温水と冷水によるオフ感覚の惹起と「オンのリズムとオフのリズム」の練修法を継続してみます。
ステップ1において前半のパートを冷水に手を入れて、後半のパートでは温水に手を入れて行なってみましたが、冷水に手をいれますと楽曲がない状態よりもより凝集してくる感覚が感じられ、その手を温水に入れますと、楽曲がない状態よりもオフ感覚がはっきりしてくるのが感じられました。
楽曲を聴きつつ、鏡に映る自分の顔を観ておりましたが、オンのリズムのときはこれまでとそれほど変わりがないようでしたが、オフのリズムのときは内向していく感覚がありました。再びオンのリズムになったとき、目の周囲に力みが生じてくるのが感じられたものの、全く最初の状態へと戻っていくのではなく、目の周囲など一部がオンのリズムに反応しているようにも感じました。再びオフのリズムに入っていくため、少しずつオフ感覚が深まっていくように感じられました。
帆足君に確認したいのだが、鏡で自分の顔と向かい合った状態で意識が内向すると、どんな風に感じるだろうか?
例えば(必ず誰もがそうなるわけではないかもしれないが)、オンでは自分が鏡に映っている像をみている(自分→鏡)ものが、オフになると相手から自分がみられている(鏡→自分)感覚になるとか、そうしたプロセスを経て「みること、と、みられること」が同時に感じられる状態になるとか、これらは私がこれまで体験した状態の一端について述べているだけなのだが、他の人はどんな風に感じているのか、どんな変化が起きているのか、興味がある。
冷水と温水を用意し、オンのリズムとオフのリズムを聴き比べてみました。
冷水に手を浸けたままステップ1のオンのリズムを聴いている状態から、温水に手を入れてオフのリズムに切り替えると、フッと意識が内向すると同時に音が外で鳴っている状態から、音が身体に響いて裡に入ってくるのが感じられました。
ずっと冷水に浸けたままでオンとオフのリズムを聴く場合と、オフのリズムになって前半2小節は冷水のままで後半の2小節は温水にとズラしてみる場合を比較しましたが、1つ目ではオフのリズムに入ってからの感覚が弱く、2つ目ではオフのリズムの最中に冷水から温水に切り替えると温水であるほうが遥かに深く心身が弛み、音が響いてくるということが実感できました。
鏡に自分の顔を映しながらオンのリズムとオフのリズムを聴き比べると、オンの時は鏡に映っている顔が自分であると感じて向かい合っているものが、オフに入るとその感覚が希薄になり、鏡面に別個に存在しているものがこちらをみかえしている、向かい合っているものが自分のようなそうでないような、奇妙な中間の感覚が生じていました。
いいあらわすことが難しいのですが、道上さんが書かれていることと同じような感じで、みているでもなく、みられているでもなく、なにかそのあいだにいるような感じで、静止した状態でもなく、普段の生活の中では感じることのないような感覚でした。
冷水と温水を使ったオフ感覚練修法を行っております。本日は合わせて「オンのリズムとオフのリズム」を聞きながら実施してみました。
冷水に手を入れつつオンのリズムを聞いていると、リズムに合わせるように手が内側に引き締まる感覚がありました。オフのリズムに切り替わるのに合わせて温水に手を入れると、手の内側から緩んでくる感覚があります。
計4回、冷水から温水へ手を入れることを繰り返してみたところ、上記の感覚は回数を重ねるうちによりはっきりと分かるようになりました。
4回繰り返した後に体の感覚を観察していると、細かな振動している感覚が手から腕に広がって、次第に体中に広がるのが感じられました。ただ、手や腕の部分ははっきりと感覚が感じられるのですが、手から離れた部分に関してはまだ感覚が薄いというのが現在の状態です。
鏡で自分の顔と向かい合った状態で意識が内向してくると、自分自身はオフ感覚になっていくのですが、鏡に映し出された虚像である自分の方にどんどん力が与えられるかの如く、虚像と実体が入れ替わってしまう、あるいはちょうど現実の自分と鏡に映った自分との関係性が反転してしまうような感覚になっていきます。
楽曲がオンのパートになると、またいつもの自分が鏡に映った自分を見つめている状態に戻っていきます。
冷水と温水を使う修法にも、いろんなヴァリエーションがあり得る。
例えば、「片手だけで行ない、粒子感覚を感じることに集中してみる」「合間合間にかしわ手を打つことを多用」「掌に起こる振動感覚(粒子感覚)を、意念によって凝集させたり、拡散(オフ)させることが自由に行なえるか?」「手だけでなく、足で行なったらどうか?」・・などなど。リフレクション3の記述(前編~後編)も参考にしながら、いろいろ試してみるといい。
まだ始めてから数日しか経ってないが、「毎日続ける」ということが明らかな変化(熟達)を生む事実を体で感じていることと思う。オフ感覚、レット・オフ感覚、粒子感覚。これらがある程度わかってきて、ネット上で情報をやり取りしながら自宅での修練を続けてゆけるようになったら、各地区や広島での相承会、自主練修会などを組み合わせつつ、相当深い学びを進めてゆくことが可能になる。
温水と冷水を使う修法を毎日行なっております。
前日は、温水では粒子を凝集しようとする時、冷水では拡散しようとする時に抵抗を感じ、逆はスムーズで行ないやすいと感じました。
本日、先生のご投稿を拝読し、かしわ手を打った手の粒子感覚を感じながら冷水にじっくりつけていると、粒子が自然と密になってくるのが感じられました。その方向を感じて強調し、レット・オフすると、ゆっくりと粒子が拡散していくと同時に冷たさが手のより深いところまで染み込んできました。手の裡において拡散と凝集が結ばれ、圧力が内に向かって高まり、意識が内向する感覚です。
反対に温水では粒子が拡散していく方向が感じられ、それを強調しレット・オフすると、凝集と拡散が結ばれて、内圧が高まり、意識が内向していきました。足で同様のことを行なうと脚から血が絞り上げられて血流が良くなるのを感じました。
レット・オフにより、温水と冷水で起こる粒子の自然な方向と逆の方向をぶつけることで、内破を起こすことができると感じました。
ゆっくりこの修法を行なっていると、水の温度が変わってくるので、温水に関しては温めたお湯を用意し、適宜注ぎ足していましたが、冷水の方は氷が溶けてしまい温度が上がりやすいのが難点でした。本日、ペットボトルに水を入れ凍らせておいたものを水に入れて使ったところ、長時間冷たい水を使うことができました。
手の粒子感覚が高まってきたら、その粒子性に基づきつつあれこれやると楽しいし、大いに益もあるのだが、まずはその「粒子」ということをしっかり「感じ」て、理会した上で行なうのでなければ効果は薄い。「力(肉体的なもの)」を越えた、力としてもはやまったく感じられないレベル、ということも、温水と冷水の稽古をしておれば、すんなりわかるのではなかろうか?
かしわ手を打って手を活性化させ、手に軽く力を入れる。その入れた力を抜く。力を入れることをただやめる。意図的・作為的に手を開こうとしたりしない。これは、「力の抜き方」について述べているのだ。どんな風に力を抜くか。
あるいは、こんな練修もいい。軽く拳を握り、その拳全体を軽く締める(力を入れる)、それをやめる(拳が少し緩む。開くのではない)を繰り返しながら、徐々に入れる力を弱くしてゆき、その弱くした分、抜く力も弱くしてゆく。つまり、入れた力だけを、抜く。何度か繰り返しながら使う力をどんどんかすかにしてゆき、しまいにはもう「力」として肉体で感じられるものはないレベルまで下げ、それでもなお、「締める」「締めるのをやめる」という<意図>だけは持ち続ける。すると、本当に純粋に「意図(意念)」に応じ力を越えて柔らかに働く、「方向性」というか「内的流れ」というものが実在することがわかってくる。
手の感覚を高めている際には、次のようなことも自分自身の手で調べてみるといい。掌の中心として「労宮」というものをヒーリング・アーツでは重視しているが、手全体をまんべんなく感じながら「凝集」とか「(レット・オフによる)拡散」などとやっている状態においては、労宮とその周辺(掌の真中の凹んでいるところ)ではどんなことが起こっているのか、よく観察してみるのだ。
凝集、拡散というのは、単位となる微細粒子同士の間に働く作用なのだが、そこに「中心(ここでは労宮)」が与えられると、手全体としてはどんな風に感じられるものだろうか?
ここで述べているようなことは、すべて基本中の基本なのだが、基本というしっかりした礎がなければ、その上にいかなるものも建てられはしないのだ。
温水と冷水というシンプルな修法を継続しつつ、HN1(ヒーリング・ネットワーク1)のディスコースに戻り、一番最初のところからゆっくり丁寧に、自らの身体で確認しつつ、読み進んでゆけば、さらなる深い体験と理会が直ちに起こるだろう。
かしわ手を打ち、掌に粒子感覚が感じられたら、片手の人さし指でもう一方の手の労宮にヒーリング・タッチを行ないました。「労宮に触れる」と「労宮から触れられる」の意識がどちらかに偏ってないことを確認しつつ、同時に均等に意識しました。触れあっているつもりでも、労宮より指先側へと意識が偏っていたりすることがあるため、その場所そのものを丁寧に確認していきました。
そうした上で、労宮へと粒子感覚が凝集していくことを意識しますと、皮膚表面において求心的に集まってくる感覚があり、それをレット・オフいたしますと、反転し、労宮から拡散していくのが感じられました。
仮に労宮を中心とせずに、掌の違う場所を中心として手を振ろうとしても体がギクシャクしてしまい、動きに調和が欠けてくるように感じるのですが、労宮を中心にしますと手の統一感があらわれてきます。その手を振ると、自ずから調和的に動くのが感じられ、バランスよく手を振れているように感じられました。
そうやって労宮を意識化した上で、温水と冷水を使う修法を行ないました。水の中で労宮の場所がはっきりするよう水につける側の手の労宮にもう片方の手の人さし指でヒーリング・タッチしつつ、冷水の中につけました。それにより労宮に凝集していく感覚が伴ってくるのが感じられ(このとき自分の意図で労宮に凝集をさせている可能性があるのですが)、温水へ移すと、空気中で行なうときと違って労宮を中心に掌だけでなく手全体が統一的に拡散していくのが感じられました。手の厚みなどもはっきりとしてきて、手の存在がこれまでよりも立体的に感じられてきました。労宮がまるで手における司令塔のような印象を受けました。
かしわ手を打ち、手にビリビリした振動感を生じさせた上で冷水に入れて軽く力を入れ、次に温水に入れると、「力を抜こう」と意図が生じることなくフワッと力が抜けるのが感じられました。
力をどんどん小さく弱く、わずかにしていくと、より細かく粒子的な感覚となり、ただ意識しただけでも粒子間に緊張がある状態が発生し、温水に入れつつやめるとそれがほどけて抜けていくのが認識できるようになってきました。
ここまで細かく感じられるようになってきた時に気づいたのですが、呼吸によって息が通る感覚も粒子的に感じられてきました。
4日ほど前から足を冷水と温水に入れることも始めていたのですが、最初に行なった翌朝に足の感覚(存在感)――踏みごたえであったり足そのものの形がしっかり感じられる感覚――が妙に生々しい(よく感じられる)ことに気づきました。
そういう状態は最初は朝のみだったのですが、3日ほど経過するとその感覚が増えてきて、日常生活の中でもたびたび感じることが起きています。
全身の意識の配分として、普段、よく使ったり感じたりする手や顔の意識が特に大きい自覚がありますが、今そこに足が加わってきつつあるように感じられてきました。
片手を冷水に浸し、その後かしわ手を打ってから温水に手を移すと、かしわ手を打たないで行なった時よりも拡散の広がり具合がより強まり、手から身体内へのルートが太くなっているのを感じました。
温水に入れている手の形を保ったままにしていると(編注:静中求動。ただし力まない)、身体内側が緩やかに流れ広がっていくのがより感じられます。人間の悩み苦しみというものが身体にこびり付いていて、それが身体内の流れを導いていくことによって溶解し流れ去っていくかの如く感じています。
<2023.11.04 楓蔦黄(もみじつたきばむ)>