Healing Discourse

ヒーリング・リフレクション3 第三十七回 袴田事件(前編)

文:栁田 豊
編集:高木一行

◎1966年に静岡県で一家4人が惨殺された、いわゆる「袴田事件」の裁判やり直し(再審)が、2023年10月27日にようやく始まった。TVやラジオのニュース等でしきりに報道されていたようだから、ご存知の方も多いだろう。
 強盗・殺人・放火犯の濡れぎぬを着せられた袴田はかまたいわお氏は、半世紀近く(48年)を檻の中で不自由に過ごし、そのうち34年間は死刑囚として、いつ命を奪われるかわからない不安と恐怖に日夜苦しみ続けたのだ。
 にもかかわらず、事件発生から今回の再審開始までに要した年月は・・・何と57年だ! 
 冤罪である可能性が高いのですから、どうか裁判のやり直しをお願いします。人の命がかかっていることですから・・・と多くの人たちが再審請求を求めに求め続けて、その願いがようやく聴き入れられるまでに約33年。そして実際に再審が始まるまでさらに9年。再審は裁判をやり直すことなので、無罪を勝ち取ったわけでは、まだないということも忘れてはならないだろう。
 私たちが暮らすこの国では、一体、何事が起こっているのか。

◎袴田氏の実姉である袴田秀子さん(現在90歳)は、弟の無罪を信じて地道な救援活動を続けると共に、他の冤罪事件にも強い関心を持ち、私の冤罪裁判中も支援者の一人として力強い激励のメッセージを送ってくださった。
「・・・頑張れ。ずっと頑張って、力つけていこう。それがいいと思うよ」(袴田秀子さん)。
 心の底より感謝を捧げるものである

袴田巖さん、秀子さん

現在の袴田巖さん、秀子さん姉弟。猪野待子さん(『袴田さん支援クラブ』代表)提供。

 長年ヒーリング・アーツを学んできた栁田やなぎだゆたか君(流心会メンバー)は、私の冤罪事件をきっかけとして日本の司法制度が抱える暗闇へ目を向けるようになり、袴田氏と同じ静岡県出身・在住ということもあって袴田事件の再審開始と無罪判決を求める支援運動にずっと携わってきた。
 事件発生から今日こんにちまでの経緯を、栁田君が実体験も交えつつ簡潔にわかりやすくまとめてくれたので、前編・後編の2回に分けてご紹介したい。
 後編では、栁田君自身が現実に体験した様々な理不尽への鬱屈が反映されてか、論理を欠いて感情に流されがちな記述も散見される。が、実際に関わってみて初めてわかることだが、わが国の司法は実に理不尽だらけ、理不尽まみれなのである。
 信じ難いほどに。

※袴田秀子さんと同じく、私の冤罪裁判を支援し、冤罪被害者の一人として最高裁判所へ宛てた意見書まで記してくださった故・桜井昌司さん(1947~2023)にも、深い感謝の意を、改めて表明したい。桜井さんとの対談記事が、『ヒーリング・リフレクション1』第二回にあるので、是非参照していただきたい。

◎ところで話は変わるが、刑務所に死刑囚は、いない。
 刑務所というのは、犯罪を犯した者に罰を与えるため、狭いところに長期間閉じ込めて所定の作業(刑務)を強要する場所だ。しかし、死刑囚の場合「死刑(命を奪われること)」が罰なので、刑務につくことは求められず、拘置所の独房にとどめ置かれる。
 死刑の執行は(おおむね)毎週何曜日、と各拘置施設によって決まっているそうだ。ところがそれが具体的に「いつ」なのか、当人には直前(当日の朝)まで決して知らされることはない。その日の朝、突然通達が来て、昼には刑場へと引いてゆかれるのだが、これは極めて残酷で無慈悲なやり口といえよう。
 例えば、ある拘置所では金曜日が死刑執行の日と定められているとする。毎週、金曜日が近づくたびに死刑囚は、「今回かもしれない」とおびえ、不安におののく。いよいよ金曜日が来て、わずかな物音にも震え上がりながら、息を潜めて昼まで待ったけれど、何もなかった・・・が、ホッと一息つく間もなく、次の金曜日へ向け、また新たな恐怖のサイクルが始まるのだ。
「そんなこと」を、袴田さんのように34年も延々ずっと味わわされ続けるというのが一体どんな体験なのか(檻の中の生活は48年)、リアルに想像してみることでさえ、まともな神経を持つ人間にとってはあまりにも辛すぎるに違いない。

袴田事件について

栁田 豊

 昭和41(1966)年6月30日の午前2時前、静岡県清水市(現・静岡市清水区)横砂よこすなの味噌製造会社「こがね味噌」の専務宅で火災が発生しました。近所の人が消防に通報し、約30分後に鎮火しています。
 ガソリンの匂いが残る焼け跡からは焼死体が見つかり、専務(41歳)は15ヵ所も刺し傷や切り傷があり、妻(38歳)は6ヵ所の切り傷、次女(17歳)は9ヵ所の刺し傷、長男(14歳)は11ヵ所の刺し傷がありました(長女は当時、専務一家とは別居)。
 殺害された専務の腕には腕時計がはめられており、妻の指には指輪があり、長男のシャツの胸ポケットには金属製のシャープペンシルがあったので、就寝前の時間帯における犯行を示しています。

 専務宅と両隣の民家は、壁と壁が30cm程度しか離れておらず、普段から生活音が筒抜けだったといいますが、にもかかわらず近所の人たちは犯行時の悲鳴や物音などを一切聞いていません。
 犯人は短時間で近所の人たちに気づかれることなく、物音が響かないようにしながら手際よく一家4人を刺し殺し、放火して立ち去ったことになります。プロの殺し屋など、荒事に慣れた者が複数いないと不可能でしょう。しかも当日は給料支給日で、専務宅には現金が200万円以上あったにもかかわらず、盗まれたのは8万円のみだったのも謎とされています。

 警察は8月18日、元プロボクサーで、「こがね味噌」の住み込み従業員をしていた袴田はかまたいわおさん(当時31歳)を逮捕し、単独による犯行と断定しました。
 逮捕後、袴田さんは刑事たちから執拗な取り調べを受けることになります。23日間の勾留期間中、毎日7時間から16時間にも及ぶ過酷なものでした。
 真夏に冷房のない部屋で、刑事たちから「お前がやったと認めろ」と厳しく詰め寄られ、背もたれのない椅子に座らされ、トイレへ行くことも許されず、取調室でバケツに放尿させられたりしたことが、当時の資料や録音テープに残っています。後に袴田さんが家族に送った手紙には、「眠くなったら指先にピンを刺された」とか、「両目が腫れた」「殺されるかと思った」などと記されています。
 この取り調べに当たった刑事らは、「昭和の拷問王」こと紅林くればやし麻雄あさおの部下であり、被疑者を拷問して無理やり犯行を自供させ、事件解決をでっち上げるすべに長けた者たちでした。
 静岡県警は紅林拷問王の主導のもと、幾多の冤罪を作ってきました。そのため、静岡県は「冤罪のデパート」と呼ばれるようになったほどです。

 上記のような取り調べ(拷問)には、フェザー級日本ランキング6位にまでなったプロボクサーも到底抗しきれず、勾留20日目、心身共に疲弊した異常な状態の中で、袴田さんはついに罪状を認めてしまいます。
 警察の意向に沿った「犯行自供」によれば、袴田さんは深夜に一人で、パジャマを着たまま会社の寮を抜け出し、味噌工場にあった取っ手のないポリバケツにガソリンを入れて専務の家まで持ち込み、専務一家の就寝時に殺害して放火したことになっています。

 同年11月15日に第1回公判が開始されますが、当然ながら袴田さんは罪状の全面否認に転じます。
 一方、検察が提出した証拠にも多くの問題がありました。
 凶器とされたのは、現場から回収された刃渡り12cmのクリ小刀ですが、これは本来は味噌を貯蔵する木桶を修理する際、竹製の釘を作るため、会社から社員に支給されていたものです。
 木や竹を削るための道具であって、人を刺したり切りつけたりするには明らかに不向きです。その上、4人の遺体は合計41回も切りつけられており、専務の肋骨には切断された部分まであったのに、証拠品には刃こぼれ一つないのです。
 刃の先端が1cmほど欠けていますが、その刃先のかけらは遺体や現場から見つかっていません。
 また、この事件から3年ほど前の時点で「こがね味噌」では木桶をポリ樽に変更しており、もはや不要となったクリ小刀を袴田さんが事件当日まで所持していた証拠もありません。は火事で焼けて刀身だけになっているので、指紋も検出されていません。
 
 このように検察側の論述に不自然さが目立つ一方、袴田さんは犯行を否定するわけですから、担当裁判官の一人・熊本くまもと典道のりみち氏は必然的に疑問をいだくようになります。そして、裁判官としては極めて珍しく、実際に現場へ赴いて独自に調査したり、調書を吟味した結果、袴田さんの無罪を確信するに至ったといいます。
「袴田被告が寝起きしていた社員寮から専務の自宅まで、東海道線の線路を挟んで100mくらいは離れている。深夜に、取っ手のないバケツにガソリンを入れて持ち歩き、鍵のかかっていた裏門の杉戸を無理やり押し開けて入り、物音を立てずに刃渡り12cmのクリ小刀で4人を殺害し、現金が200万円あったのに8万円しか取らず、放火して寮に戻って、しばらくしてから専務宅の消火活動を手伝った・・という検察側のストーリーは、いかにも不自然である」、と。

 しかし、そんな裁判の流れを急変する出来事が起こりました。
 事件発生の翌、昭和42(1967)年8月31日、「こがね味噌」の味噌タンクから麻袋が発見され、その袋の中から5点の衣類が現われたのです。スポーツシャツ、ステテコ、半袖シャツ、ズボン、ブリーフで、どの衣類にも血痕が付着していました。
 この味噌タンクは一年前の時点で徹底的に捜索されていたのですが、その時には不審なものは何も出てきませんでした。検察によれば、捜査が終わった後、新たに味噌を入れる寸前に袴田さんが隠したというのですが、これが今に至るまで捏造の声が絶えない因縁の「証拠品」です。
 検察はそれまでの(袴田さんが自供したことになっている)パジャマでの犯行を、これら5点の衣類を着ていたと変更しました。パジャマによる犯行よりは信憑性が高くなると判断したのでしょう。その結果、事件当日は台風通過後の熱帯夜だったにもかかわらず、ウールの長袖のスポーツシャツを着て犯行に及んだことになってしまいました。

 このような矛盾に満ちた裁判でしたが、熊本裁判官以外の2人の裁判官は死刑を主張しました。
 当時の新聞報道を見ると、袴田さんは完全に犯人扱いです。東京新聞は「異常性格者」などと警察がリークする情報をそのまま垂れ流しており、毎日新聞は「逮捕されてからも、のらりくらりと捜査陣を手こずらせた袴田は、今度も法廷で全面的な否認劇を演じて関係者をあっと言わせた」と報じています。
 当然、こうした論調に世論も流されることになりますから、熊本裁判官1人が無罪を主張しても他の2人の裁判官は、「無罪判決など出したら、非難の声が殺到することになる」と、袴田さんの命より自分たちの立場を優先し、2対1で死刑が決定してしまいました。
 昭和43(1968)年9月11日、静岡地方裁判所は袴田さんに死刑判決を下しました。熊本氏は、この判決を生涯後悔し続けることになります(後に早期退官)。 

 袴田さんは、その後すぐに東京高等裁判所へ控訴しました。しかし、昭和51(1976)年に棄却され、直ちに最高裁判所へ上告するも、昭和55(1980)年11月19日に棄却され、死刑判決が確定したのです。
 一方、浜松市在住の袴田さんの実姉・秀子ひでこさんは、一連の裁判で心身共に追い詰められていました。
 弟が放火強盗殺人犯として世間から白い目で見られ、いつ死刑が執行されるかと不安に苦悩する日々だったからです。
 毎晩、強い酒を飲まないと眠ることができず、毎朝、二日酔いの頭を抱えたまま出勤していたといいます。
 それでも、巖さんのために支援する人々に支えられ、「巖の無罪判決を勝ち取る」と決心してからは酒を断ち、戦う覚悟を決めたそうです。
 まず、昭和56(1981)年、静岡地方裁判所への再審請求を開始しました。
 これは平成6(1994)年に棄却されています。続いて東京高裁に上告しても棄却され、最高裁へ特別抗告しても平成22(2008)年3月に棄却されました。
 それでも秀子さんたちは諦めることなく、翌4月に第二次再審請求を開始します。
 最初は死刑囚として世間より敵視されていましたが、根気強く無罪と再審を訴え続けるうちに理解者や協力者が増えていき、同時に警察や検察の矛盾が次々と明るみになり、ついに平成26(2014)年3月27日、静岡地方裁判所が再審開始を決定しました。そして誰も予想しなかったことですが、再審開始決定と同時に、巖さんの死刑・拘置が執行停止となり、即日釈放されたのです(逮捕から48年後)。

 しかし、検察は同年3月31日、不服を申し立て東京高裁へ即時抗告しました。自らの誤った判断に固執する検察は、袴田さんを死刑囚として刑務所へ戻そうとしているのです。
 巖さんはこの時点で78歳です。検察による即時抗告(裁判所による決定を認めず、今後も有罪を主張し続けるという意思表明)など、冤罪被害者にとっては迷惑この上ないことで、ヨーロッパでは再審に際して検察側は抗告できないようになっていますが、日本ではできるのです。
 巖さんは、48年(死刑が確定してからは34年)にもわたる拘置所生活によって発症した拘禁症状(幻覚や妄想、興奮、混迷、的外れな応答など)に苦しめられているのですが、そんなことなどお構いなしの検察は、巖さんの人生より自分たちの面目の方を優先していることが明らかです。(次回へ続く)

<2023.12.20 鱖魚群(さけのうおむらがる)>