雨期といっても以前は、午前と午後の2回、ザーッと驟雨(突然降り始め、短時間で突然降りやむ大雨)が来て、それ以外は晴れることも多いとされていたものが、今は、いつ降るか、いつやむかわからない不規則・不安定な天気がグズグズずっと続く。1日中、激しい雨がほとんど降りやまぬ日もあった。
その時の動画を、せっかくだから、撮ってきた。宿泊した水上コテージにて帰神撮影。画面一杯に拡大してフルスクリーンでお楽しみあれ(他のすべての動画も同様)。
水上コテージの「中」に自分がいて、目の前の景色を今、実際に目撃している、というつもりで観れば、「臨場感」というものが実体験できる。
この時、「外側」(画面の中に映し出される情景)へと「出て」いた注意が、「内側」(自分自身の内面)へと「引っ込んで」いる。あたかも、撮影者(私)の「中」に入り込み、私の目を通じて世界を観ているような感じ・・・。そのことにふと気づくのは、ぞくりと肌が粟立つような、戦慄的な発見かもしれない。・・・「呪術」について、私は今、語っている。
岡本太郎が喝破した通り、芸術の本質は呪術であり、ここで言う呪術とは、意識を操作して未分化な生命の交歓を生む超越的テクノロジーを指す。
我々が外に見る世界のすべては、私たちの体の「外側」にあるのではなく、光信号が脳内で再構築された「内面」の体験にほかならないことは、科学的知識として皆さんもすでにご存知だろう。つまり、人が知覚する宇宙のすべては、あなた方一人一人の「内」にある。
これらの旅が、私の巡礼であると同時にあなたの巡礼でもある、と力説する所以だ。
フルハイビジョン画質 00分32秒
もう・・笑うしかない、だろう? ここモルディヴでも、現地の人々は気候変動をハッキリ実感している。
今回、最後にご紹介する帰神スライドショーでは、このようなスコールを海中から帰神撮影した作品も含まれている。
背びれの一部が長く後ろに旗のように伸びているのがムレハタタテダイ(Heniochus diphreutes)。暗色で体の真ん中に太く白いバンドがあるのがインド洋固有種のブラックピラミッドチョウチョウウオ(Hemitaurichthys zoster)。頭にツノが生えた大きめのが混じっているが、こちらはテングハギ(Naso unicornis)。
リーフエッジに魚が群れる様子も、動画で帰神撮影した。波が少し高く、全身が常にぐらぐら揺さぶられ続けるような状況だったが、波に身を任せるようにしてリラックスしていればどうということもない。
ムレハタタテダイと共に登場する青っぽい魚の群は、カワハギの一種アカモンガラ(Aetobatus ocellatus)。青いのになぜアカモンガラなのかと誰しも疑問を持つところだが、水族館や熱帯魚店などで間近でよく観察すると歯が真っ赤であることがわかる。元々アカハ(赤歯)モンガラと名づけるつもりが、学術論文の記載ミスによりアカモンガラに決定してしまった、とのこと。部外者には不可解な理由にて、一度決まると簡単には覆せないのが学界の通弊というものらしい。
フルハイビジョン画質 00分29秒
シュノーケリングをこれから本格的に始めようと思っている方は、最初に浅いところで練修する際、ただ普通にシュノーケリング・セットをつけて泳ぐだけでなく、基本に慣れてきたらイレギュラーな状況もいろいろ想定して実際にやってみるといい。いざという時の対応力が身につき、海の中で常に落ち着いて行動できるようになる。
例えば、我々が海の合宿やグループ巡礼などで、初学者によく教えるのは・・・、
・シュノーケルの中にわざと海水を少し入れ、息を吐いた状態にて、呼吸の加減を調節する(少しずつそろりそろりと呼吸しないと海水を呑み込んでしまう)。息をいっぱい吸ったら、口から一気に吐けば、シュノーケル内の水をクリア(排出)できる。こういう練修をよくやっておけば、波が高い時シュノーケル内に少々水が入ってきても慌てないですむ。
・水中マスクを外して海底(最初は浅いところで)に落とし、潜っていってそれを取り、水中で装着。さらに、顔を海から上げることなく、シュノーケルに入った水をクリア。次に、水中マスクの中の水も、水面に浮かびながらクリア。このためには水面に平行に浮かんだ状態で、マスクが水面に垂直となるようにし、マスクの上を手で軽く押さえながら鼻から強く息を吐く。すると、呼気に押し出されてマスクの下から水が抜ける。
・フィンが片方脱げてなくなってしまった状態にてドルフィンキック。この際にはフィンをなくした脚を、もう一方の脚に重ねる。海の中でフィンを失うというのはかなりレアなケースではあるが、実際にそうなった例を以前みたことがある(その時は、幸い別の人が流されているフィンを発見)。
・・・上記は、基本が一通りできるようになった人が、よりスキルアップを目指して自発的かつ段階的に取り組むものであって、他者から無理強いされるようなことではないので、くれぐれも誤解なきよう願いたい。それから、私自身の実体験から述べるが、上記のようなイレギュラーなことはすべて、(あまり上手に)泳げない人であっても、シュノーケリング・セットを装着しておれば無理なく行なえるものだ。
その意味でも、シュノーケリング・セット様々なのであり、私たちは極めて大まじめに「シュノーケリング・セットは、海洋修験(海を修業の場とする心身修養法)たる龍宮道における新・三種の神器である」とみなし、毎回海へ入る際には、マスク、フィン、シュノーケルに「祈り」を強烈に込めるのだ。それによって道具に命と意思が通い、自分の体の一部となって全身が再統合される。
大げさなことを言うようだが、事実、海の中ではシュノーケリング・セットに我が命を託すのである。その、命を預ける道具を心の底より敬い、大切にするのは、海洋民族ならずとも当然の基本的態度・姿勢と思うが、いかがだろう?
これは、何らかの宗教的価値観や考え方などを他者に強要しようとすることとは、まったく違う。私は、いかなる組織宗教をも否定しないし、すべてを平等に受け容れ各々を敬うけれども、いかなる組織宗教にも与しない。
フォニマグッドゥー島のリーフエッジで出逢った魚たちをご紹介しておこう。
ツマグロ(ブラックチップシャーク。Carcharhinus melanopterus)。背びれの先が黒いので、水上からでも本種とすぐわかる。
トガリエビス(Sargocentron spiniferum)。沖縄にもたくさんいるのだが、これまで発表した海中写真でトガリエビスが一度も登場しないのは、撮ろうとしてもすぐサンゴの隙間の奥に隠れてしまうからだ。モルディヴのトガリエビスは堂々と姿を現わし、いろいろポーズを取ってくれた。こちらをねめつける目がふてぶてしくて反逆精神に溢れており、とても素晴らしい。
レモンシャーク(Negaprion acutidens)。体長1.5メートル以上あった。海の中では、実際より拡大されて随分大きく見えるから、このサイズのサメと出会えば危機感を感じる人も少なくないかもしれない。サメの波動はエイと比べるとずっとシャープだ。
ニシキヤッコ(Pygoplites diacanthus)。サンゴ礁をすみかとする色鮮やかなヤッコ類が、かろうじて残っていた。写真を観の目で観れば、この模様と色使いが敵の目をくらませるためのものであることは一目瞭然であろう。
モルディヴアネモネフィッシュ(Amphiprion nigripes)。モルディヴとスリランカ固有のクマノミ。今回のモルディヴ巡礼で出逢ったクマノミ類は、写真の一個体のみだった。前はいろんな種類のクマノミたちがいっぱいいたのに、これは、かなり寂しい・危機的な状況である。
イロブダイ(Cetoscarus bicolor)のオス。ベラ・ブダイ類の中では特に好きな魚だ。が、沖縄など他所の海域のイロブダイ(特にオス)は 警戒心が極端に強く、しかも個体数が少ないため、これまで帰神撮影に成功したことが一度もなかった。
マダラトビエイ(Aetobatus ocellatus)。前回モルディヴを訪れた際、マダラトビエイを何度もみかけたので、今回も是非出逢いたいものと念願していたのだが、その願いは見事にかなった。長い尾を真っすぐスーッと後ろに引きながら、優雅に滑空するように水中を進む。
それでは帰神スライドショーだ。すべての写真を、フォニマグッドゥー島のリーフエッジにて帰神撮影した。
小さな魚がいっぱい群れている帰神フォトでは、一頭一頭の魚の「位置関係」(前か、後ろか、上か、下か、近いか、遠いか、など)を、視界(画面)内であれこれ意識してみると面白い。最初は数頭くらいから始めるといい。
地上(空気中)ではあり得ないような位置関係にお互いが収まって、全体として波に揺られつつ、互いが互いを意識し合っている。そんな、「群れの中にピーンと張りつめるネットワーク的意識(存在感)」までが、やがて満身に響いてくるようになり始めることだろう。
「空間性」とか「立体感」、あるいは「奥行き」「深み」、または「存在のエッジ(縁)が際立つ」、といった私の言葉が、何を意味しているのか、それを自らの感性を通じてダイレクトに感じられるようになってくる。・・・そうした状態こそ、「共感(共に同じように感じている)」とか「共振(共に同じ波長で振るえ、相互作用している)」と呼ばれる体験の本質だ。
海中巡礼の終盤、雨が結構激しく降り始め、ついには冒頭に掲げた帰神ムービーの如き様相を呈するに至った。が、おかげで雨が海面を叩く様子を水中から撮ることができ、また新たな写真世界が拓かれた。
「千変万化」という言葉は、波にこそ似つかわしい。そして、大雨の最中ですらなお、水中撮影を可能とせしめるモルディヴの海の透明度にも脱帽だ。海がもっとずっと穏やかで、透明度も比較にならないほど素晴らしくなる乾期には、このあたり一帯にはどんな世界が広がることだろう。
地球生命全体の調和を、皆さんと共に、心の底より祈りたい。
◎観の目の稽古法を一手。
目を柔らかく大きくみひらいた状態にて、深く呼吸する。すると、「目をみひらくこと」と呼吸がシンクロし始め、目で呼吸(の動き)をダイレクトに感じられるようになるだろう。
これだけでも観の目は随分深まるものだが、息と観の目をシンクロさせながら、パンと大きな音がするくらいの強さでかしわ手を打つ・・と、手から発した衝撃波が目(観の目)にまで響いてきて、立体感がぐっと深まり、色もより鮮やかに目に映るようになる。かしわ手を打つ時も、打った後も、観の目を崩さないよう注意。
こうした<わざ>を本気で修得したいとお考えの方は、あなた方のためにこそ、こうして一言一言に魂(言霊)を込めつつ説いているのだから(ウェブサイト内のあらゆる記事がそうだ)、ここで述べられている一つ・一つの段階を面倒くさがらず実際に、一つ・一つ順番に、自分自身の身体で試し、身体に問いかけ、身体のメッセージを無心に聴き、身体との「体話」を重ねる中で、新たな感覚、新たな意識が芽生え、育ってゆくのを・・・・、是非とも味わってほしい。驚いてほしい。楽しんでほしい。そして・・・歓喜と感謝に満たされ、ついには歓喜と感謝そのものと一体化する聖なる境地へと至ってほしい。
地球生命としてのグローバル(全地球的)かつ繊細な共感能力を育み養いつつ、既成概念のいかなる枠組にも囚われることなく、円転滑脱、玉が円く転がり続けるように、滑らかに、水の流れがするりするりと障害をすり脱けてゆくように、自在に。
龍宮道とは、そのような新たな人間像、人と人の在り方、人と世界との在り方を、具体的な修法や武術的実践を通じて指し示す<道>だ。
破壊から再生へ。命を奪うことから、命を与えることへ。殺人剣(人を傷つけ・殺す暴力的な技術)から活人剣(各々の潜在的可能性を最大限に・調和的に花開かせる道)へ。
修法に戻ろう。
静かな湖面に投げ込まれた小石から波紋が同心円状に広がってゆくように、かしわ手の衝撃波が左右の目の回りにそれぞれ同心円状の波紋を生む。それが、「斜め」向きでぶつかり合い、新たな波紋となって体内へ広がってゆく。この時、ビシッと活が入ったように観の目が自然と強調され、自ずから深まる。これまでやってきたことの応用だ。
最初、静止画で練修し、慣れてきたら帰神スライドショーや動画にチャレンジしてゆくといい。
観の目を修得することはそれほど難事ではないが、誤解・曲解だらけのでたらめなやり方でいい加減にアプローチする限り、いつまでたってもその片鱗すら理解できないだろう。観の目というのは、武術や瞑想等で「修業」の一環と、かつては位置づけられていたものだ。私の言う修業は堅苦しいものでは決してないが、日々の時間の中のいくばくかをそのために割き、継続して熱心に取り組むことによって初めて何ものかが達成できるということは、いくら強調しても強調しすぎということはない。何事であれ、人生万般、同じと思う。
観の目を目覚めさせ、精密に錬磨してゆくことは、人生における価値ある体験となる。努力して達成する(獲得する)に値する「何ものか」について、あなた方と是非分かち合うため、私はこうして熱烈に説いている。自分だけでなく多くの人たちの経験から断言するけれども、観の目とは「人生の宝」であり、あなた方一人一人が生まれながらに備えている潜在的な資質なのだ。
それは、龍宮道という狭い世界だけで通用する狭小な価値観とは違う。普段何気なく見過ごしているありふれた情景を、改めて「観の目」で観る・・・・と、世界がまるで違ったもののように感じられ始める。路傍の小さな花にも、生命が漲っているのがありありとわかる。頭で考えてわかるのではなく、全身の皮膚感覚でわかる。
世界の<美>を、これは、知覚するための方法なのだ。
<2022.11.14 地始凍(ちはじめてこおる)>