文:栁田 豊
編集:高木一行
(前回からの続き)
袴田秀子さんと袴田弁護団が再審を訴え続け、第一次再審請求は棄却されましたが、第二次再審請求を2008年に起こし、2014年に静岡地裁が再審開始を決定。袴田巖さんも、特例中の特例として釈放が認められた。・・・ここまでを前回述べました。
ちょうどこの頃、高木先生の冤罪事件(2013)をきっかけとして私も冤罪問題に関心を持つようになり、静岡市の弁護士会館で相談したら袴田事件の再審に取り組む皆さんを紹介されました。
ここからは、私・栁田が、袴田巖さん・秀子さんを支援する活動と関わってゆく中で実際に体験したり、見聞したことなどを交えつつ、巖さん釈放から現在までの流れを概括したいと思います。
「袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会」(以下、「救援する会」と略称)が静岡市清水区で毎年1月と6月に開催している集会があると知り、出かけてゆきました。
その集会に袴田秀子さんが出席されていました。何十年も弟の無罪を信じ、再審実現と無罪獲得のため戦い続けてきた人のスピーチを直接聴くことができて感動しました。
80代でも毎日ヨガを実践し、まっすぐな姿勢で、笑顔を絶やしません。出席されている皆さんも、秀子さんの明るさを愛しているのが感じられました。
「救援する会」事務局長の山崎俊樹さんとも知り合いになり、翌年の正月には浜松にある袴田邸へのご挨拶に同行させていただき、その際、巖さんともお会いすることができました。
浜松駅から歩いて15分くらいの距離にある邸宅は、巖さんが釈放された時に迎えることができるようにと、秀子さんが50代でローンを組み、建てたものだそうです。
玄関の表札を見て、驚きました。「袴田 HAKAMATA」と書かれていたからです。
「ハカマタとお読みするんですか!?」
山崎さんは、「そうだよ」と言ってうなずきました。
テレビのニュースなどではいつも「ハカマダ」と発音しており、
警察や検察は「自分たちに落ち度はない」と主張してきたのに、皆、名前からして間違えているのか・・・。
これはかなりショックでした。以来、私は「はかまた」と発音するよう心がけています。「はかまだ」と発音したら、警察・検察の誤りを承認してしまうことになると感じるからです。
そして、秀子さんに迎えられ、巖さんと初めて対面しました。
巌さんは、一言も口にされませんでしたが、穏やかな表情でした。
支援者の皆さんと共に、賑やかなひと時を過ごしました。
巖さんが釈放されてからは、浜松の秀子さんの自宅で暮らすようになり、日中は浜松のあちこちを散歩するようになりました。
秀子さんは、長い間拘置所で不自由していたのだから、好きにさせたいとおっしゃいます。
しかし、巖さんは長い間収監されていましたので、収監前の浜松とは街並みも大きく変化していますし、何より高齢ですから、何かあった時を考えると巖さん一人では不安が残ります。
そこで、浜松市で無農薬・無肥料農業に取り組む猪野待子さんが「袴田さん支援クラブ」を立ち上げ、巖さんの散歩にメンバーの皆さんが交代で付き添うようになりました。
毎月第三土曜日に、浜松復興会館で集会を開いて、「今月の巖さん」を映像で紹介したり、袴田事件について、あるいは冤罪問題や死刑制度問題についての講演会を開催されています。
地元の浜松市民の皆さんが、関心を持って出席されています。
私が浜松の袴田邸を初めて訪れた一年後、清水の集会に参加し、トイレに行ったら巖さんがいらっしゃいました。巖さんは浜松を出たがらず、特に悪い思い出がある清水は避けていると聞いていたので驚きましたが、あわててご挨拶しました。
しかし、巖さんはこちらに何の関心も示されません。拘禁症状(狭いところに長年閉じ込められることで、幻覚、妄想、混乱が起こり、他者との意思疎通ができなくなる)とは聴いていましたが、ここまで目の前にいる人間に無関心でいられるものなのかと驚愕しました。
以前、お会いした時の穏やかな表情は、姉である秀子さんの家の中だから比較的リラックスしていただけだったのです。
ロビーでは、支援者の方々が巖さんとどう接したら良いのか戸惑っていました。何を言っても何の反応もないのですから。
誰かが「巖さんは将棋がお好きだから」と将棋盤を持ってきました。すると、巖さんが関心を示し始めたように見えました。
となると誰が対戦するのか・・・ですが、誰もが尻込みしているようです。特に、静岡県民はこういう時、前に出たがらない傾向が強いです。
それなら、と私が対戦することにしました。駒を並べたところで秀子さんがやってきて、巖さんに「食事にしようか」と声をかけました。
すると、巖さんは断固とした口調で「やんにゃー、しょんないらー!!」とおっしゃいました。遠州弁で、標準語に直せば「やらなければ、しょうがないだろう」といったところでしょうか。
巖さんの顔つきが、闘う男になっていました。そして、果敢に攻めてきて、こちらの王将を取ろうと防御を崩しにかかってきました。
ものすごい気迫で、さっきまで無関心だった人が、どうしてこうも熱を込めているのだろうかと、不思議というより異様に思えました。
相手は、袴田巖さんです。訳も分からず逮捕され、拷問を受け、理不尽な裁判で死刑判決を受け、長い年月、いつ死刑執行されるかと恐怖に震えながら拘置所に監禁されていた人です。
攻防を重ねているうちに、「この人はどれほどの地獄を見てきたんだ」と背筋が冷たくなるのを感じました。
死刑囚にとって、職員の足音ほど恐ろしいものはないといいます。死刑囚には死神のお告げだからです。周りの独房の死刑囚たちが次々に連れていかれ、決して戻ってこない。それを見て、「次は俺か・・・」と恐怖の日々を送ることになるのです。
おそらく、その死の恐怖を忘れることができるのは、時折許される将棋に没頭している時だけだったのではないでしょうか。
そのように思い至った時、死刑制度の残酷さを強烈に感じました。
私が巖さんの境遇だったら、到底耐えられないと実感しました。私だけでなく、どんな熱心な死刑制度支持者でも耐えられないはずです。
「自分の家族が殺されても、死刑制度に反対なのか?」と死刑制度支持者によく言われましたが、自分の家族が殺されたからといって、無実の人を地獄に突き落としていいことにはならないはずです。
対戦を終え、集会の会場に赴き、演壇に立たせていただいて、70人くらいの出席者の皆さんに問いかけました。
「皆さんの中で、死刑制度を支持されてる方は手を挙げてください」
誰一人手を挙げませんでした。
「反対の方は?」
全員が手を挙げました。
日本では8割の人が死刑制度に賛成とされていますから、その確率からいえば会場にいた人の8割は死刑に賛成のはずです。しかし、誰一人いなかったのですから、死刑制度支持者はここに来ていないことになります。袴田巖さんという「現実」から目を背け、逃げているわけです。
逃げていたのでは、死刑制度の問題点を直視できないし、対策の立てようもありません。
冤罪の人を死刑執行したら取り返しがつかないのだから、賛成派は反対派以上に冤罪問題に熱心に取り組むべきであるはずです。しかし、死刑制度支持者は「死刑制度と冤罪問題は、分けて考えるべきだ」と言って、冤罪問題から目をそらそうとします。
ここに、冤罪問題がなかなか解決されない一因があると言えます。
平成30(2018)年、袴田巖さんの支援者の皆さんはかなり焦りを感じているようでした。
最初に述べたように、2014年の3月に再審開始が決定となり、巖さんが釈放されたことに対し、検察が東京高裁に抗告しました。弁護団はDNA鑑定などの結果を提出し、高裁の判断が6月に下されることになっていたのです。
「救援する会」事務局長の山崎さんが、静岡市中心街の青葉町で、高裁が再審を否決しないよう訴えるビラ配りをすることになり、私もお手伝いしました。
6月の暑い日差しの中、「お願いします」と声をかけるのですが、99%の人は無視して通り過ぎていきます。私とて、冤罪問題に取り組むまでは同様だったので、文句を言える筋合いではありませんが。
でも、この人たちは、自分の家族が冤罪被害者になったら「助けてください」と言うはずです。そう考えると、やはり身勝手な人たちと思えてきました。
目の前を一人の老人が通り過ぎようとしました。袴田事件当時、おそらく成人していたはずです。
私は彼の背中から声をかけました。
「袴田さんを見殺しにするのですか?」
すると、彼は顔を真っ赤にして「そんなことは言っとらん!!」と怒鳴りました。
見殺しにしないのなら、無視せずにビラの1枚くらい受け取れば良さそうなものですが。それに、怒鳴られても、巖さんのあの気迫に比べたら何ということもありません。私も、ふてぶてしくなったものです。
少し離れたところで、「献血」の旗の下で青年が声を張り上げていました。こちらも、大半の人たちから無視されているようです。
彼が汗だくになって懸命に叫んでいる姿を見て、なんとなく共感するものを感じ、声をかけることにしました。
「私も献血に行くよ。こちらも命がかかっているから」と、手に持ったビラを渡しました。
青年は「ありがとうございます。袴田さんのこと、大変なんですね」と、こちらに最大級の敬意を払ってくれました。
それから案内された赤十字の会場へ向かい、献血の手続きをしながら職員の方にもビラを手渡すことができました。
腕に刺されたチューブから血が流れていくのを見て、何とも言えない気分になりました。
「ビラ配りも大変だ。文字通り血を出すことになるとは」、と。
その翌週、東京で「あすの会」の解散式が行なわれると聴いて出向きました。「あすの会」は、裁判における被害者の権利のために活動してきた犯罪被害者の団体で、「救援する会」事務局長の山崎さんも一目置いていました。
ただし、彼らは殺人事件の被害者遺族で、死刑制度の維持を強く訴え、反対派を非難している人たちでもあります。
ネットでは、「死刑制度に反対する者は、殺人事件の被害者遺族から逃げる奴らだ」という声が無数にあります。
それなら、こちらから出向いてやろうではないか。
こちらからも彼らに言いたいことが山ほどあります。解散式というのですから、この機会を逃すわけにはいきません。
脳内で巖さんのあの一言が響きました。
「やんにゃぁ、しょんないらぁ!!」
当日は、大きな会場に何百人もの人々が詰めかけていました。
「あすの会」の顧問弁護士が登壇し、演説を始めたのですが、何を話すのかと思えば、「日本人は仇討ちが好きだ。年末になったら忠臣蔵を見るではないか」、と。
これを聴いて、仰天しました。
まさか、弁護士が仇討ちを完全肯定するとは。
聴けば、この弁護士は元々死刑廃止論者だったのですが家族を殺人事件で殺されてから死刑存置論者に転向したそうです。
それでは、自分の家族が冤罪で死刑になったら、また死刑廃止論者になるのでしょうか。
忠臣蔵は、浅野内匠頭という傷害事件の「加害者」の家臣たちが徒党を組み、吉良上野介という傷害事件の「被害者」の屋敷に殴り込みをかけて、大勢の死傷者を出しながら吉良上野介を殺した話です。内匠頭を切腹させたのは幕府なのだから、赤穂浪士たちがどうしても仇討したいと言うなら、将軍や老中の首を狙うべきでしょう。
300年以上前の武家社会では、赤穂浪士たちの行動は「忠義の道」とか「義挙」などと称えられたのかもしれませんが、現代では到底共感できないことです。
あなたが誰かに刃物で傷を負わされ、加害者が傷害罪で罰せられたとします。その知らせを加害者の家族や友人たちが知って、「なんでこちらは処罰されて、向こうはお咎めなしなんだ」と不満に思い、徒党を組んで、夜中にあなたの家に殴り込みをかけたら、あなたは彼らの行動を許せるでしょうか?
即座に警察を呼ぶでしょう。あなたが赤穂浪士の子孫だとしても。
でも、「あすの会」の顧問弁護士は、この忠臣蔵を死刑制度を正当化する根拠にしているのです。
「あすの会」と言いながら、過去に縛られているように感じました。歴史家の磯田道史氏(1970~ 国際日本文化研究センター教授)が、「日本には、現在でも江戸時代からの束縛がある」と発言していましたが、その通りのようです。
多くの来賓の中に、法務大臣・上川陽子氏の姿もありました。
犯罪被害者遺族の皆さんが大変な思いをされたこと、裁判で自分たちの主張が軽視されたことや、それを改善するため活動されてきたことに敬意を払い、これからもその思いを受け継いでいきたい、と述べていました。
会場の多くの人が感銘を受けていたようですが、私は冷ややかな思いで聴いていました。
袴田弁護団の弁護士である小川秀世さんは上川氏に対し、「高等裁判所が再審を決定しても、検察が抗告して妨害することになるだろうから、その時は法務大臣として検察を止めるべきだ」と訴えていたのですが、何の反応も示さなかったそうです。
お二人とも静岡市の中心街に事務所を構えているのですが、すれ違いになっているようです。
上川氏の著書を読んでみると、「司法の国際化を」と述べています。しかし、静岡市選出なのに袴田事件については何一つ書かれていませんし、取り調べの可視化や弁護士の同席などの冤罪対策についても、一切記述がありませんでした。
日本は国連の拷問禁止委員会から「中世レベル」と酷評されるほどの冤罪大国と評されているのに、これでどうやって国際化を図る気なのでしょうか。
なお、著書の題名は『難問から、逃げない』です。
私は「あすの会」で出会った人たちに、「あなたたちは死刑制度を支持しているのだから、反対派以上に冤罪死刑囚のために行動すべきであるはずです。袴田さんのために行動してください」と訴えましたが、皆、気まずそうに目をそらしました。
結局、死刑制度の支持者は冤罪問題から逃げるしかないようです。なにしろ、被害者遺族からして逃げているのですから。
考えてみれば当たり前の話で、死刑支持者たちは殺人事件の被害者遺族に対し「あんな奴、死刑にするのは当然です」などと言って正義の味方気分になれます。
でも、袴田家の人たちの前では、自分たちが死神なのです。
そういう人たちが日本人の8割を占めていて、冤罪問題から目をそらし続け、主権者が無関心なので政治家などの公僕も行動を起こそうとはしません。
「あすの会」に出向いて、改めて冤罪問題の根の深さを思い知りました。
その後、東京高裁は再審請求を却下しました。
私と話したうちの一人から、「高裁が否決したことにショックを受けました」という電子メールが届きました。
そして、翌7月にオウム事件の主犯13名が死刑執行されました。
上川氏は歴代法務大臣の中で、死刑執行人数の最多記録となり、注目を集め、死刑支持率8割の日本国内では人気を高める結果となりました。
現在は外務大臣となりましたが、この実績が、人権問題に厳しい目が注がれる国際社会で、どのような事態を招くのか気になるところです。
東京高裁で再審請求が棄却された後、袴田弁護団が最高裁に上告したところ、東京高裁に差し戻されることとなり、令和5(2023)年3月13日、ついに東京高裁が「5点の衣類は捜査機関による捏造の疑いがある」として再審開始を決定。翌週、検察も抗告を断念しました。
その直後の支援集会に出席したら、顔見知りの支援者の方々が満面の笑みで私を迎えてくださり、胸が熱くなりました。
今までの支援集会とは比較にならないほどの報道陣が押しかけ、私は演壇近くに着席していたため、カメラのフラッシュに目が眩みました。
やっと、再審が現実になるのだ、と実感しました。
検察は巖さんの無実を頑なに認めようとしないまま、再審に臨むこととなりましたが、さすがに拷問同然の取り調べ記録は証拠として使用しないとのことです。
袴田弁護団の小川秀世さんによると、「検察は死刑判決を守るのはすでに諦めていて、ただ5点の衣類が検察の捏造ではないことを主張したいだけだろう」とのことです。
再審の日程を決める際の面談では、秀子さんによれば検察官たちは、ずっと下を向いていたそうです。
そして、今年10月から再審が開始されました。その時の映像をインターネットで見ることができますが、巖さんは拘禁症状のため出廷は免除され、秀子さんが御年90歳にして代理で出廷しましたが、その態度は実に堂々たるものでした。一方、正義の味方であるはずの検察官たちはマスクで顔を隠していて、どんな表情をしているのかすら、確認できませんでした。
検察官も裁判官も公僕です。
公僕とは、主権者のために、主権者から託された権限を行使する人たちのことです。
彼らが誰かを死刑にしたとしても、それは主権者から了解を得た上でのこと、ということになります。
だから、巖さんのような冤罪死刑囚が出た場合、よほど明確に抗議しない限り、死刑判決を私たち自身が承認したことになってしまいますから、主権者としての自覚が問われるところです。
不自然で不合理な点がいくつもある袴田事件の再審を始めるという、たったそれだけのことを決めるためでさえ57年もかかった事実が、日本社会の暗い現実を示しているといえるのではないでしょうか。
結審は令和6(2024)年度になるとのことです。
最後になりましたが、本稿作成にあたり、袴田巖さん、秀子さんはじめ、弁護士の小川秀世さん、山崎俊樹さんと『袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会』の皆さん、猪野待子さんと『袴田さん支援クラブ』の皆さんのお世話になりました。
ご協力に感謝いたします。
栁田 豊
<2023.12.21 鱖魚群(さけのうおむらがる)>
追記(栁田 豊)
2024年1月16日、公判があって静岡地方裁判所に行き、袴田秀子さんや「救援する会」会長の山崎さんたちにご挨拶してきたのですが、傍聴希望者多数で抽選となったため、今回も法廷に入れませんでした。
記者会見が開かれるまで、山崎さんより色々お話があったのですが、その一環で、法廷で提出された被害者の焼死体写真を見せてくださいました。
これは開示請求して得られたものですが、もともと小さな写真だったものを、デジタル処理して鮮明化して拡大すると、遺体のあちこちにロープが見つかったのです。つまり、被害者たちはロープで束縛された状態で殺害されていたのです。
おそらくは、被害者の専務が暴力団と深刻なトラブルを引き起こし、見せしめとして一家4人が縛り上げられて惨殺され、紅林組の刑事たちは暴力団と癒着していたため袴田巖さんを無理やり犯人にでっち上げたと考えられます。
山崎さんによると「これらの写真は法廷では、裁判官と検察と弁護人だけが見て、傍聴人たちには隠されるんだけどね」とのことで、まさか法廷に入れなかったから生々しい焼死体の写真を見ることになるとは思いもよりませんでした。
おぞましい話になってしまいましたが、これで巖さんの単独犯説は事実上、立証不可能になったと言えます。1人で一家4人を縛り上げられるわけがないですから。
弁護団、支援者の皆さんは、よくぞこれほどの証拠を手に入れたものです。
逆に言えば、警察と検察はこれらをずっと隠し続け、裁判所は彼らと馴れ合っていたことになります。
2024.01.17記