高木一行:編
栁田さんの翻訳では、はっきりしているところと解釈が難しいところを明確に区別されており、奥深いところ、真意を探る場所が浮かび上がってくるのを、非常に興味深く拝見しております。
太極拳に関する著作を何か持っていたはず、と書棚をひっくり返したところ、『太極拳血戦譜』(笠尾恭二・著)という本が出てきました。著者の笠尾氏は、日本に初めて太極拳や中国武術を紹介した先覚者らの1人です。
上記の本は逸話や伝説の検証部分が多く、また読みやすいように架空の師弟がライトな対談方式で話しているというスタイルであるため、コラム的に『太極拳論』の現代日本語訳は掲載されているものの、白文や読み下し文は省略されていました。
笠尾氏の『太極拳血戦譜』はそれ以前に、ご本人が中国武術研究の集大成として出版した『中国武術史大観』という労作があり、これがあまり売れなかったことから出版社への義理で、内容の中で一番一般受けしそうな太極拳関連の部分だけ抜き出して平易に書き直したものとのことです。この本の中で笠尾氏は、王宗岳は太極拳と無関係な槍の達人であり、彼の残した武術書を偶然入手した武禹襄(楊式太極拳開祖・楊露禅のスポンサー)が、その槍術書の総論部分を抜き出して『太極拳論』という独立した文章として書き直し世に出した、という説を発表しています。
最新の研究ではどうなっているのか不明ですが、この本が出た時点までは王宗岳という人物は、彼の出したとされる武術書の前文にいつの時代のどこに住んでいる者であると記されている以外の記録が全くない真偽不明の人物であり、一部には『太極拳論』も王宗岳も武禹襄が創作した文章であり、人物であるという説を唱える人もいます(武禹襄が手に入れたという原本は存在せず、書かれていたという内容の写ししか存在していません)。
笠尾氏の説に拠るならば、太極拳と全く関係ない文章があまりに奥深い武術の到達地点をあらわしていると同時に、楊露禅の武術にも当てはまる、と抜き出されたのが『太極拳論』であり、その文章を基に「太極拳」という名称が産まれたことになります。『太極拳論』は最初から「太極拳」というカテゴリを超えた内容であった可能性があるという点では、非常に面白い説になります。
王宗岳捏造説まで飛び出し、何ともにぎやかなことだが(今は、王宗岳を実在の人物としておく)、改めて思えばかつて私が学んだ大東流合気柔術も武田惣角(1859~1943)以前の公式記録が存在せず、惣角による創造説が一部の人々の間で真面目に議論されているのだった。その真義のほどについては私にはわからないが、天才的な才能と環境に恵まれれば、一代であの複雑精妙なわざの膨大な体系を編み出すことも、決して不可能ではないと思う。
道上君が述べていた楊露禅(1799~1872)という人物も、太極拳を語る上で重要なキーパーソンの1人だ。当時、陳一族のみの秘伝であった太極拳を広く世に知らしめた功労者だが、奉公人に化け垣根の間から盗み観て学んだとか、そのわざは非常に柔らかく「綿拳(綿のように柔らかい拳法)」と呼ばれたとか、いろんな逸話が残されている。小柄で痩せた体つきにも関わらず、各流派の武術家たちの誰一人として露禅に敵う者はおらず、「楊無敵」と称賛されたそうだ。
続きを訳してみました。
原「立如枰準,活似車輪。偏沉則隨,雙重則滯。」
ウ「立てば平準(はかり)の如く、活けば車輪に似たり。深みに偏れば則ち随い、双重なれば則ち滞る。」
「枰」というのは辞書を引くと「碁盤」と出てきます。「碁盤のように立つ」では意味が通りそうにないのでいろいろ調べてみたら、「桿秤(はかり)」のことだ、とするものもあり、ウィキペディア版ではその説を採ったものと思われます。木偏とノギ偏を書き間違えた可能性がある、としたのでしょう。
「活似」は「よく似ている、酷似している」といった意味です。これも中日辞典に無く、中国の国語辞典で「活似」を調べたら「酷似」とあったのでそのまま使いました。
「偏沈」は「重さが一方に偏る」ということです。
「雙重」は「二重に」です。
ただ、「秤のごとく立って、それが車輪に似ている」となるのがどうしてかというと、今の私には説明できません。荷車などの車輪のある道具は、傾いていると使いにくいことから由来するのでしょうか?
「立つこと枰準のごとく、車輪に活似す。偏りて沈めば則ち随いて、雙重則ち滞る。」と、現時点では読み下しておきます。
原「每見數年純功,不能運化者,率皆自為人制,雙重之病未悟耳。」
ウ「毎に見る、数年純功するも運化を能わざる者は、 おおむね自ら人に制せらるるを。 双重の病ち、いまだ悟らざるのみ。」
「毎見」は「見るごとに」となります。
「純」は、純粋という意味であると同時に、「誠実」「偽りのない」という意味もあります。「功」が修練することですから、「一心に修練している」となります。
「運化」は辞書にはない言葉ですが、「修練した結果、自分を変えた」といった意味になるのでしょうか。
ネットで検索したら、漢方医学では体内で食物から栄養を生成することを「化」、それを運んで体内に巡らせることを「運」というので、「運化」という言葉自体はあるとのことでしたが、この場合にあてはめるのは無理がありそうです。
中国語のサイトでも、それ以外の「運化」は見当たりませんでした。
「率皆」は「おおむね」「大抵」といった意味です。
「自為人制」は「自分が行為をすることによって人を制する」と読めます。
「雙重之病」は「二重の病」、「未悟耳」は「未だに悟れずにいるだけ」ということになります。
「数年純功して運化能わざる者を見るごとに、率皆(おおむね)自ら為して人を制し、雙重の病を未だ悟らざるのみ。」
「何年も一生懸命修練しているのに変化のない人たちを見ていると、おおむね自分が余計なことをして人を制御しようとしていて、二重の病にかかっていることをわからずにいるだけである。」という意味ではないでしょうか。
原「欲避此病,須知陰陽。黏即是走,走即是黏。陰不離陽,陽不離陰,陰陽相濟,方為懂勁。」
ウ「この病ちを避けんと欲すれば、すべからく陰陽を知るべし。 粘は走、走は則ち粘。 陰は陽を離れず、陽は陰を離れず、陰陽相済して、まさに勁をさとる。」
大体はこのままで使えそうですが、多少修正する必要がありそうです。
「相済」は「お互いに支えあうことによって完結している」を指します。
「この病を避けんと欲すれば、須らく陰陽を知るべし。粘即ちこれ走、走即ちこれ粘。陰は陽を離れず、陽は陰を離れず、陰陽相済し、まさに勁を懂すると為す。」
「この病を避けたいのなら、須らく陰陽を知るべきである。粘はそのまま走であり、走はそのまま粘であり、陰は陽を離れず、陽は陰を離れず、陰陽はお互いに補完しあっている、それを為すことによって勁を悟るのである。」
原「勁懂後愈練愈精,默識揣摩,漸至從心所欲。」
ウ「勁をさとりてのちは、いよいよ練ればいよいよ精なり。 黙と識り、瑞摩(研究)すること漸くにして心の欲するところに従うに至る。」
「黙識」は、「黙って覚える」、「揣摩(しま)」は「推量する」「詮索する」ですが、「努力する」という意味合いもあります。
「心所欲」は、孔子も述べた「心の欲するところに」です。
「勁を懂(さと)りて後は、いよいよ練れば、いよいよ精す。黙して識(し)りて、揣摩して、漸く心の欲する所に従(よ)るに至る。」
「勁を理解した後は、練れば練るほど研ぎ澄まされていく。余計なことを言わずに研鑽して、やっと思い描いた境地へと至るものである。」となるでしょうか。
原「本是捨己從人,多誤捨近求遠,所謂『差之毫釐,謬之千里』,學者不可不詳辨焉,是為論。」
ウ「本はこれ己を捨て人に従うを、多くは誤りて近きを捨て遠きを求む。 いわゆる差は毫釐(わずか)、誤りは千里なり。 学ぶ者、詳(つまび)らかに弁ぜざるべからず。これ論と為す。」
「捨己從人」は「己を捨てて、人に従う」、「捨近求遠」は「近きを捨てて遠きを求め」、「毫釐」は「ほんのわずか」、「謬」は「過ち」です。
「辨」は「弁ず」とありますが、中国語では「対処する」「取り扱う」という意味合いになります。
「本は是(これ)、己を捨て人に従う、多くは誤りて近きを捨てて遠きを求む、いわゆる『差は之毫釐、謬(あやまり)は之千里』、学ぶ者詳らかにせずして弁(わきまえ)るべからず。是(これ)を論と為す。」
「本来はエゴを捨てて人に従うものであって、多くの人は誤解して目の前のことをおろそかにし、彼方を見ていて、『わずかな差も、大きな間違いにつながってしまう』というもので、学ぶ者はいい加減な気持ちで取り組むようなことがあってはならない。これが、私の言わんとするところである。」といったところでしょうか。
何とか、ここまで辿り着きました。
まだまだ、文章がこなれているとは言えませんが、やってみて、以前は気づかなかったことが色々と観えてきたように思います。
これから、吟味し直して、修正したら、はたしてどうなるのでしょうか。
楽しみにしております。
「双重の過ち」とは、両足に同じ重さがかかって居着いた状態を指す、と一般には説明されている。これに対し、「双重とは自分も相手も実・剛で互いにぶつかり合い、停滞すること」との説明もあり、それならば意味が通りそうだし龍宮道における体験とも矛盾しない。が、「そういう意見もある」ということに、現時点ではしておこうか。
栁田君が理会に苦しんでいた「立如枰準,活似車輪」も、龍宮道の実体験に基づき取り組めば、解釈は難しくなさそうだ。これも、課題の1つとしよう。
運化の「化」については、勁の3段階として伝えられる「明、暗、化」の最終段階に当たるのではないか。
これを、発勁のレベルを指す、と解釈する説があり、明勁(外から見てわかりやすい大きな動作で打つこと)、暗勁(小さな動作で外からはわかりにくい打撃)、化勁(相手の力を受け流すこと)と段階を追って修するそうだが、最初の2つは打撃に関することなのに、最後はまったく別物なのはなぜか、と疑問は尽きない。
勁とは元来、打撃法に限定される用語ではなく、普通とは性質の異なる力・作用、あるいはそれを使いこなす能力を指す。明・暗はそれがわかりやすく外にハッキリ現われているか、あるいは身体内に秘め隠されているか、という違いを示し、最後の「化」は、「変化する」(荘子のいわゆる自生自化――自ずから生じ、自ずから変化してゆく――の化)と解釈すれば、「いかなる状態・状況にも自由に応じ、自在に変化してゆく能力」となり、化勁が「最も高度な奥義の段階である」とされることにも無理がなくなる。この場合の「運化」は、化勁を全身に巡らせる、自由自在に運用する、という意味合いになろうか。
次は口語訳のまとめ作業に入るが、まずは読み下し分や原文を何度も熟読し、繰り返し「言葉の感触を味わう」ことが大切だ。頭でいくら考えたってわかりはしないのだから。
最近、専門家による『太極拳論』の解説をいろいろ読んだのだが、私が意外に感じたのは、日本の太極拳人口がどれくらいか知らぬが、中国や全世界となると膨大な数にのぼると思われるのに、重要な教典である『太極拳論』の実践的解釈があまり進んでおらず、単なる観念的・表面的な理解に留まっている、ということだ。
「ああ、あのテキストのこの部分は、ほら、こういう状態を指しているんだよ。ここはこう、そこはこれ・・」と、何を尋ねても明快に、誰でも納得できるように、具体的なわざをもってハッキリ示せる人というのは、太極拳をやっている(歴史上やってきた)すべての人間の中でも、ごく少数なのかもしれない。
栁田君は、取りあえず、ご苦労様。
柳田さん、大変な作業、ありがとうございました!
ほとんど理解できていなかった『太極拳論』が、これほど面白く感じられるとは想像以上でした。
先生が、「明、暗、化」について疑問を呈されていますが、これは私も太極拳修業時代から違和感を覚えておりました。
先日の合宿稽古会で、先生から龍宮道のわざが「化」の段階を自然に顕わしていることについてお聴きしましたが、それなら「明、暗、化」が勁の三つの段階として扱われることに納得がいく、と参加者の皆さんと話していたところです。
『太極拳論』について、一般的な読み下し文を読みますと、何か半テンポ遅れているような、根幹から離れていくような感覚がありますが、ある程度意味を知った上で、漢文そのものを読むと、より本質的に響いてくるものを感じます。
また、文の内容が常に対をなすようになっているのは、レット・オフ感覚を元にしているためではないか、とも感じました(イメージを膨らませすぎかもしれませんが)。
少し前に先生から「我順人背謂之粘」について、必ずしも物理的に背後に張り付くとは限らない点についてご注意がありましたが、レット・オフの感覚を元にすると、順という方向性に対して、裏返った背であることが自然に感じられてくるように思います。
「人剛我柔謂之走」の剛と柔ということについて、先日の練修会で、攻め手はゆっくり突いているのに、術者が焦って防御の手を素早く当ててしまっている、という状況がありました。
相対的に相手より自分の方が剛となってしまっているわけですが、術者が柔の在り方であれば、自然と相手の体に張り付き(粘)、触れ合いによる双方向的な流れからこちらの動作が自然に導かれます(走)。
粘と走の分かちがたい関係を感じていましたが、「黏即是走,走即是黏」の一文は非常に納得できるところです。
『太極拳論』の読みわけを任せていただき、私こそ感謝いたしております。
先生や佐々木さんからのねぎらいのお言葉が身に沁みます。
さすがに大変でしたが、何とか最後まで辿り着けました。
私自身が驚いています。現代日本語をいくらか学んだ中国人が、『五輪書』を原文で読もうとするようなものですから。
当初は、「古文だから辞書にない言葉も多そうだ」と身構えていましたが、実際に読んでみると、意外にも現代でも使われている言い回しが多く、大きな辞書なら載っているものもありました。案ずるより産むがやすし、ということでしょうか。
最後に、今まで読み下した文を、先生からご指摘を受けた点を修正して繋げてみました。まだ真義不明な箇所もありますが(「左重則左虛,右重則右杳。仰之則彌高,俯之則彌深。」など)、現時点での成果として、原文と共に掲載します。
太極者,無極而生,(動静之機,)陰陽之母也。動之則分,靜之則合。無過不及,隨曲就伸。人剛我柔謂之走,我順人背謂之黏。動急則急應,動緩則緩隨。雖變化萬端,而理唯(惟)一貫。由著(着)熟而漸悟懂勁,由懂勁而階及神明,然非用力之久(『用功』/『功力』之久),不能豁然貫通焉。
虛領頂勁,氣沉丹田。不偏不倚,忽隱忽現。左重則左虛,右重則右杳。仰之則彌高,俯之則彌深。進之則愈長,退之則愈促。一羽不能加,蠅蟲不能落。人不知我,我獨知人。英雄所向無敵,蓋皆由此而及也。
斯技旁門甚多,雖勢有區別,概不外壯欺弱,慢讓快耳。有力打無力,手慢讓手快,是皆先天自然之能,非關學力而有為也。察「四兩撥千斤」之句,顯非力勝,觀耄耋能禦眾之形,快何能為。
立如枰準,活似車輪。偏沉則隨,雙重則滯。每見數年純功,不能運化者,率皆自為人制,雙重之病未悟耳。欲避此病,須知陰陽。黏即是走,走即是黏。陰不離陽,陽不離陰,陰陽相濟,方為懂勁。懂勁後愈練愈精,默識揣摩,漸至從心所欲。
本是捨己從人,多誤捨近求遠,所謂「差之毫釐,謬之千里」,學者不可不詳辨焉,是為論。
太極は無極にして生ず。動静の機、陰陽の母なり。動これ則ち分、静これ則ち合。過ぎたるも及ばざるも無く、曲に随い伸に就く。人、剛にして、我、柔なる、これを走という。我、順にして、人、背なる、これを粘という。動くこと急なれば、則ち急にして応ず。 動くこと緩なれば、則ち緩にして随う。変化万端と雖も、而して理は唯、一貫す。熟するにつれて漸く勁を悟懂し、懂するに由りて階は神明に及ぶ。然るに用力これ久しくあらざれば、豁然として貫通すること能わず。
領を虚しゅうして頂を勁め、氣を丹田に沈む。偏倚らず、忽ち隠れ、忽ち現わる。左重ければ則ち左が虚、右重ければ則ち右が杳。仰ぎてはこれ則ちいよいよ高く、俯きてはこれいよいよ深し。進みてはこれ則ちいよいよ長く、退きてはこれ則ちいよいよ促る。一羽も加うる能わず、蝿虫落とすこと能わず。人、我を知らず、我独り人を知る。英雄の向かうところ敵無きは、けだし皆これによりて及ぶなり。
この技の旁門は、はなはだ多し。勢は区別ありといえども、概して壮は弱を欺り、慢は快に譲るのみに外ならず。有力が無力を打ち、手慢が手快に譲る、これ皆先天自然の能うる、学力に関わらずして有為なり。察するに「四両が千斤を撥く」の句は、非力にして勝つことを顕わす。耄耋の能く眾を禦するの形を観るに、快、何を能く為す。
立つこと枰準のごとく、車輪に活似す。偏りて沈めば則ち随いて、雙重則ち滞る。数年純功して運化能わざる者を見るごとに、率皆自ら為して人を制し、雙重の病を未だ悟らざるのみ。この病を避けんと欲すれば、須らく陰陽を知るべし。粘即ちこれ走、走即ちこれ粘。陰は陽を離れず、陽は陰を離れず、陰陽相済し、まさに勁を懂すると為す。勁を懂りて後は、いよいよ練れば、いよいよ精す。黙して識りて、揣摩して、漸く心の欲する所に従るに至る。
本は是、己を捨て人に従う、多くは誤りて近きを捨てて遠きを求む、いわゆる「差は之毫釐、謬は之千里」、学ぶ者詳らかにせずして弁るべからず。是を論と為す。
編注:現時点で不明の箇所や疑問が残るところは下線で示した。
まだまだ、観直す点はあると思いますし、次は適切な口語訳を作る段階に入りますが、ここまでやり通すことができました。
取り組んでみて、実に面白かったです。
これを中国語で言えば、「有勁(ヨウジン)」になります。
<2022.04.09 鴻雁北(こうがんかえる)>