Healing Discourse

『太極拳論』を語る 第六回 1億5千万の太極拳愛好家たちへ、愛を込めて

高木一行:編

【高木】

 一説によれば、太極拳は現在、世界150以上の国と地域に伝わっており、愛好者の数は1億5000万人だという。日本の太極拳人口は150万人とのこと。

【栁田】

『太極拳論』を翻訳していて、自分の未熟さを感じましたが、1億5千万人もの人々が、自分自身の体験に基づいて明快に説明できずにいるとは、想像もしていませんでした。
 中国語のサイトをいくつか見ても、「斯技旁門甚多」というだけあって流派によって解釈がかなり分かれるようですし、翻訳に際して参考になることもありましたが、混乱することもしばしばでした。

 それでは、『太極拳論』の口語訳に取り掛かります。

 ・太極者,無極而生,動静之機、陰陽之母也。
 まず、「太」は「最高」「最大」といった意味になります。中国語では「太っている」「肥満している」という意味で使うことはありません。
 それを「極めている」わけですから、「徹底的に極めつくしたもの」ということになります。
『現代漢語大詞典』という中国の国語辞典では、「太極」を「我が国の古代の哲学家が最原始の混沌の気を称したもの」と述べていました。
 同じく「無極」は、「我が国の古代哲学の中で宇宙の万物の根源と認識されているもの。形も姿もなく、音も色もなく、始まりも終わりもなく、指すべき名もなく、故に無極と称す」とありました。
 以上を踏まえると、以前先生がおっしゃっていたように、太極と無極は本来同じものといえそうに思えます。
 よって、口語訳はストレートに、
「太極は無極にして生ずる。それは動静のきざし(きっかけ、はずみ)であり、陰陽を産み出す母である。」
 
・動之則分,靜之則合。
「動とはこれすなわち分かれること、静とはこれすなわち合わさること。」
 肥田春充がどこかで、「宇宙を成り立たせる根源作用は、凝集と拡散である」と述べていました。凝集・拡散はヒーリング・アーツの基本(にして奥義)でもあり、龍宮道でも重んじられていて、ここで述べられている静(合)と動(分)に対応するものだと思います。

 現代科学の宇宙論で、混沌からビッグバンが発生して万物が誕生し、宇宙が形成された、と言われるのに似ているようにも思います。

・無過不及,隨曲就伸。
「過ぎたるも及ばざるもなく、(相手が)曲がれば(我は)それに随い、(相手が)伸びれば(我は)それにく。」

・人剛我柔謂之走,我順人背謂之黏。
「相手が強剛で我が柔軟、これを『走』といい、我が『順』(自然な状態)で相手が『背』(自然にそむく不自然な状態)、これを『粘』という。」

・動急則急應,動緩則緩隨。
「(相手が)急に動くなら(我も)急な動きで応じ、(相手が)緩やかに動くのであれば(我も)緩やかにしたがう。」

・雖變化萬端,而理唯(惟)一貫。
「様々に変化するといえども、道理は常に一貫している。」

・由著(着)熟而漸悟懂勁,由懂勁而階及神明,然非用力之久(『用功』/『功力』之久),不能豁然貫通焉。
「習熟するにつれようやく勁を理解できるようになり、勁の理解によって神明の域に及ぶが、努力しないままでは、世界が急に開けて(神明の境地へと)貫き通ることはできない。」

 上記の箇所について、私は最初「由着熟」を「熟するままに」と訳し、「技」ではないだろうと思っていましたが、さらにいろいろ調べてみると「着」は「招(武術の動きとか、碁や将棋の「一手」という意味にもなる)」と同じ意味に使われることもあることが判明しました。
 中国語のサイトを色々見ると、やはり「武術の動作」という意味で解釈しているものが多いようです。そのため、私の解釈も正しいとは言い切れません。
 でも、「由着熟」を「技(という形)を練ることによって」と訳せるものなのかと考えると、原文の「熟」が曲解されているように思います。

 今回は以上になります。

【東前】

 太極拳の奥深い世界が、中国語にも太極拳にもうとい私にも徐々に魅力を持って感じられてくることをありがたく思っております。 
 最近『太極拳論』に関する書籍をいくつか購入し、読み進めているところですが、同じ文章が人により、流派により、まったく解釈が異なる場合があることは驚きでした。
 例えば「耄耋能禦眾」(文字通りの意味は、「老人が大勢の相手を御する」)を、ある本では「永く生きて経験を積んだ老人の言葉が聴衆を魅了する」としていますが、高齢の武術師範が攻撃してくる多数の相手を易々と操ってしまうような動画がインターネットでも公開されており、体力にまったく頼らない先生のわざを自らの身体で実体験してきてもいるわけですから、「老人が多数の相手を(武術的に)御する」とした方が腑に落ちる感覚があるのですが、もちろん素人の愚見に過ぎません。

【高木】

「由着熟」は、栁田君が言うように「(内面的に)熟する」ことそのものなのか、それとも「技(外側の形式、型)」の習熟について述べているのか? 太極拳のことはしばらく置き、龍宮道ではどうなのか再確認してみよう。
 承知の通り龍宮道には型が(少なくとも今のところ)ない。だから、型(形)をよく稽古してそれに習熟すれば勁という未知の作用が現われてくる、といった発想がそもそも起こらない。固定的な(動きがあらかじめ制定された)型の中にその本質を探り求めることを龍宮道はせず、自由自在に変化してゆく在り方そのものをダイレクトに目指す。
 こういうところが太極拳と龍宮道の違いといえるのかもしれないが、太極拳のいろんな型をたくさん覚えて熱心に修練している多数の人々が、長年かかっても本物の(修行者自身が深く納得し・満足できる)勁へとたどり着けない厳しい現実があることも、また事実であろう。
 今、自分自身の身体に実際に起こりつつある自らの実体験を根拠として、「由着熟」を「習熟するにつれて」と読む栁田君の解釈を、私は採る。

 ここまでの口語訳は、現時点ではこれ以上手を入れる必要性を感じない。

【栁田】

 ありがとうございます。
 いろいろ調べ直し、今まで公刊された関連書籍にも目を通しながら、さらに口語訳を進めてみました。

・虛領頂勁,氣沉丹田。
うなじを虚にしていただき(頭頂)をつよめ、氣を丹田に沈める。」

・不偏不倚,忽隱忽現。
「偏ることなく、たちまち隠れ、たちまち現われる。」

・左重則左虛,右重則右杳。
「相手が左に重きを置いたら、こちらは左を虚にし、右に重きを置いたら右を杳とする。」
 
・仰之則彌高,俯之則彌深。
「仰げば更に高く、下を向けば更に深まる。」

・進之則愈長,退之則愈促。
「進めばますます遠くなり、退いたらますます近づく。」

 一羽不能加,蠅蟲不能落。
「羽毛(の軽さ)を加えることもできず、蝿(ほどの軽さ)を差し引くこともできない。」

・人不知我,我獨知人。
「相手は我を知らず、我一人のみ、相手を知る。」

・英雄所向無敵,蓋皆由此而及也。
「英雄の向かう所敵なしとは、だから、すべてこれによってなし得るのである。」

 今回はここまでとします。

【高木】

 今回の口語訳には、栁田君が前に述べていたことから随分飛躍していると感じられる箇所があり、他所よその意見を参考にした結果なのだろうが、ちょっと立ち止まって検証してみよう。
「左重則左虛,右重則右杳。 仰之則彌高,俯之則彌深」というところが、前からしつこく述べているが、私にはどうもよくわからない。主語がないことが悪さしているのだと思う。栁田君が言うように「相手が左を重くすればこちらは左を虚にする、云々」であるとしたら、その「左」とはこちらから観て左なのか、相手にとっての左なのか、そもそも右とか左というからには正面から向かい合っている態勢を前提としているのか、・・・など、細かいことをうるさく言うようだが、しかし重要なことではあるまいか。
 それに続く「進之則愈長,退之則愈促」も、今回の口語訳のように「進めばますます遠くなり、退いたらますます近づく」とすると、何となくわかるようでいて、よく考えると全然わからない(呵々大笑)。
 わかるとかわからない、と言っているのは、誰もが納得できるように実際のわざで示せるか否か、ということだ。
 この箇所を以前栁田君は、「(相手が)退けば(こちらは)せまる」と読んでいてなかなか面白い(し、わざとしても納得できる)と思ったのだが、先人の意見は参考にするとしても、それに追従せず、自分自身の考えを堂々と述べればいいのだ。
 上記以外は、特に問題なかろう。

【栁田】

 先生がご指摘されたとおり、主語が明記されてないのが厄介です。
『太極拳論』に限らず、中国の古典文語文には主語や目的語の省略が多く、多くの学者を悩ませてきました。
 前後の文脈から推測するほかなく、その結果、中国人の間でも解釈が分かれますし、日本人学者の誤訳を招く一因にもなります。
 
 この文章の場合は、「我」と「人」について述べているのですから、自分と相手がいることを想定して論じているはずです。
 とすると「進之則愈長,退之則愈促」は、「相手はどんなに進んでもこちらとの距離を縮めることができず、相手が退いたらこちらが迫る」と解釈するのがより自然だと思います。
 お釈迦様の手の上の孫悟空みたいなもので、まさに自由自在であるということでしょう。

 どうやら、いろいろと混乱していたようです。
 先生のご助言通り、自分自身の意見を直言するよう心がけます。

<2022.04.10 鴻雁北(こうがんかえる)>