太靈道断食法講義録 第8回

第12章  断食中の禁忌
第1節 火熱 

 火熱に近づくのは、断食中における沐浴の注意事項中に述べたるがごとく、体力、心力、霊力を非常に減殺するものである。人類生命の本来は、決して火を要求するものではない。もし平常において、異常に火熱に近づくことを好む人は、既にその生命現象の上に、何らかの欠陥を生じていると言い得るのである。
 ことに断食中においては、火熱を忌避しなければならない。それは断食中における心身に対しては、特に火熱の害が著しいからである。
 もし断食時において火熱に近づくことをあえてする人があったならば、その人は断食によりて、断食をなしたるだけの害を生命に与えることになるのである。
 その人が、もし断食をなさなかったならば、甲くらいの健康状態を持続し得たものが、断食してしかも火熱に近づいたために、甲にあるべき健康を、乙くらい、丙くらいの低度にまで引き下げて行くことになって、断食は却って害となるのである。この事実と理由とに基づいて、断食中には、絶対に火熱に近づくことを禁ずべきである。

第2節 温浴 

 断食中における温浴も、火熱と等しく、絶対にこれを禁忌すべきである。その理由はしばしば説きたるため、重複を避けてここには述べざることとするも、断食を行なう者は、絶対温浴をなさざる決心が必要である。ただ一度の温浴をあえて取りたるため、不慮の害を招くことがある。
 断食のごとき意味深き修行をなすに当たりて、伴うところの災害をも注意するは、実にその道に忠実なるものとして、これを誰人にも行なわせるべき重要事である。 

第3節 喫煙 

 おおよそ喫煙という事は、人間の生命にとりては百害ありて一利なきものである。これは平素においては、食物飲料等を取るがゆえに、その害の幾部分かは緩和される関係もあるので、愛好家にとりては、さほどその害が自覚されない状態にあるとも言い得るのであるが、断食中においては食物を取らないため、その害は害そのままの力を生命現象の上に揮[ふる]うことになるのである。断食中における喫煙の害が、平時よりはなはだしい理由は、けだしこの点に存するのである。
 喫煙家の言によれば、喫煙を禁止することはなかなかの難事なれども、断食を実行するという決心の前には、喫煙のごときは実に何ものでないはずである。単に自分のみが喫煙を禁忌するのみならず、来訪者に向かってもその決行を勧誘すべきである。
 人の来訪等によって余儀なく喫煙させられる場合に立ち至っても、自己の手許に煙草を置かざるようにしておけば、その誘惑に打ち勝つことも容易である。
 とにかく、断食中の喫煙は、絶対にこれを禁忌する覚悟と実行とが必要である。 

第4節 飲酒 

 これも断食中においては、絶対の禁条と心得ていなくてはならない。平素においても飲酒によって、心身共に変調を来たすものであることは、よく目撃して知悉するところの事柄であろう。ことに断食中においては、その心身の変調を起こしたるがために、健康を著しく害することになるものである。ことに断食中の飲酒は、往々にして脳溢血を起こしやすいものであるから、大いに慎むべきことである。 

第5節 心労 

 断食中において心を労することは、身体を労するよりも、その影響するところはより大である。ただに断食中のみならず、平時においても心を労することは、生命現象の上にもたらすところの影響は多いのである。断食中における心労は、その心労の程度に準じて、霊子の発動を阻害し、生理作用の上に悪影響を及ぼし、断食の効果をして微弱ならしめ、あるいは無効ならしめ、あるいは後害をもたらすことさえあるのは、すでにしばしば述べ来たったところであるが、ここにはその方面からでなく、身体に直接及ぼすべき影響について述べてみたいのである。 
 断食中において心労をなした時、一番に影響をこうむるのは頭髪であって、著しく白髪を増すものである。頭髪が白化するのはもちろん病的であって、心労は少なくとも白髪という病所を生命の上に与える訳である。心労の害はそれのみに止まらず、はなはだしく筋肉をして痩弱ならしむるものである。 
 以上は断食中の心労が外面に現われた害であるが、内面的にも種々の害を与えるものである。それは既に述べ来たった所を見れば明らかである。かかる害ある心労は、断食中においては禁忌すべき所のものである。 

第6節 体労 

 身体を屈伸するような動作は、断食中においては普通時よりも一層疲労を起こさせるものである。いわんや重量の物を負担し、労作し、もしくは過度の歩行、奔走するようなことは絶対に禁ずべきである。
 ことに断食中においては直ちに精神作用にも関係し、相率いて生命現象の上に悪い影を投ずるものである。
 したがって断食の効果をも減殺し、あるいは皆無ならしむるに至らないとも限らないのであって、断食中においては、心労と同じ程度において、これを禁忌する必要がある。
 要は、断食中においては精神と共に身体の安静を保つことを必要とする。これに反する行為は厳に避けなければならない。 

第3編 断食の結果 

第1章 官能に及ぼす影響 

 説明の便宜上、官能を分ちて五つとなし、断食の結果が視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚等の五官に及ぼす所の影響を順次に述べて行くことにする。 

第1節 視覚の発達 

 予自身の経験をもってするに、少年時代に出京して以来、過度の苦学をなしたるため、ついに近視眼となり、五度六度の眼鏡を用うるまでに進んだのである。かかる強度の近視になった予も、その後、霊子自己療法及び断食の実行等によって、現在においては三十六度の眼鏡を用いているほど、軽快に赴いたのである。これは予自身の経験ではあるが、自己療法及び断食によって、近視眼を回復させた実例はすこぶる多いのである。自己療法によって視力を強め得る理由は、問題外であるからしばらくおくとして、ここには主として断食による影響の方面から論ずることにしよう。  
 そもそもいかなる理由によりて断食は視覚を発達させることになるかというに、断食は肉体及び精神の機能をして旺盛ならしむるのみならず、霊能を発達せしむるものである。それは、断食によりて全枢の作用が極めて敏活旺盛になって来るために、その全枢の外放線が視神経床より完全に発動することになり、視覚をして完全にその作用を営ましむるに至るからである。 
 話は別になるが、予が恵那の森林に入りて断食中、星の光も及ばざる森林中において、暗夜よく木の葉を見た事がある。見るといっても何ら光線のない所であるために、昼間物を見るのとはその状態は大いに異なるところがあるが、暗い中に木の葉が一枚一枚明瞭に黒く見えたのである。
 これは往年修養中の出来事であるが、現在においても時おり夜間、灯火もない暗中においてよく時計の文字盤を見得ることがある。
 以上の状態にあるときには、たとえ眼瞼[まぶた]を閉ずるといえども、やはり見ゆるものである。これは光線の媒介によることなくして、まったく霊的作用によって見ゆるのである。こうした霊的視覚はもちろん、平時における視覚の発達も、断食によりて容易に期し得るものである。 

第2節 聴覚の発達 

 断食後における聴覚の発達は実に著しきものがある。断食以前においては到底聞くこと能[あた]わざりし遠くの物音をも聞き分け、人が気づかざるほどの針の落ちたるがごとき微少なる音をも、よく聞き取り得るに至るものである。
 すべて物事に余り熱中し、一語をも聴き漏らさじと焦心するときには、却ってその聴覚は鈍るものである。いかなる理由によってそうなるかといえば、熱中するために耳の近くに充血を起こし、聴官はその圧迫を受けて、聴力は著しく鈍るのである。
 かくのごとき際には、腹力を充実せしむるがよい。腹力を充実せしむるときには、よく血液の調節をはかり、全枢の活動を自由ならしむるがゆえに、よく何事をも聴き取り得るに至るのである。
 この意味からするときは、音楽のごとき微妙なる和声旋律等を聞き分くるごときは、耳によらずして、腹によりて聞くのが当然であるということになる。また、断食中においては、特に腹力の充実を期するために、普通時においては到底聞くことを得ない程の音すらも、容易に聞くことができる状態になるものである。 

第3節 嗅覚の発達 

 断食中において嗅覚が鋭敏になることは実に驚くべきほどである。予がかつて恵那山中にあって断食修養をなしている時の事であったが、五町内外へだたった所を野狐などが通るのさえも嗅覚によって知ることを得た事実がある。
 嗅覚の発達なるものは、文化人を標準としたのでは、あまり高尚なるものとはいわれないが、自然生活に復するときは、その発達を見るものである。
 思うに人類に火が発見される以前には、この感覚が非常に発達していて、むしろ激烈に過ぐるとも言い得る程である。
 総じて刺激性の食物、脂肪多き食物を摂取する人々は、嗅覚が特に鈍るものである。また肉食者は菜食者よりも嗅覚が鈍いのが常である。
 この嗅覚は特に脳と深い関係があって、鼻に病のある人は必ず脳にも故障があるものである。ことに数理の観念に乏しいものである。
 されば、その鼻の疾病を除けば脳も健全になり、また脳の疾患が治すれば、鼻の故障も従って軽快になるという密接なる関係がある。
 この鼻に疾患がある者をして嗅覚を発達させ、かつ数理的な脳髄を快復させ、さらにこれを健全にさせようとするならば、断食によるのが最良の方法である。 

第4節 味覚の発達 

 断食後、食事を取るに当たりて、いかなるものを食しても美味を感ずることは、すべての断食実行者の等しく認めている事実である。この事実を目して、空腹時に食するために美味なるがごとく感じるのであると解する人があったならば、それは大なる誤謬である。
 断食後は事実において著しく味覚が鋭敏になっているものであって、そのために食物に美味を感ずるのである。これに加うるに、味の識別力においても実に著しく発達するものである。したがって、酒あるいは醤油などの味利きをなすには、実に適当な状態になっているのである。
 喫煙する人などは、平素において煙草のために味覚を損傷されることが甚だしいものである。されば喫煙者が断食を行ったならば、同時に禁煙を必要とするために、それによって味覚は回復されかつ発達さるるがために、断食後においては断食前に比し、食物に美味を感じること二倍となるわけである。
 この事実によって見れば、断食後における食物の美味感は、空腹時において食物を摂取するためではないことがよくわかる。何となれば、喫煙家のみが二倍に美味を感ずるのは、二倍に空腹を感ずるがゆえであるという論理は成立たぬはずである。そこには、どうしても鋭敏になった味覚の存在を認めなければならないのである。 

第5節 触覚の発達 

 断食によって触覚の発達を来たすことも著しい事実である。
 微細なる物体がわずかに皮膚に触れたのでも、直ちにこれを鋭敏に感じ得るのである。これは、ただ単に手指のみについて認めるのみではなく、身体全部の触覚についてもその通りである。
 既に断食後の注意事項中において述べたように、断食後は直ちに温浴を取ってならないという注意も、こうした触覚上の関係があるからである。一面においてすべての皮膚が、このように微妙敏活になっていると共に、一面においてはその抵抗力を増し、その色沢をして艶美ならしむる事実がある。