高木一行:編
前回出てきた不明の(よくわからない)箇所を、その前後を含め、先人らはどんな風に説明しているのか、試みにいくつか並べて比較してみる。これはもちろん他者・他流を軽率に批評・批判しようとするものではなく、あくまでも参考のため、だ。
原文
不偏不倚,忽隱忽現。
左重則左虛,右重則右杳。
仰之則彌高,俯之則彌深。
進之則愈長,退之則愈促。
口語訳1(要点のみ抜粋)
ひとつの技にとらわれることなく、機に臨んで自由自在に変化する。
左が重ければすなわち左を虚にする。右が重ければそちらを杳(よう)にする。
相手が上に向かおうとしているとすればもっと高く、下に向かおうとしているとすればさらに低く。
相手が前に進んで来れば、「長」はもっと前に進ませること。前進は攻撃を意味するから、さらに攻撃を持続させること。同じように退は防御だから、もっと退くよう促す。・・・(中略)・・・つまり、相手の攻撃や行動を食い止めるのではなく、動きを促して極に達するのを助けてやる。(楊進『至虚への道』)
口語訳2
体は一方にかたよることなく、常に中正を保ち、内部の“勁”は、人の予測を許さず、現れたり、隠れたりするようにする。
自分が左に“重”を感ずれば、即時左を“虚”にし、右に“重”を感ずれば、即時右を“杳”にする。
相手があおむけば、自分はすぐさま益々高くなり、相手がうつむけば、自分はすぐさま益々深くなる。
相手が進めば、自分はすぐさま益々長く(遠く)なり、相手が退けば、自分はすぐさま益々促すのである。(銭育才『太極拳理論の要諦』)
口語訳3(『太極拳論』全文の解釈はなされてない)
自分の体が上方に向けば相手の高いところ、沈めば深いところに届く。
進み入るときは、相手の身体から遠いところで効くように入り、退けば、相手の反応よりも速く相手を捉えることができる。(沈剛『太極拳講義』)
・・・人によって随分意見が異なるものだ。主語(自分と相手)が完全に入れ替わっているケースもある。
上記の著者の中には、私より若干年下の人もいらっしゃるが、こと太極拳の修業においてはいずれも大先輩と呼ぶべき方々ばかりであり、非才浅学にしてすでに太極拳から離れて久しい私などが論評めいたことを述べるのはいささか気が引ける。が、先人の意見に対しては十全の敬意を払いつつ、参考にもさせていただきながら、それにとらわれることなく、我々独自の解釈を進めてゆくこととしよう。
左重則左虛,右重則右杳。
仰之則彌高,俯之則彌深。
進之則愈長,退之則愈促。
視野をちょっと拡げ、上記の文章の全体像を観る。と、各文章が左右、上下、前後の6方向について述べる構造となっている。
最後の「進之則愈長,退之則愈促」については、栁田君の解釈に従い「(相手が)進めば(我は)いよいよ遠くなり、(相手が)退けば(我は)ますます促る」とするのが自然だろう。つまり、「相手はどんなに進んでもこちらとの距離を縮めることができず、相手が退いたならこちらが促る」というわけだ。
最初の「左重則左虛,右重則右杳」は、先に挙げた先人らの見解がほとんど一致しており、「(自分の)左に重さを感じるなら左を虚にし、右が重い時は右を杳(暗くハッキリしないこと)にする」となっている。龍宮道の在り方とも矛盾しないので、今はそれに従うことにする。
残る「仰之則彌高,俯之則彌深」だが、「俯之則彌深」で相手が俯くような状況として、例えば勢いよくタックルして来るようなケースを想定すると、こちらは瞬時に相手よりもさらに低く(深く)意識を落として迎えなければ易々とひっくり返されてしまう。
であれば「仰之則彌高」は、「(相手が)仰げば、(我は)さらに高く」となりそうだが、相手が伸び上がって上から強打を叩き込もうとするのに対し、そのさらに上から抑える気分で制することなどを指すのだろうか。
あるいはヒーリング・アーツの観点からは、「仰ぐ」とか「俯く」というのは、非常に微細なレベルにおける意識の方向性の変化を指している可能性もある。
取りあえず現時点では、以下のように口語訳をまとめておく。
「(自分の)左が重ければ左を虚にし、右が重い時は右を杳(暗くハッキリしないこと)にする。
(相手が)仰げば(我は)ますます高く、(相手が)俯けば(我は)ますます深く。
(相手が)進めば(我は)いよいよ遠く、(相手が)退けば(我は)いよいよ促る。」
太極拳論の口語訳をさらに進めてみました。
参考になりそうな書籍にいろいろ目を通したり、単語や言い回しの文例を調べたり、こなれた訳文にするため試行錯誤してきましたが、結局、先生にわざをかけていただいた時のことを思い出しながら進めていくのが最適だと感じています。
・斯技旁門甚多,雖勢有區別,概不外壯欺弱,慢讓快耳。
「この技には多くの流派があり、その流儀に区別があるとはいえ、概して強者が弱者を侮り、遅い者が素早い者に負かされているだけに外ならない。」
・有力打無力,手慢讓手快,是皆先天自然之能,非關學力而有為也。
「力の強い者が無力な者に勝ち、遅い者が速い者に負かされるのは、すべて持って生まれた素質によるものであって、学んで得たものとは無関係に為したことだ。」
・察「四兩撥千斤」之句,顯非力勝,觀耄耋能禦眾之形,快何能為。
「『四両(125g)が千斤(500kg)を弾く』という言葉から察するに、非力が勝つことを表わしているし、老人が多数を御すのを見るに、(そのような勁を悟った人に対し)単なる速さが何の役に立つだろうか。」
・立如枰準,活似車輪。
「秤のようにバランスをとって立ち、四肢を車輪が回るように滑らかに動かす。」
・偏沉則隨,雙重則滯。
「受けた力をその赴くままに沈ませれば「随」となり、そうせずに力に力で対抗して双方の力が重なり合ったら「滞」となる。」
・每見數年純功,不能運化者,率皆自為人制,雙重之病未悟耳。
「何年も一心に修練していながら、化(勁)を使えずにいる者を見ると、大抵は自分の力で相手を制御しようとして、(その力を相手の力と重なり合わせぶつけてしまっている)「双重の病」にいまだ気づかずにいるだけである。」
・欲避此病,須知陰陽。
「この病を避けたいのであれば、すべからく(是非とも)陰陽を知ることだ。」
・黏即是走,走即是黏。
「粘は則ち走であり、走は則ち粘である。」
・陰不離陽,陽不離陰,陰陽相濟,方為懂勁。
「陰は陽を離れず、陽も陰を離れず、陰陽はお互いに補完し合っており、(それらを踏まえることによって、)まさに勁の理解が為される。」
・懂勁後愈練愈精,默識揣摩,漸至從心所欲。
「勁を理解した後、修練すればするほど、一心に学んで研鑽して、ようやく思い描いた境地に至る。」
・本是捨己從人,多誤捨近求遠,所謂「差之毫釐,謬之千里」,學者不可不詳辨焉,是為論。
「本来は己を捨てて人に従うものなのに、多くは近くをおろそかにして遠くを求めていて、いわゆる「ごくわずかな差が大きな過ちに繋がる」であり、学ぶ者はそれをよく弁えなくてはならない。
これが、言わんとするところである。」
以上になります。
今回、口語訳を作成するにあたり、『太極拳論』のサイトにあった原文をブラウザの読み上げ機能を使って中国語で音読させ、何度も聞いてみました。
そして、先生からのお言葉と実際に技をかけられたときの体験を吟味しながら、他にはあまり細かいことを考えないで何度も聴き続けていると、王宗岳が直接語り掛けてくるような心地がしました。
太極から陰陽が生じ、そこから動と静、我と人、粘と走などが出現し・・・、物語となって生き生きと感じられました。
その結果、今までに比べたら、自然な訳文が出てきた感じがします。
最初は意味がわからなくても、原文に直接向き合うことが肝心なのだと思いました。
当初に比べたらこなれてきたとは思いますが、まだまだ改善できそうに思えますので、先生と皆様の検証を、お願いいたします。
栁田君、ご苦労様。
これから<体話>を通じ、『太極拳論』を語り合ってゆこうとするにあたり、基盤となるテキストとして充分なレベルだ。
今後、身体で検証してゆくうち、さらに新たな解釈が生まれてくるかもしれない。
上記のうち、「立如枰準,活似車輪。偏沉則隨,雙重則滯」がわかりにくいと感じていたのだが、一方が沈み他方が上がることで車輪というものは回転し・滑らかに進む(随う)ことを思えば、「片方が沈めば随い(偏沉則隨)、双方が重くなれば滞る(雙重則滯)」と、ごくシンプルなことを述べているのかもしれない。
聖書の『出エジプト記』に「魔女は生かしおくべからず」と記されていることが中世の魔女狩りへとつながったのだが、「魔女」とは実は、「害悪を及ぼす者」あるいは「毒殺者」の<誤訳>であるという。それにより無実の女性達が大勢火あぶりにされ殺されたことを思えば、誤訳にはいくら注意してもしすぎということはないわけだが、我々もせいぜい気をつけるとしよう。
ご評価いただき、ありがとうございます。
先生がおっしゃったことを改めて吟味してみると、「活似車輪」も、拙訳の「車輪のように滑らかに手足を動かす」が不自然に思えてきました。
「活似」が生かされていないからです。
活似は、「酷似している」「よく似ている」という意味なので、先生の解釈なら「車輪に似ている」と活似をうまく生かして訳せそうです。
これを、「立つこと秤のごとく、というのは車輪によく似ている。片方が沈めば(もう片方も)それに随うし、双方とも重ければ滞りとなる」とするのはいかがでしょうか?
つまり、清朝の秤は天秤だったはずですから、片方の皿に何かを載せたらそちらは沈み、もう片方の皿もそれに従って浮きますし、ちょうど車輪が回るようなもので、両方とも重かったらそのまま停滞する、ということを理解しやすくできるのではないでしょうか。
他にも、検証したら修正の必要が出てくるように思えます。
じっくりと見極めていきたいと思います。
最初はずいぶん固い訳でしたが、何度も読んで、先生からのご助言を拝読し検証し直し続けていくうちに、より自然な訳になっていくのはやりがいを感じました。
何しろ、擬古文ですし、主語や目的語の省略は多いし、何が正しいのか皆目見当もつかなかったのですが、何度も読んでいくうちに道筋が観えてきたようにも思えました。
もしかしたら、あえて詳しくは書きすぎないようにして、キーワードとなる言葉だけ示し、それをヒントに自分で取り組むようにということなのかもしれません。
特に締めくくりの部分は、後世に学ぶ私たちのことを想定しているはずですから。
芸を学ぶ世界では「守破離」とか「序破急」と言い、書道では「楷書、行書、草書」がありますし、この『太極拳論』を検証するにあたっても「明勁、暗勁、化勁」という言葉が出てきましたが、中国の翻訳業界では「信、達、雅」と呼ぶものがあります。
「信」は原文に忠実なこと、「達」は訳文がこなれて読みやすくなっていること、「雅」は訳文に美しさが感じられること、とされています。
これから、「体話」を通じて検証を重ねていけば、「雅」の領域にまで行き、「龍宮道訳」と呼べるものになるのではと期待しております。
最後に、口語訳をさらに修正してまとめたものを、原文と共に掲げます。
太極者,無極而生,(動静之機、)陰陽之母也。動之則分,靜之則合。無過不及,隨曲就伸。人剛我柔謂之走,我順人背謂之黏。動急則急應,動緩則緩隨。雖變化萬端,而理唯(惟)一貫。由著(着)熟而漸悟懂勁,由懂勁而階及神明,然非用力之久(『用功』/『功力』之久),不能豁然貫通焉。
虛領頂勁,氣沉丹田。不偏不倚,忽隱忽現。左重則左虛,右重則右杳。仰之則彌高,俯之則彌深。進之則愈長,退之則愈促。一羽不能加,蠅蟲不能落。人不知我,我獨知人。英雄所向無敵,蓋皆由此而及也。
斯技旁門甚多,雖勢有區別,概不外壯欺弱,慢讓快耳。有力打無力,手慢讓手快,是皆先天自然之能,非關學力而有為也。察「四兩撥千斤」之句,顯非力勝,觀耄耋能禦眾之形,快何能為。
立如枰準,活似車輪。偏沉則隨,雙重則滯。每見數年純功,不能運化者,率皆自為人制,雙重之病未悟耳。欲避此病,須知陰陽。黏即是走,走即是黏。陰不離陽,陽不離陰,陰陽相濟,方為懂勁。懂勁後愈練愈精,默識揣摩,漸至從心所欲。
本是捨己從人,多誤捨近求遠,所謂「差之毫釐,謬之千里」,學者不可不詳辨焉,是為論。
太極は無極にして生ずる。それは動静のきざし(きっかけ、はずみ)であり、陰陽を産み出す母である。動とはこれすなわち分かれること、静とはこれすなわち合わさること。過ぎたるも及ばざるもなく、(相手が)曲がれば(我は)それに随い、(相手が)伸びれば(我は)それに就く。相手が強剛で我が柔軟、これを「走」といい、我が「順」(自然な状態)で相手が「背」(自然に背いた不自然な状態)、これを「粘」という。(相手が)急に動くなら(我も)急な動きで応じ、(相手が)緩やかに動くのであれば(我も)緩やかに随う。様々に変化するといえども、道理は常に一貫している。習熟するにつれようやく勁を理解できるようになり、勁の理解によって神明の域に及ぶが、努力しないままでは、世界が急に開けて(神明の境地へと)貫き通ることはできない。
領を虚にして頂(頭頂)を勁め、氣を丹田に沈める。偏ることなく、たちまち隠れ、たちまち現われる。(自分の)左が重ければ左を虚にし、右が重ければ右を杳(昏くハッキリしない様)にする。(相手が)仰げば(我は)ますます高く、(相手が)俯けば(我は)ますます深く。(相手が)進めば(我は)いよいよ遠く、(相手が)退けば(我は)いよいよ促る。羽毛(の軽さ)を加えることもできず、蝿(の軽さ)を差し引くこともできない。相手は我を知らず、我一人のみ、相手を知る。英雄の向かう所敵なしとは、だから、すべてこれによってなし得るのである。
この技(武術)には多くの流派があり、その「勢(他を抑え、取り仕切る力)」に区別があるとはいえ、概して強者が弱者を侮り、遅い者が素早い者に負かされているだけに外ならない。力の強い者が無力な者に勝ち、遅い者が速い者に負かされるのは、すべて持って生まれた素質によるものであって、学んで得たものとは無関係に為したことだ。「四両(125g)が千斤(500kg)を弾く」という言葉から察するに、非力が勝つことを表わしているし、老人が多数を御すのを見れば、(勁を悟った人に対し)単なる速さが何の役に立つだろうか。
立つこと秤のごとく、というのは車輪によく似ている。片方が沈めば(もう片方も)それに随うし、双方とも重ければ滞りとなる。何年も一心に修練していながら(自在に応用変化してゆく)化(勁)の運用ができない者を見ると、大抵は自分の力で相手を制御しようとして、(その力を相手の力とぶつけてしまう)「双重の病」にいまだ気づかずにいるだけである。この病を避けたいのであれば、すべからく(是非とも)陰陽を知ることだ。粘は則ち走であり、走は則ち粘である。陰は陽を離れず、陽も陰を離れず、陰陽は互いに補完し合っており、(それらを踏まえることによって、)まさに勁の理解が為される。勁を理解して後、修練すればするほど混じり気がなく純粋となり、一心に学んで研鑽して、ようやく思い描いた境地に至る。
本来は己を捨てて人に従うものなのに、多く(の修行者)は近く(自己の内面)を顧みることなく遠く(自己の外面)を求めていて、いわゆる「ごくわずかな差が大きな過ちに繋がる」というものであり、学ぶ者はそれをよく弁えなくてはならない。以上が、(筆者の)言わんとするところである。
<2022.04.11 鴻雁北(こうがんかえる)>