向に反転し、そうすると感じていたかすかな熱が薄れて消えていきます。
暗くした部屋で、電球の光源の方向を感じ、掌芯の凝集とレット・オフを行ないました。
自ずから反転が起こると、光源のほうがこちら側を照らしているように感じられてきました。
掌芯の凝集も、右手、左手と左右で執り行なったのですが、視線の方向のみならず、腰の内側などにもレット・オフの感覚が拡がるのが感じられ、また光源も最初は明るい感じだったのですが、次第にその質感は輝きを伴っているように感じられてきました。
<2023.04.21 葭始生(あしはじめてしょうず)>