文:高木一行
前回に引き続き、天行院(広島)にて執り行なわれた第5回合宿稽古会の動画をご紹介する。
トリニティとは「三位一体」という意味だが、身体を上体・中体・下体に分け、それぞれの虚実を正しく配分することで、「柔をもって剛を制す」ことが現実に可能となる。肥田春充(肥田式強健術創始者)が最初に唱え、私が再発見したものだ。
上体とはみぞおちから上(頭や手・腕を含む)、中体は腰と腹、下体は脚・足、それから腸骨・尻を指す。それらが、「上体は虚にして虚、中体は実にして実、下体は虚にして実(膝から上の脚が虚で、膝から下が実)」の配分となっている時、私が動画の中であれこれ示しているようなことが、ごく自然に、むしろ当然のように、行なえるようになる。
私の動きを単に表面的に見て、それらを外面的に真似ようとしても、要素があまりにも多過ぎて無理だろう。私自身、これまで何度も述べてきたように、どうやってやるか、どのように動くか、一切何も考えてない。考えると、――このことが龍宮道修行者にとって現在最大の課題ともなっているのだが――たちまちできなくなる。なぜならトリニティにおいては、CNS(中枢神経系。Central Nervous System)の中心が、脳から仙骨(神経叢)へと移っているからだ。術者である私自身が何も考えてないというのに、それを頭(脳)で分析して再現するなど、不可能ということだ。
トリニティは、武術修行者のみならず、様々な芸道、健康法、スポーツなどでも重要な意味を有している。
例えば、力を抜いてリラックスすることの大切さは多くの人が知るところだが、下半身の力まで抜いてしまったら、そもそも立っていることすらできなくなる。
それではどうしたら良いのか?
余計な力みだけを抜けばいい、というのは、正しい答えとは言えない。入れる力を小さくする、というのも不正解。そういうやり方では、真のトリニティによって自ずから顕われる、自由自在にして円転滑脱の動きは体現できない。
虚とは、実を小さくしたものではない。虚と実は、相対立する対極だ。身体感覚も異なるし、意識状態もまったく違っている。それを自らの身体を通じて体感・体得する方法論が、レット・オフだ。
最近のワープロソフトでは、「はっけい」と打ち込めば「発勁」と正しく変換されるから、中国武術の特殊な技術が今や市民権を得つつあるのかと感慨深いものがあるが、その発勁には明勁、暗勁、化勁の三段階があり、「化勁をもって最高レベルとするが、そこへ至る者は極めて少ない」と、中国武術(特に北派拳法)の世界では一般的に言われている。
そして、明勁は外から見て動きがわかる打撃の基礎段階、暗勁は至近距離から小さな動きで強い威力を発し相手を打ち倒す方法、最終段階たる化勁は相手の攻撃を受け流す技術である、とされている。
これを疑問に思う修行者は少ないようだが、明勁、暗勁までは何となく納得できるとしても、なぜ、受け流すことが暗勁を越える最高レベルなのだろう。それはむしろ防御に属する事柄であり、攻撃技術としての発勁に含めることは不自然ではあるまいか。
卑見を敢えて述べさせていただくなら、この場合の「化」とは、受け流すことではなく、自由に「変化する」と解釈すべきではなかろうか? 荘子が「自生自化」(自ずから生じ、自ずから変化する)と言う時の、「化」だ。明勁、暗勁についても、「勁」を打撃法のみに限定することなく、力とは性質の異なる統一的作用、あるいはそれを使いこなす能力を指すと考えれば、明・暗はそれがわかりやすく外に現われているか、あるいは身体内で処理され外に現われる動きが小さなものとなっているかを意味することになり、化勁とも無理なくつながる。
あらかじめ何も考えず、こうしようああしようという作為的な計らいをすべて捨て、己自身すらも捨て去って(捨己従人)、瞬間瞬間の状況変化に即時に応答してゆく、いな、自動的に応答がなされる。そんな神変不可思議なる状態を自在に発現させる能力(勁)こそ、化勁と呼ばれるにふさわしい。
そして、いかなる変化にも即応する適応能力こそ、今、人類が最も必要とするものの一つであることに異を唱える者はいないだろう。
とはいえ、これもまた我田引水・牽強付会の可能性が大きいということは、きちんと述べておかねばなるまい。中国武術(の型)を1年半弱、習っただけの私のごとき「素人」に、中国武術の奥義・秘伝の何がわかる、と言われたなら、「まったくその通りです」と素直に頭を下げるしかない。
しかしながら、現在、私が体現しているわざは、私自身がかつて熱烈にあこがれ、求めたものを、さらに・遥かに凌駕するということも、また事実なのだ。
いかように判断するか、それは読者諸氏の一人一人に委ねたい。
フルハイビジョン画質 05分51秒
動画3の途中で出てくる「ニシの比礼」は、撮影中に突然顕われてきたわざで、螺旋状に相手を巻き込み、崩し、倒すのだが、後で調べてみたらニシとは螺と書き、確かに巻き貝を指すことがわかった。意識的な記憶にはなかった情報で、どこかで無意識のうちに目にしたものが現われてきたものか、よくわからないが、こういうことがしょっちゅう起こるから面白い。私が「螺の比礼」という言葉を(ためらいがちに)口にする前から、螺の比礼は少しずつ自顕し始めている(04:45あたり)。その帰神プロセスを一連の流れとして観るのも楽しい。
ちなみに、比礼とはいわゆる十種神宝に言う「大蛇の比礼、蜂の比礼、品物の比礼」から敷延したもので、自然界のスピリットとの交感を通じて授けられる超越的なわざやヒーリング修法を指す、龍宮道独自の用語だ。
フルハイビジョン画質 07分17秒
<2022.02.27 霞始靆(かすみはじめてたなびく)>