このたびの相承会参加者諸君に是非体得していただきたいと願うのは、まず「オフ感覚」だ。
例えば、かしわ手を打った左手の労宮と、右手親指の腹でそっと触れ合う。かしわ手の振動感覚(粒子感覚)を指で強く押さえつけ過ぎて圧迫しないよう、そっと柔らかく。
そこから右親指に軽く粒子的凝集を起こす(そのように意図するだけで力は入れない。右掌の労宮を凝集すれば、指にも自然に凝集が起こる)。それをオフにする。この際も、「自分で」開こうなどとしない。ただ、スイッチを切るみたいに、することをやめて、待つ。
すると、オフ感覚が右手親指から左手、さらには左腕、そこから脇のABを意識化すれば胸にも・・・と広がってゆく。あたかも、何らかの繊細なエネルギーのようなものが拡散してゆくように感じるだろう。それが「オフ感覚」だ。虚の感覚だ。ちなみに、左の手から腕、胸、云々と記したが、実際には右側にも同様の現象が起こっている。ただ初心者の場合、右と左を別々に・なおかつ同時に、意識してゆくことは難しいので、左側だけにまずは注意すればよい。
この、虚の作用を、身体の任意の箇所から自在に発し、相手と響き合わせる。これが、ヒーリング・アーツにせよ龍宮道にせよ、共通の基本となる。<道>の第一歩である。
例示していただいた、オフ感覚を感じとるための一連の流れを実践し、確認させていただきました。
かしわ手を打って生じる振動感覚は、強く押さえたり打った手を緊張させてしまえばすぐに感じ取れなくなってしまう非常に細かなものであり、本当に触れるか触れないかのごく軽い触れ合いでなければ感じ取れないもので、強く「感じ取ろう」と集中するだけでもキュッと緊張して消えてしまうものであるため、感じ取ることそのことにもオフを意識する必要がありました。
集中して、指先から順番に感じられていくものを作為的に繋げていこうとせず、冷水から温水に手を入れ換えた時にフワッと全体を感じるように、そして相承会でお伝えいただいたように考えるのではなく感じることを意識すると、非常に細かく柔らかい何かが拡がっていくのが感じられます。作為とは「考える」ことであり、ここで重要なのは「考える」ことではなく「感じる」ことなのだと、改めて認識しました。
温水と冷水を使う修法を毎日行なうことにより、手の粒子感覚がより細やかに感じられるようになってきています。今まで曖昧であった手の甲側などにも粒子感覚が感じられるようになったり、毎日自分の手に新しい発見があるのを楽しんでおります。
修法を継続しながらHN1ディスコースの『たまふり』に書かれている修法を行なってみました。先生のお言葉通り、以前行なった時よりは格段に深い体験と理会が起こり、驚きました。基盤となる手の粒子感覚が深まれば、他のあらゆる修法がどんどん深まっていく可能性があると感じ、温水と冷水を使った修法の効用を実感しつつあります。
温水と冷水の修法を行なっておりますが、冷水に入れると脇も手と合わせて凝集しているのが感じられました。温水へと移すと脇も合わせて開放されます。これをくり返すことを通じて、どこかしら腕のルートを整えられているようです。
温水と冷水を使う修法を続けておりますが、手のひらの表面だけでなく内部を通してオフの感覚が広がっていく感覚が、次第に感じられるようになってきております。
諸君が今やっているようなことを、「行」という。行には、長いもの、短いもの、誰でもできるもの、難しいもの、肉体的死や精神崩壊の危険すらあるもの、など様々な種類がある。
普段通りの稽古、練修をやっているばかりではなかなか起こらない「感覚の深まり」や「新たな意識状態の獲得」「わざの熟達」が、行に取り組むことによって自然に起こってくる。ヒーリング・ネットワークでは、巡礼(旅)も行の一種だ。
仕事から帰ると必ず、冷水と温水を使う修法とオンとオフのリズムに取り組んでいます。
冷水と温水の修法を執り行っていますと、手の粒子感覚が深まっていくことを感じ、普段でも手が細やかに振動しているような感覚があります。
また、昨日は冷水から温水へと手を浸し、オフ感覚を体感していると、仕事の疲れやストレスが解消されていく感覚がありました。最近、忙しい日々が続いているのですが、元気に仕事ができているのは、冷水・温水の修法の効果なのではないかと感じました。
オンとオフのリズムを聴いていますと、心のわだかまりなどが消えていき、頑張ろうという気持ちが芽生えてくることを感じています。また、最初は自分個人として聴いていた感覚がありましたが、最近は、「汝らは・・・」という歌詞を聴くたびに、自分だけではないという感覚になり、もっと大きく、広い意味で歌詞を聴けるようになってきたことを感じています。
3週間「行」を続けることになっていたが、いつ始めたのかチェックしてみたら8月25日となっていた。いつの間にか1ヶ月近くが経過していたということだ。
グループで行なう行は、とりあえずこの週末で終了とする。現在の状態を含め、各自の体験や気づきなどをまとめてほしい。この行は、各季節でも効果が違ってくるし、今後折りに触れ行なっていったらよい。
日々行なうことで心身の健康向上を実感しているのであれば、健康法として続けていくのも悪くない。この場合、必ず毎日やるのだと気負うことなく、かといって自分で自分をごまかし甘やかすことなく、ニュートラルな態度で健康感を楽しみ、感謝しつつ、日々の習慣として行なってゆけばよい。週に1、2度でも、少しく継続すれば、かなりの効果を実感できるのではあるまいか。
「行」としての実践をこれまで行なっておりましたが、何度かくり返していくうちに、温水でレット・オフが生まれてくることがわかってくると、ときに自分の意(意思、意念)でレット・オフにしようとする、あるいは冷水で凝集していく感覚がわかってくると、これもときに自分の意で凝集しようとしていることがあり、冷水と温水での働きで自然と生じているところに作為を加えてしまっているのと感じることがありました。
それをもレット・オフし、自ずと生じるにまかせ取り組んでみますと、凝集時の方向とは正反対の方向性(拡散)でレット・オフが生まれてくるのが感じられました。そのレット・オフは手から腕を通っていくのが感じられ、身体における流れが存在することを体感的に確認することができました。
こうしたことは、すでにレット・オフを使えるようになっている人からすれば普通のことなのかもしれませんが、まったく知らない人からすれば、はじめて体験する感覚なのではないでしょうか。日常生活を離れて特別な修業を行なわずとも、普通に生活しながらでも「意識の内向」や「身体内の流れ」を現実に感じる方法があるにもかかわらず、多くの人はそれを知らず、毎日を送っているのではないでしょうか。
これからの時代、人はもっとそうした「身体に基づいた感覚」を含めて、社会を再構築することが必要なのかもしれません。
3週間、プログラムに則って「行」を実践し続けました(両手と両足)。
手の粒子感覚は温水に浸けた手を冷水に戻した時にとても細かく感じられます。また片足ずつの実践で、冷水から温水に移し替えた足先から全身に柔らかい波紋が行き渡り、内側から湧き起こる自然な動きに身を委ねることも多くなっていきました。
始めて1週間から10日くらいして、身体内側の通りが格段に良くなっていることに気づきました。内側の流れが良くなると外側の環境、特に人間関係において軋轢が少なくなっていきました。
また目に映る外界の事物、例えば人物の写真などを観照すると、そこから得られる情報量が以前より増えたと感じています。日々の生活においても、楽しいことなどにストレートに共感するのと同時に、人の内面に隠された深い悲しみなどが感じられるようになり始めています。
『我らは歓喜と感謝に満たされる!!!』の歌詞に込められた肯定的なヴァイブレーションを毎日浴びることで、日々堆積されがちなネガティブな要素が洗い流され、否定的な要素が悪循環に陥る前に一旦リセットされるのを感じます。
平川君が述べていたことで、一ヶ所だけ引っ掛かりを感じた。「手の粒子感覚は、温水に浸けた手を冷水に戻した時にとても細かく感じられる」というところだ。
人によっていろんな感じ方があるのかもしれないが、普通は、冷水から温水に移した際に、粒子感覚が感じられるのではあるまいか。というより、冷水から温水へ移した際に、手などに感じる細やかな振動感覚を、「粒子的」とか「粒子感覚」と私は述べてきたのである。同じ現象を、「霧のように細かい」と表現する人もいるし、「ちりちり細やかに痺れるような」と感じる人もいるだろう。
私は別に、間違いを指摘しているわけではない。皆が皆、まったく同じように感じ、同じ言葉で表現しなければならない、とも思ってない。そんなのは、まっぴらごめんである。
平川君は独自の感性で何かを表現しようとしているのかもしれないし、「粒子」という言葉を誤解・曲解しているのかもしれない。
これ以上進む前にきちんと確かめておきたいので、平川君は臆することなく、自分自身が感じること、自分自身が考えることを、あるがままに記していただきたい。
改めて実践してみました。
片手を氷水に浸け、しばらくしてから50度くらいのお湯に浸け、今度はその手を再び氷水に戻しました。戻した瞬間から2、3秒の間は急激な温度変化により、手の皮膚表面にある種の心地良い痺れを伴った感覚があり、その感覚も一種の粒子的感覚であると感じていました(その後は、手が冷水の冷たさにより固くなり凝集していくプロセスを辿っていきました)。
この修法の実践中は、冷水はたらいに氷と保冷剤を入れて水温が上がらないようにし、温水はガズコンロの上に置いた鍋にて温度が下がらないようにしていたため、50度から氷水の水温へと急降下する条件で生じたものであると考えています。
どこか勘違いしているところがあるかもしれませんので、ご教示いただければ幸いです。
何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、熱過ぎる温水(熱水)、冷た過ぎる冷水(氷水)というのが、まず余計なのじゃなかろうか。
我慢比べを、我々はやっておるわけではないので、「普通」にすればよいのだ。それで改めてやってみて、それでもなお分からない、ハッキリしないということであれば、この件をもっと掘り下げる必要があるだろう。
ヒーリング・アーツで言う粒子感覚は、初心者は「小さな粒子」程度の認識で構わないが、少し慣れてくると「ものすごく細やか」と感じるようになる。ファインミストのような「それ(粒子感覚)」が、意念によって自在に凝集したり拡散したり、流れたり、波打ったり、するのだ。
温水を45度未満に、冷水は氷を入れず保冷剤で少し冷やした状態で、改めて修法を実践いたしました。
手をしばらく冷水に浸した後、温水(ぬるま湯)に移行すると初めのうち手は一塊としか感じられませんでした。しかし、そこから次第に手が粒子状に解けていき、それと連動する形で全身が緩み解け、身体内側で波のようなうねりが生じました。その手をまた冷水に戻すと、今度はゆっくりとストレートに凝集のプロセスが進んでいきました。
今までは、温度はより熱く、より冷たい方が効果が上がるのではないかと考えて実践してしまっていたところがありました。この普通(適温)の条件下で、本修法をしばらく実践していきたいと思います。
ご教示、ありがとうございます。
3週間「行」を継続してみた報告をさせていただきます。
仕事後の就寝前に行なうことが多かったのですが、手や足の粒子レベルでの締まりと緩みの間を往復するうちに、全身とも響き合って一日の疲れが取れ、心身の偏りが調律されていき、健康面の効果を実感できることが毎日続けるモチベーションとなりました。
ヒーリング・アーツ修養の観点からは、粒子感覚がより体感しやすくなることで、「オフ感覚」や「レット・オフ」をより深めることができました。何故こんなに粒子感覚が分かりやすくなるのだろうと疑問が湧きましたが、温度差によって自然に起こる凝集と拡散の変化が分かりやすいというのが一番大きな点だと感じました。
ただそれだけでなく、この行法では手の甲側や指先など今まで感じ難かった手の部分まで、よりはっきりと粒子感覚を感じられることが特色であると感じています。
ある時、温水に手を入れて、レット・オフの練修をしていると手が浮き上がるように感じて、水の浮力が常にかかっていることに気づきました。その時、水中では常に手に水圧がかかっていることが思い出されました。そのことで手を包む皮膚が意識化しやすくなりそこに起こっている粒子感覚がはっきりしてくるではないか、と思い至りました。「力を抜けば水に浮く。それは腕や脚などの部分であっても同じである」というヒーリング・アーツの教えも思い起こされます。
試しに、粒子感覚を高めた手で水圧を感じながら水に手を入れてみました。粒子に水の圧力や冷たさあるいは熱さが感じられ、粒子と水が触れ合い、波紋が響き合う感覚が独特で面白く、驚きの声を上げてしまいました。水の持つ様々な特性によりヒーリング・アーツの修法を深めることができた素晴らしい「行」体験となりました。
鏡に自分の顔を映しオンのリズムとオフのリズムを聴き比べることも、3週間続けました。ネガティヴな感情や怠惰な思いに囚われていると感じる時にも、この行をしていると不思議と心が落ち着いてくるのがわかりました。習慣化している思考、感情に囚われた状態から解放され、気がつくと今までと全く違った視点から考え、行動できるという現象が起こるようになりました。
3週間、「行」として温水と冷水によるレット・オフ感覚を中心に執り行なわせていただきました。
日々、冷水と温水に両手両足を入れておりましたが、温水に関してはぬるめの温度では液体の中に溶けて拡散してゆくようなオフ感覚があり、たまに熱湯を足して耐えられるギリギリの温水で執り行なうと、浸した手や足から循環が起こり、足や腕に流体的に熱が巡ってくる感覚があり、老廃物が流れ出すような爽快さがあります。冷水と温水に意識的に浸けた後は、肌のきめが確かに細かくなってツヤツヤしているのが確認できました。
冷水で凝集を意識して温水では自動的にオフによる拡散、ということを繰り返す中で、これまで自分の行なってきたオフ感覚が温水に浸け完全に任せてオフにするのとは違い、「凝集したものを拡散しよう」という作為的な意図・方向づけを伴っていたことがだんだんわかってきました。それは本当にごくわずかな作為ですが、手や足を温水に浸け、何も定めずに「虚」にして拡がる状態に対し、ある種の力み、制限として働いていたという違いが感じられてきました。
その作為をどんどんあぶりだして手放していくと、肉体の皮膚面という制限があって外に出ていくことはないとしても、「オフ」が起きると全方向に・奥底からひっくり返って反転するような変化として拡散が起きることが感じられ始めました。
「オン(する)に対するオフ(しない)」、「実に対する虚」の、全く違う、対極(正反対)のものであるという実感が強まるとともに、その虚の中にこそ波紋が通ることが確認できました。
また、そうして変化した認知によってオンのリズムとオフのリズムの音源を流しながら確認すると、オフの裏を打つリズムが、表側に対する裏側という位置関係的なものではなく、実体に対するその影のように、音はそのタイミングで鳴っているが音そのものが重要なのではなく空白を指し示すしるしとして音が鳴らされている、その空白が「虚」であるというような生理的な感覚が生まれてきました。
「重要なのは、月を指す指ではなく、月そのものである」という先達の教えは、こうしたことを指しているのでしょうか。
冷水と温水を使用した行を行っての感想ですが、毎日行っていると次第に粒子感覚が手のひら全体に感じられるようになりました。
そして、手のひらから腕を通って体に広がる感覚も少しずつ分かるようになってきました。
しかし、ときに自分で感じようとする努力をしてしまうときがあり、その時は肩に力が入ってきてしまうのが感じられたので、起こっていることを素直に「感じる」のではなく、不必要な「考え」を巡らせてしまう点は気を付けなければと思いました。
3週間の「行」について報告させていただきます。
最初の頃は冷水で手が引き締まり、温水で手が緩むという感覚がよく感じられていました。
1週間ほど継続していると、冷水と温水の行を終えた後に、手にかゆみのようなチリチリとした粒子感覚を感じるようになりました。
2週間ほど経つと、行を終えた後も、粒子感覚が消えることなく、いつまでも手が微振動しているような感覚がありました。すると、かしわ手を打ったときの粒子感覚も深まり、手だけではなく、腕から全身へと波のように拡がっていくことが感じられるようになりました。また、労宮へのヒーリング・タッチも凝集とレット・オフがより繊細に、細やかに感じられるようになり、思い煩いからの解放感も深まることを感じました。
3週間目になると、皆さんが報告されているように、行によって疲れやストレスがスーッと消えていくような感覚を感じられるようになり、心身に健やかな影響が顕われていることが実感できるようになりました。
冷水・温水の修法と共に、オンとオフのリズムを毎日聴き続けていますと、オンのリズムが外側の世界で鳴り響き、聴こえてくるリズムで、オフのリズムが裡側の世界で鳴り響き、聴こえてくるリズムと感じられるようになりました。また、最初の頃はオンのリズムが普通の感覚のリズムで、オフのリズムは普段とは違う世界に入っていくようなリズムに聴こえていたのですが、3週間ほど経つと、オフのリズムの方が自分にとって自然で心地良い、柔らかなリズムとして聴こえるようになり、オンのリズムが異質な世界と感じられてしまうほど、固くて、不自然なリズムに聴こえてしまうようになったことは驚きでした。
オフのリズムの方が自然に感じられるようになったという渡邊君は、何か適当なレゲエの曲を探してきて聴いてみてほしい。以前よりも「よい」と感じられるかどうか。
『オンのリズムとオフのリズム』の中で、高名な音楽家がレゲエの良さを・・云々、と書いたのは故・坂本龍一氏のことなのだが、渡邊君のように普段レゲエなど聴きそうにない人間が、どんな変化を感じるのか、あるいは特に音楽の好みが変わることはないのか、興味あるところだ。
レゲエについては全く詳しくないのですが、有名な曲ということで、ボブ・マーリーの『One Love』を聴いてみました。
聴き始めた途端に、ゆったりとした心地よさを感じ、最後まで飽きることなく、聴くことができました。
私は以前、レゲエの曲を耳にしたとき、曲の良さが分からず、違和感を感じてしまったため、1曲をちゃんと聴き通したことがありませんでした。しかし、3週間の「行」の後でレゲエの曲を聴きますと、音楽の聴こえ方が全く変わっていました。
以前に感じましたレゲエの曲の違和感を自分なりに分析しますと、そのリズムを追うことができなかったからではないかと思います。自分が知っているリズムとあまりにも違いすぎて、受け入れることができず、ついていけないという思いがありました。
しかし、今、レゲエを聴きますと、オフのリズムをしっかりと感じ、追うことができ、ボブ・マーリーやコーラスの歌声もすんなりと心身に響いてくることを感じます。
自分自身の変化に大変驚いています。
渡邊君を始め、諸君全員に起こったような変化を、「人間としての器が大きくなった」とか「新たな可能性が拓かれた」と、一般には呼ぶ。
それは素晴らしいことだが、皆が不思議がっていたように、冷水と温水に交互に手をつけ、「締まり」と「緩み」を感じ取る、たったそれだけのことで、手の皮膚がしっとり柔らかくなったり、1日の疲れが取れたり、さらには精神的ストレスまでが解消されるというのは、確かに「不思議な」ことではあるまいか。
もしこのことが、ヒーリング・アーツ修行者という特殊なカテゴリーに属す人間だけでなく、他の人たちにも効果があるならば(女性も喜びそうだ)、現代社会に生きる多くの人々にとって福音(喜ばしくめでたい知らせ)となるのだが。
そのためにも、自分自身がまずしっかり行なって検証すると共に、いろんな人にも勧め、一緒に行ないながら実践結果をまとめてゆく作業が大切だ。これは、今回皆で取り組んだ「行」に限らず、ヒーリング・ネットワークで扱うすべての修法に共通して言えることだ。
<2023.11.04 楓蔦黄(もみじつたきばむ)>