毎夕、宿泊客たちが三々五々、桟橋に集まってくる。
レストランで出た魚のアラをもらいに、エイやサメが波打ち際ギリギリの浅いところまでやってくるのだ。たくさんいる茶色いのはアカエイの仲間。
この大きなマダラエイ(Taeniurops meyeni)は、時に水から完全に出てしまい、陸に取り残されていた。毎日、同じことを繰り返していたので、意図的な行動であろう。
フルハイビジョン画質 03分34秒
モルディヴでは数年前に魚の餌付けが禁止されたと聴いていたから、こんな光景は期待してなかった。リゾート滞在の楽しさが倍増である。野生動物の餌付けに関しては様々な議論があることは重々承知しているけれども、この場合レストランで毎日出る魚のアラを捨ててしまうよりは、有効に活用してエイたちに喜んでもらった方がずっとよいと思う。
寄せる波、返す波に乗って、エイたちは実に楽しげではないか(自然下ではあんな風に浅いところまでエイが来ることは、まずない)。毎日決まった時間に集まってきて、係の男性が現われるとその足元にすり寄って魚をねだる。野生の生き物たちと人間は、こんな風に仲良く交流できるのだ。
これらのエイとマンタとでは、ヒレの構造や動き(波紋)が随分違うことにも気づかれたと思う。マンタの口は前方についているが、普通のエイでは腹(下)側に口がある。砂地に棲んでいて、砂の中に潜む貝や甲殻類などを掘り起こして食べる。小魚に全身丸ごとで吸盤のようにぴたりと覆いかぶさり、水ごと腹の下に閉じこめてしまう特技も有している。その状態で(腹側にある)口から水を吸い込むと、魚も一緒に口の中へ吸い込まれてゆく。そして水や砂は(背中側にある)目の後ろの噴水孔からピューッと吹き出され、魚だけが腹の中へ呑み込まれるという次第(動画中でもしきりに噴水孔から水を吹き出している。目の後ろの耳のように見える穴が噴水孔)。
なお、エイと比べると遠慮がちなサメたちは3種類集まっていて、ヒレの先が黒いブラックチップシャーク(ツマグロ Carcharhinus melanopterus)、ブラックチップと似ているがヒレ先が黒くないレモンシャーク(Negaprion acutidens ある朝、水上コテージのバルコニーから海を眺めていたら、小ぶりのウミガメ(タイマイ Eretmochelys imbricata)がすぐそばまでやってきて、 流線型のボディがいかにもサメらしい。コバンザメを従えたものもいる)、頭が大きくちょっとずんぐりした感じで色黒のナースシャーク(コモリザメ Ginglymostoma cirratum)、だ。
巡礼の地と波長が合ってくると、自然界と意思疎通できているのではないかと思えるほどの、奇妙な偶然の一致を体験することがしばしばある。
夕方まで一日中マンタを待ち続けるのにも少々飽きてきた頃(午後4時15分にマンタ・オン・コールが来たこともあった)、ある朝、水上コテージのバルコニーから海を眺めていたら、小ぶりのウミガメがすぐそばまでやってきて、何だかしきりに海へおいでと誘っているような感じがする。
天気はまずまず。マンタが現われればよい写真が撮れそうだ・・・が、「今日はマンタは来ない」という妙な確信めいたものを直感的に感じ、ウミガメの誘いに乗ってみることにした。
前にも述べたが、モルディヴのハウスリーフ(島の周りを取り囲んでいるサンゴ礁の浅い部分)はほぼ壊滅状態となっていて、魚もほとんどみかけない。
廃虚のようなうら寂しいところを通り抜けながら、先ほどウミガメが示してくれた方向へと泳いでいった。ハウスリーフが途切れて急傾斜のドロップオフが始まるところ(リーフエッジ)までたどり着いたら、そのあたり一帯はいろんな魚たちが驚くほどたくさん群れ集うスペシャル・ポイントとなっていた! This is 龍宮、である。時折サメも現われたりして、何時間でも楽しめた。
モルディヴの海の底力を実感したが、生態系の基盤であるサンゴ礁があのように荒れ果てたままで、たくさんの魚たちがこの先も健全な生活をずっと維持できるものなのか、甚だ疑問だ(全世界の海水魚の4分の1がサンゴ礁で暮らしている)。
ところで、午後遅くまでシュノーケリング&帰神撮影を楽しみ部屋へ戻ってみると、直感通り、この日マンタは現われてなかった。
その後も、(たぶん同じ)ウミガメが誘いにくるたびに上述のリーフエッジへシュノーケリングに行ったのだが、その時に限ってマンタはハニファルベイへ来なかった。
他の海域ではみられないインド洋固有の魚たちをご紹介しておこう。
帰神スライドショーへと進む前に、観の目の稽古法を一手ご紹介しよう。
観の目では「目を柔らかくみひらく」のが基本であることは、すでに述べた。何かびっくりするようなものを目にして驚き楽しんでいる時、人の目は自然に大きくみひらかれ、瞳孔も自ずから開く(瞳孔散大)。好ましい情報を含む「光」を、より多く迎え入れようとする生理的反応なのだろう。
目をみひらく際には、左右の目それぞれを同心円状に広げるようにする・・のだが、そもそも人間の目というものは真正面を向いて左右に平らに並んでいるものでは「ない」ので、正確に行なおうとするなら(正確であればあるほど、観の目の精度は高くなる)、各々の目が「どこを向いているのか(目がどんな向きで顔についているのか)」を、まずは確認する必要がある。
簡単な方法は、左右の掌でそれぞれの目を柔らかく覆い、片側ずつタッチ面の位置・向き・角度を「触覚で」感じてみることだ。頭であれこれ考えるのではなく、掌と目(及びその周辺)それ自身で「感じる」ようにするのだ。
正面ではなく、確かに斜めを向いていると、すぐわかるだろう。その斜めの面に沿って同心円状に目をみひらくよう意識する(目に掌を当てている時は、目を閉じたままで良い)。同心円を強調するのは、目の周囲には実際に同心円状に働く筋肉(眼輪筋)が存在しているからだ。
慣れてきたら、目を掌で覆ったまま、両目同時に「みひらく」方向(同心円状)を意識する。目は閉じたままでよい。
すると、両目から発した2つの波紋が真ん中で斜めに出会い、溶け合わさり、新たな波紋となって体の中全体へと内向しながら広がってゆくのが感じられるだろう。これまで練修してきた「異なる波を同時に感じる」稽古の応用だ。
ちょっとやっただけで目がスッキリして、視界も広がり、観の目も自然に深まる。
私は芸術の新たな形を提唱しているのだが、この新様式には観照(観賞)者の目(みる目)そのものをバージョンアップさせるための具体的方法が網羅されている。観の目にはいろんなトレーニング法があって、正しく実践すれば、誰でも「(ものごとの、世界の)みかた、みえかた」を限りなく深め、精細に磨いてゆくことができる。芸術家がどんな風に世界をみているか・感じているのか、実際に我が身で体験できる。これは、人生を計り知れないほど豊かなものへと換える秘訣だ。
「見る」ことから「観る」ことへと目の使い方をシフトさせることにより、意識状態が自動的に変容するため、我々は「観賞」の代わりに「観照(瞑想の用語で、自己の内面を静かにみまもること)」という言葉を使っている。
それでは帰神スライドショーを。
マンタの帰神フォトも、大分落ち着いて全体像を観られるようになってきたと思う。マンタ以外の海中写真は、すべてフォニマグッドゥー島のリーフエッジで帰神撮影した。
まったき無念無想の瞑想状態にて、何ものかの「意思」に突き動かされるかのごとく、自動運動的に撮影がなされ、その結果として自分でも思ってもみなかったような世界(観)が作品に映し出されてくる。こうした現象を「帰神」と、我々は呼んでいる。帰神とは元々は、神懸かり状態(またはその状態を現出するための方法)を指す古神道の言葉だ。
<2022.11.09 山茶始開(つばきはじめてひらく)>