◎カンボジア、アンコール・ワット。
龍蛇神ナーガの彫像が守護する環濠に架け渡された参道を通って、乳海撹拌などのヒンドゥー神話が細密に彫り込まれた回廊へとそっと足を踏み入れる。
幾重にも重なる回廊を巡り、龍宮の舞姫アプサラたちのレリーフに誘われるように夢心地で進んでゆくうち、急峻な石段の下へたどり着く。
人間のために造られたものとは到底思えぬ急勾配をなすその石段を昇り降りする際には、おのずと這いつくばるような低姿勢とならざるを得ない。たとえ、それが王であっても。
その先にある祠堂は、かつてクメール王朝華やかなりし頃、代々の王が毎年、特別な日の夜に、龍宮の女神と密会し、神聖な性交密儀を執り行なったとされる至聖所だ。王は龍宮の女神と聖なる契りを交わすことによって、神意に基づき国家を統治する権限を拝受したのだ(神権統治)。
そうした聖婚の実例は、古代メソポタミアのバビロニアやシュメールにまで遡ることができる。日本の天皇も、即位に際して同様の聖婚儀礼を執り行なっていたようだが、主権が国民に移った現在では、ただ形骸のみが空しく残っている。
アンコール・ワットは、龍宮へのゲートウェイとして機能するべく建立された寺院なのだ。
アンコール・ワットを巡りながら意識を超越的次元へとシフトさせる・・・・と、生々しいリアリティを伴いながら鮮烈なイマジネーションが次々とわき起こってきて、複雑に交錯し、絡み合い、年代記のごとき壮大な物語を織りなし始める。
官能をくすぐる高貴な伽羅(香木)の香り。
美しい女神のたおやかで豊満な肢体が、篝火に照らされて妖艶に揺らめく。宝石のようなきらめきを発して息づき、うねる蛇紋。
◎唐突だが、真剣に想像してみていただきたい。
あなたが理不尽な冤罪で、有無を言わさず刑務所へ送られたとする。自分は絶対に悪いことなどしてない。にも関わらず、地獄のような退屈で無味乾燥な毎日が、延々何年も何年も(あるいは何十年も)ずっと続いてゆく。そうした状況下で、あなたはこの世界というものをどんな風に感じるようになるだろうか?
「自分は悪いことをしてない」だけでなく、「これまでずっと正しいこと、人の役に立つことをしてきた」という強い確信があなたにあるとする。にもかかわらず、無実の罪を強大な国家権力によってでっち上げられ刑務所へ行かされるということ、それはあなたの裡にいかなる感情を呼び招くものだろう?
こうした問いかけは、聴き手が真剣に傾聴して誠実に自分自身のこととして感じてみようとしないことには、まったく意味を成さない。
◎冤罪で刑務所に入って以来、モーツアルトの有名なオペラ『魔笛』の一場面、『夜の女王のアリア』の歌詞がしょっちゅう脳裏をよぎるようになった。今でも、時々それが起こる。
Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen,
Tod und Verzweiflung flammet um mich her!
地獄の復讐心がわが魂に煮えたぎる、
死と絶望がわが身を焼き尽くす!
Verlassen sei auf ewig,
Zertrümmert sei'n auf ewig
Alle Bande der Natur.
永遠に見捨て、
永遠に粉々に打ち砕く
すべてのあるべき絆を。
Hört, Rachegötter,
・・・聴け、復讐の神々よ・・・
我ながら、手の込んだ・・・妙な怒り方をするものだな、とは思う(呵々大笑)。それに、今確認のためインターネットで関連動画を観てみたのだが、思わず大笑いしてしまった。物凄い呪詛の言葉の羅列ではないか。
人を呪わば穴二つ、と言うが、確かに、呪う者は呪われる(呪いが自分自身に跳ね返ってくる)のである。もちろん、誰かを意識的に呪ったことなどこれまで一度もないが、無意識的な呪縛の鎖から、私はまだ本当には抜け出ることができてないのだろう。
心を解き放たねばならない。
冷えきった、寒々とした心で生きてゆくのをやめ、明るく温かな世界へ戻るのだ。
それを現実に可能とする方法、私が知る唯一の実効ある方法は・・・レット・オフ以外にない。
レット・オフを人に勧める前に、まずは自分自身がレット・オフを徹底的に突き詰め、実践する必要があることを痛感する今日この頃である。
◎ちょっとしたつまらないことだが、こうして執筆していてふと思い出したことがあるので、せっかくだから書き記しておく。
以前、「鮮血の手形」シリーズを制作するため血がたくさん必要になり、それだけの血を得るには指先を刃物で斬るくらいでは到底間に合いそうにないので、医師の友人に頼んで注射器で瀉血してもらったことがある。
血を抜いている最中、何気なく腰腹同量の中心力を軽く造ってみた。すると、注射器がまったく引けなくなるというではないか。中心力を開放、たちまち前の通り滑らかに注射器が動く。再び中心力、直ちに注射器は凍りついたように思いきり力を込めてもびくともしなくなった。
腰腹同量の中心力とはいかなる作用なのか、このエピソードはそれを指し示すヒントの一端だ。
◎尊敬する人の得意料理とか好きな食べ物について聴くと、実際に作って食べてみたくなる。その人の人間性を、さらに深く感じることができるからだ。
写真は、岡本太郎が得意としたというタルタル・ステーキ。
「ひどくナマなものが食べたくなることがある。パリで、生肉を食べる習慣を発見したときは新鮮な感じがした。
タルタール風のビフテキと呼ぶ。夏、身体が消耗する時分はまことにうまい。口当たりもさっぱりしている。
牛肉の赤身か、馬肉でもいい。ひき肉をちょうどハンバーグステーキのような形にして、真中をくぼめ、生卵の黄身をのせる。玉葱のみじんに刻んだの、それにケパーという酸っぱい実、サラダ・オイル、辛子、塩、胡椒等、調味料を適度に混ぜ合わせて食べる。」(岡本太郎『疾走する自画像』みすず書房)
◎以前私はHN1(ヒーリング・ネットワーク1)のどこかに、「もし岡本太郎が、南の島の珊瑚礁でシュノーケリングする楽しみを知ったなら、きっと大喜びしたに違いない」、と記したことがある。ところが今回、上述の『疾走する自画像』(2001年刊)を再読していたら、「海の強烈な思い出」について太郎が語っている文章を発見した。
「もう大洋を越える旅行もしたし、海にはなじんでいたのに、意外だった。ああ、海がこんなとは。・・・・あまりにも透明な、何ともいえぬ不思議な青の、微妙な彩りのまざりあい。紺碧、緑、あるいはねっとりと白い。エメラルドグリーン、あらゆる諧調。それがまた気候、日ざしにより、時刻によって無限に変貌する。
まったく超現実のイメージだ。わが国にもこのような神秘の彩りがあるのか、と強いよろこびを感じた。」
「私はスキンダイビングで、この海の中に身を沈めたことがある。夢のように展開する珊瑚礁の上を泳ぎまわった。またまるで水がないのではないかと思われるほど透明で、水底が明るく輝いた海に舟を浮かべて、底にはったガラスからのぞいて見た。自分が水の上にいるのか空中をさまよっているのかわからない。無際限の境に浮遊する素晴らしい感動だった。
そしてあの透明な感じが、沖縄の人の心にも染み渡っている。」(『疾走する自画像』)
◎沖縄の八重山地方でよく食べられるカマイ・チャンプルー。現地でカマイと呼ばれるリュウキュウイノシシと野菜のシンプルな炒め物。豚肉にはない、野趣溢れる濃厚で豊かな旨み。
本土のイノシシと比べると小ぶりとされるリュウキュウイノシシだが、以前西表島の友人が飼っていた大きなオスは「巨大」と言っていいほどのサイズだった。
ある時、大型台風が西表島を襲い、あまりの強風で上述のイノシシを飼育していた小屋が全壊してしまった。そのまま逃がして近所の畑などを荒らし迷惑をかけるよりは、と友人はイノシシを殴り殺すことを決意、手近にあった重い鉄パイプをそっと手にして背後に隠した。
そうと知ってか知らずか、自由の身になったイノシシがのんびり歩いてきてすれ違おうとした瞬間、鉄パイプを思いきり頭に打ち込んだが(その人は100kgのバーベルを持ち上げる力があった)、相手は何事もなかったかのように悠然と歩き去っていったという。
<2023.05.24 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)>