Healing Discourse

『太極拳論』を語る 第八回 自らの身体に問いかける

高木一行:編

【高木】

『太極拳論』を身体に問う作業に入りたいと思う。
『太極拳論』を我々自身の血肉と化すプロセスについては、リモート・ラーニングや言葉だけでなく、やはり自分自身の身体をもって一々味わい、確かめてゆきたいだろうから、そのための場を今後設けてゆくとして、諸君にまず、一つ尋ねたいことがある。

 かつて私が学んだ陳氏太極拳(老架式、新架式)では、静かに立つ「無極式」より「起勢」、そして「金剛搗臼」「懶扎衣」「単鞭」「第二金剛搗臼」「白鶴亮翅」・・・と、わざが連続してゆくのだが、実際に太極拳を学んだことがない者でも何となくイメージできるだろう。
 そこで問いたいのは、上記のようなわざを、諸君は「どのように数えるか」ということだ。これは、太極拳という武術の根幹に関わる問いといえる。
 1、2、3・・・それ以外のどんな数え方があるのか。たぶん、現在地球上に1億5千万人いるとされる太極拳愛好家のほとんどが、そんな風に考えるのだろう。が、「太極拳」という名称そのものが、「そうではない」と雄弁に語っている。
 太極は無極にして生じ、動静の機、陰陽の母なり。・・・『太極拳論』冒頭のこれらの言葉を実際に我が身に体現する時、1つ2つと数えられるようなわざの連なりとして太極拳というものを観ることは、もはや不可能となる。

 そもそも「太極」とは何か? 太は栁田君も述べていたが、「大いなる」とか「神秘的な」「偉大な」といった意味だ。大いなる神秘の極(性)であり、動や静のきざし(きっかけ、はずみ)となったり、陰陽の二元を産み出したりする、そういうもの。
 そして、無極にして太極が生じるとは、無極というものがあって、そこから太極が生まれる(=無極と太極の関係が、産むものと産まれたもの、という別々のもの)ということではなく、無極そのものが自然に変化して太極が生じる、と述べているのだ。つまり、無極と太極とは分かたれた別々のものではなく、一つの同じものが、それぞれ異なる相を表わしたものに過ぎない、と。

 これほどヒントが与えられれば、先ほどの問いかけに対する答えは、自ずから明らかだろう。
 然り。「ただ1つのみ」である。
 その一つ(無極式)が瞬間的に・微細な粒子レベルで全解体され、全身あちこちが同時に・別々に・しかも全体的統一を維持しつつ(=中心を保ちつつ)、トランスフォーム(変形、変身)する。それに次の(別の)わざが続くのでなく、また瞬時に解体されて新しい動きが生まれる。それが繰り返される。
 1つのわざ、というよりは一瞬ごとに、死(破壊)と再生(創造)が起こっている。瞬間瞬間が、常に新しい(相手にとっては予測不可能)。
 これこそ、太極拳が太極拳たる所以ゆえんだ。
 すなわち、太極によって産み出される陰陽、剛柔、引進、虚実などの極性(二元性)をいかに活用するかに心を配りつつも、そうした「分極化」の先にあるものではなく、逆にその根源にある「極性の大本おおもと(太極)」へと、常に意識を向け続けようとする態度・姿勢。
 そして、前述の如く、刻々と千変万化する唯一の「一」を実際に体現するためには、動きの中枢というものがどうしても必要だが、この必要性に見事に応えてくれるのが、龍宮道の腰なのだ。

【大島】

 先生に問われるまでは、太極拳のわざをどう数えるのかについては考えを巡らせたことさえもありませんでした。そんなこともわかっていない状態で太極拳の何を学んでいるのか! と我ながら恥ずかしく思う次第です。
 3月の第六回合宿稽古会には参加できませんが、別の機会に実体験させていただくことを強く希望いたします。どうぞ、よろしくお願いいたします。

【栁田】

 翻訳していた私自身、そこまで深く考えていませんでしたので、驚きの連続です。

「無極式が解体され、新しい動きが生まれて、それが繰り返される」のお言葉に感じ入ります。
 翻訳の作業が、まさに原文を解体して日本語に組み立て直すことの繰り返しでした。
 単語を訳しても、文として理解できず、文を何とか訳しても、次の文とのつながりが理解できずにいて、難儀しました。

「わざをどのように数えるのか?」とのご質問には、一般的には「第一手、第二手」と言いますし、中国語なら「第一招、第二招」と数えますが、「ただ一つ」と断言されたのは衝撃的でした。
 翻訳作業も単語や文を個別に直訳しただけでは読みづらくて理解できないものになってしまいますが、部分にとらわれて全体を見渡していないことから生じるものなのだと今更ながら気づきました。
 何度も読み直して、『太極拳論』が一つの流れとして感じられるようになった時、自然に言わんとすることが伝わってきて、訳文がこなれてきたのを実感しました。
 学生時代の英語や古文・漢文の授業でそのことに気づいていればよかったのですが。
 でも、気づけただけでもありがたいことですし、今後の翻訳作業に生かす所存です。

 これから、本格的に検証していくにあたり、どのように展開されていくのか、楽しみです。
 私も合宿稽古会には参加できませんが、実体験させていただく機会を希望しております。

【佐々木】

 先日、ヒーリング・ムービーを観照しつつ、トリニティ(上体、中体、下体における虚実配分)、特に上体が虚となることを心がけながら動いていると(心がけると実になるので言葉通りではありませんが)、太極拳のあらゆる動きが、トリニティであり続けることだということが突如感じられてきた瞬間があり、どこかである武術家が「站樁功(注)の感覚を常に保ち続ける」と言っていたことや、「一気通貫」といった言葉が思い起こされてきました。
 その後、先生のご教示を拝読し、深く驚き、納得した次第です。

 太極拳を始めた当初を思い出したのですが、初心者ながらに表演を観ていると、どこからどこまでがなんのわざなのか、判然とせず、いったいどういうことか、と大きな疑問として心の中にあったことに気づきました。
 太極拳に関しては長年行なっておりませんでしたが、過去にいくら努力してもできず、わからなかったことが、理会の光で照らされることが大変ありがたく、面白く、また途方もないことだと感じております。 

編注:「站樁功たんとうこう」とは、中国武術や気功などの用語で、長時間静かに立ち続けることで心身を統一させ、体内の流動・循環感覚を練る訓練法を指す。ちなみに「樁」の字のつくりは「春」ではなく、春の「日」を「臼」に換えた文字なので要注意。椿つばきの音読みは「チュン、チン」であって、「トウ」にはならない。トウは杭の意。

【道上】

「太極」拳という名称には、何か究極的な、あるいは根源的なものを感じます。ゆっくりした外見の動きの見かけと合わせて、非常に神秘的なものなのであろうと多くの人が惹かれているのだと思います。
 かくいう私もその一人であり、最初は一般に知られているようなゆっくり柔らかい太極拳に興味を持ったのですが、そのうちに実はもっと速く激しい動きの太極拳がある、その中にはさらに電撃のように速く鋭く動くものがある、といった情報に飛びついたり、ゆっくりした動きのものでも実は陰で激しいウェイトトレーニングのような鍛錬をしているとか、推手競技というものがありそこでは体が大きく力の強い人間が勝っているとか、様々な情報を浴びているうちに、はて究極的で神秘的な武術という話はどこにいったのだろうか、と、何ともいえない気持ちが襲ってくることがありました。
 先日の第5回合宿稽古会(2022.02.11~13)の折、先生がかつて学ばれた太極拳の動きの流れを、試しに龍宮道の原理によって導かれるのを拝見する機会がありました。腰と腹を根本に据えることによって自然に起こる動きは、速いとか鋭いというより、一瞬の光のまたたきのようにパッと現われては収められるというものであり、これをこうしてこう動いてわざ1つ、それが連なって型になっている、そのようなものとは質が全く違うことを感じました。

【東前】

 第6回合宿稽古会(2022.03.19~21)に参加いたしました(編注:その模様の一部は、ヒーリング・ムービー其之十二にて)。
 一つ一つの修法を様々な側面から解説いただき、また実際に先生と触れ合って感じ取ったり、さらに武術的攻防の中でわざを実体験するなど、丁寧なご指導をいただきました。先生のわざの威力、きれ、繊細さはさらに格段の深化を遂げられていて、龍宮道の凄さを感じました。
 今回、稽古を通じまして先生の祈り、ヴィション、態度、姿勢、気合があればこそ、龍宮道という賜物がもたらされているのではないかという印象を受けました。私からすると手の届かない境地に達していらっしゃる先生が、常に注意深く、修法や先人の言葉を検証され、自らの身体に問いかけていかれるお姿に接し、生半可な理解で満足し、立ち止まってしまっている自分を反省しました。先生ご自身のそのような姿勢により、学びの場がいつも新鮮で神聖さに満ちているのだと思えてきました。

 合宿稽古会では、先生の胸と背に同時にヒーリング・タッチし、わざをかけて行かれるのについていきながら感じ取る機会がありました。先生の胸も背中も常に柔らかく、胸では相手の力を吸い込むような作用、背中からは透明な流れが発されていくのを実際に感じて、これは凄いと感動しました。それは暴力的な力とは全く違う、慈悲の力とでも表現したくなるような独特の感覚でした。龍宮道とは非暴力の実践である、と先生がおっしゃる理由を体で感じることができました。この基盤があればこそ、あれだけ激しい稽古にあって、誰も怪我一つせず、元気に、ヒーリングされていくことが可能なのだと心底納得できた貴重な体験となりました。  
 相手に応じて自在に変化し、多彩なわざを繰り出されているように見える先生は、実は相手がこうきたら、こうしようなどという計らいを全て捨て去り、自らの姿勢の在り方の裡に常に留まり続けていらっしゃる、これこそまさに「遠きを捨てて近きを求める」ということなのではないか?! と思いました。

 余談ですが、稽古をしっかり行なった後、先生から色々な御馳走を頂戴しました。稽古により感覚が開かれていることもあったと思いますが、どれもとても美味しいというだけでなく、今まで感じたことのないような味の広がりや感覚がありました。私の場合は、日本ミツバチの蜂蜜を一口頂戴した際に、甘みの後に複雑で粒子的な味の広がりを感じ、驚きました。今まで体に良いから食べるとか、必要な栄養だから食べるといった、食に対して偏った考えを持って生きてきたことに気づきました。美味しいものをいただくことで心身が豊かに、粒子感覚が細やかになるということは、新しい学びとなりました。
 初日の稽古後、先生と一緒に皆でコンビニのおにぎりやサンドイッチをいただいた際のことです。脳のざわめきが静まり、おにぎり一個を食べるという行為に今まで使われていなかった感覚が生じて、ノリが割れる音や口の中で舌が米や具に触れ合い、細かくすり潰す感覚、そこから広がる様々な味の感覚の広がり、唾液が食べ物をゆっくりと溶かしていく感覚、体が喜んでいる感覚などを細かく感じとることができました。 
 以前、本やテレビでマインドフルネスやその源流たるヴィパッサナー瞑想のことを聞きかじって、瞑想的にゆっくり食べるということを行なってみたことがあるのですが、その時はゆっくり丁寧に動くというところに注意が向いており、この度のように様々な感覚に気づくところまではいきませんでした。修行なので、美味しさを楽しむものではない、などの先入観に囚われていたことも原因かもしれません。おにぎりを味わいながら、マインドフルネスではこのような体験を伝えようとしていたのではないか?! との思いが頭をよぎりました。

 貴重な機会と暖かいおもてなしを頂戴いたしましたことに御礼申し上げます。学びを体現できるよう修練していきます。  

【佐々木】

 この度の第六回合宿稽古会においては、人体が水であり、龍宮道のわざがまさに<波>であるということが、強烈な実感を伴って身体的に理会されました(このように書くと文面上は今更に思えてしまいますが、実際のところ、どれだけ波をありのままに感じ、わざとして運用できるか、無限の深みがあるということを実感した次第です)。
 先生にわざをかけていただくと、透明な衝撃波――時にゆっくり、柔らかく、あるいは速く、大きく、etc――が、ブワッと自身の裡へ浸透してくるのをはっきり感じるのです。
 素早く打ち込まれると、脳髄まで瞬間的に衝撃波が到達し、鼓膜がキーーンッと鳴って唖然・呆然とすることもしばしばでした。
 フェイス角度(カンペルライン)を意識した観の目で観照しますと、先生の中心から放射状に波が拡がり、攻め手が鳳凰の羽ばたきではじき飛ばされるがごとき光景に驚愕しました。

 こうした体験を経ると、固めた拳で殴り合ったりすることがいかに非能率的か、武術の攻防における概念が根底から変わらざるを得ず、縦波を駆使する龍宮道のわざがまったく異質なこと、その凄さを感じずにはいられません。
 すべてのわざを“一”と数える境地について、合宿稽古会前に予告されていましたが、先生が動かれますと、それは常に流れ続ける<舞>となっておりました。
 先生が他の攻め手にわざをかけている時、背後から先生に攻撃しますと、即座に違うわざで応じる・・・のではなく、触れ合った瞬間、自分自身もその流れの中に巻き込まれてしまい、他の攻め手と一緒に搦め捕られてしまいました。
 この一事をみても、別けて数えることのできるわざで受けているのではない、ということが明らかだと思います。 

【道上】

 第六回合宿稽古会のご報告を書かせていただきます。
 合宿稽古会にて、龍宮道の観点から読み解いた『太極拳論』についての一端を体験させていただきました。
 太極拳はいくつもの派に別れ、それぞれに型もあれば技も多く、技の名前は共通しているものがかなりあるようですが、外形や解釈ではそれぞれで違いがあり、そういったところを見聞きすると「変化万端といえども、而して理は唯、一貫す」と述べられていても、実際には非常に複雑なものであるように感じておりました。
 しかし先生のわざを体験すると、巧緻で複雑な外形の動きによってではない、柔らかい波紋様の動きや感触の中で、あれよあれよというまに崩され、後から映像で観ると自分が協力しているのではないかとすら思えるような流れに巻き込まれ、ぶつかる感覚なく崩され打たれ投げられ固められてしまいます。
 こうきたらこうする、別のやり方できたら今度はこうする、というパターン的な動きではなく、相手がこう来たので(結果として)こうなったという感じで、非常に不思議な感触でした。
 また、目の前で見えて触れ合っているにも関わらず、力の出どころが全く分かりません。
 一般に太極拳では化勁というものがあり、それは相手の動きを受けたりそらしたり吸収したりする、防御に属する効果のものとされているようですが、体験したのはどこからどこまでが防御でここからは攻撃、と分かたれたものではなく、全てが渾然一体となって繋がっていました。
 化勁の化は龍宮道的な観点からみるならばそれは変化の化であり、相手の攻撃を変化させるというような限定的な範囲のものではなく、攻撃にも防御にもあらゆる動きの中で自在に変化し続ける勁(作用)である、というお話には目を開かれる想いでした。確かにこれは一貫している、と。

<2022.04.15 虹始見(にじはじめてあらわる)>