太靈道断食法講義録 第10回

第4章 霊能に及ぼす影響

 断食は著しい力をもって、人間の心身の上に効果をもたらすものであることは、すでに前掲の各条項において、ほとんどその全般にわたって説き了したのであるが、断食の真の目的とするところは、決して心身の発達を欲するのみではないのである。
 霊能のすべてを発達させることが断食の目的においては主であり、心身に及ぼす好影響は従であることになるのである。 

第1節 霊子顕動作用

 断食中において食物を取らざるはいうまでもないことであるが、そのために食物の消化・吸収・排泄等の内部的に要せられたるる働きはその仕事を失い、ついに外部的に発現し来たることになり、顕動作用はその結果として旺盛に発動するものである。
 平時においてその発動鈍き傾向のある人にても、たとえ短期にせよ断食を行うときは、顕動の正規的な発動を起こすに至るのみならず、治病能力のごときも非常に発達するものである。殊に断食中においては顕動作用の至上発動たる超意識顕動を起こしやすい状態にあるのである。その理由の一端は、既に第2編第9章第2節・超意識顕動の条下において述べたるところなるも、正しき断食中においては、すべてが霊的作用に支配せらるるに至るがために、その場合に発動し来たる顕動も、最も旺盛に霊によって満たされる超意識顕動として生じ来たるものと解釈しなければならないのである。 

第2節 霊子潜動作用

 霊子潜動作用は、単に断食中においてのみならず、普通時においても顕動作用の発動が旺盛になるときは、それと共に強烈になるのが両者の性質上、正規的な過程であるといい得る。
 が、断食中においては、前節において述べたように、顕動作用は非常に旺盛になるのであって、従って潜動作用の旺盛な発動を誘致することは論をまたないところである。しかもそれは平時におけるよりも、より以上に深く密接に両者の関係は進められて行くために、顕動の旺盛なることは著しく潜動の方にも影響するものである。
 また、仮に顕動との関係をしばらくおくとしても、断食によって全枢の機能は異常な昂進をなすがゆえに、それより発動する霊子の内放運動たる潜動作用が旺盛に赴くべきは必然の結果である。 

第3節 超意識霊子作用

 断食中においては、心身のすべてをあげて容易に霊化の境地に入るべき状態になっているのに加えて、霊そのものが極めて旺盛に発動し来たるため、その霊の働きは何らの掣肘(せいちゅう:干渉)をも妨害をも受けることなしにその作用を発現するに至る。ゆえに、すべての超意識的なる霊子作用は、むしろ驚くべきほどの進境に達し得るのである。 

第4節 透感及び透覚現象その他

 病者に対して直接施法を行う場合に、その人の疾患が自分に感染したりという意識を直感することがある。即ち自己の肉体を通じてある気分を感じるというがごときは、これを透感作用というのであって、断食によりて著しく旺盛になるものである。
 そしてこの作用は、透覚透視等の作用と同じく、超意識霊子作用によって左右され、その現象を現わすものであるがゆえに、何ものかの対象物に向かいその作用を施そうとして、今度は透視によりて行い、次は透覚によりて行うなどと、前々よりその事を予定すべき性質のものではない。たとえ予定してそれに向うといえども、その時の超意識の状態及び深度によって、あるいは透覚となりあるいは透視、透感等となるものであって、その予定を裏切ることも珍しくないものである。
 しかしながらこれらの超意識霊子作用は、全枢機能の発達と共にますますその旺盛を示すに至ることは、断食によって得るところの効果である。 

第5節 顕現状態 

第1項 精霊顕現

  この精霊顕現というのは、あらゆる動物、植物、人物等の霊が応現し来るものであって、従来においても往々行われてきたものである。
 太霊道においてもその実験は屡次(るじ:しばしば)試みることがあって、その都度極めて優秀なる結果を得た事実がある。最近欧米において行われつつあるところのミディアム(霊媒)は、この精霊顕現の一種であり、また日本において行われる神憑りのごときもまたこの一種に属するものである。
 しかし従来巫女等によって行われつつあった神憑り、降神術、交霊術等が、確実にこの精霊顕現の真に触れているものであると断じることは出来ない。事実これらの中には、低級な状態におけるものがあって、その現象を目して神の意なりとして尊信するような迷信に陥っている者がいるからである。
 これに関する理論及びその実習方法のごときは別に述べる機会あると思うが、ここではこの顕現修法は、断食中において行うときには、極めて発現しやすいものであることを記憶しておいてもらえばよいのである。 

第2項 真霊顕現 

 精霊顕現は前項においても述べたるがごとく、古来より行われたところの事象であって、特に異とするには足りないのである。
 しかるにこの真霊顕現に至りては、太霊道において創唱されかつ実証せられたる顕現法である。いかなる理由によりてこれが創唱されたかというに、精霊顕現においてこれを見得るごとく、無機物、動植物、人間等の他の霊が応現し得るならば、最も自己に近い自己そのものの根礎中核たる自己の霊を応現せしむることも可能でもあり、また最も必要なことであるという見地から出発して完成されたものである。 
 およそすべての生命格の本源は霊格である。人類においてもまたそうであることは、太霊道の教義の一斑なりとも聞きたる限りの人は熟知し信認しているところであろう。
 しかして、人類の有するところの精神格及び肉体格は、まさにこの霊格に従属しているのである。この関係よりして、霊格は精神を現わし物質を生ずるということになるのである。
 そしてこの霊格は全真性能、絶対性能及び超越性能を有するがゆえに、いかなる時間いかなる空間にも融合し遍満していて、何時いかなる場所にありても、応現し得るのである。
 真霊顕現修法はこうした全真性能、絶対性能及び超越性能を有する自己の真霊格を顕現するものなるがゆえに、かの霊格応現よりも、さらに一歩進みたるがごとき状態において、あらゆる時間空間の出来事をも現わし得るのである。
 今例をもってこれを示せば、身はこの地にあるとしても、自己の霊格は、よく時間空間を超越しおるがために、数千里外の事物をも洞観明察し得ると共に、これを現実の言語をもって宣示し得るのである。ことに火星に人類の生息することが、久しき以前より欧米の学会において問題とされ、これと通信することについて、種々の考案が提出されたれども、未だ実現可能なりとせられず。ただ将来においてやや嘱望せられつつあるものは、霊的交通なりとし、真面目に研究しつつある篤志家さえ出すに至った。かくのごとき事実は、真霊顕現によりて可能なのである。現に入山霊示中においてもポーン・ウィネッケ彗星の地球に近づきつつあることを宣したるごときはそれである。 
 また地方に在る人が真霊顕現を行ない、今日のこの会合そのままを透観せんとせば、それを顕現し得るのである。この場所の関係と等しく、時間においてもその通り、過去、現在、未来を通じて、その出来事を顕現し得るものである。
 そして、この真霊顕現も精霊顕現と等しく、断食中に最も行ないやすい状態に在ることはいうまでもないところである。 

第3項 全霊顕現 

 この全霊顕現は、太霊道において最高の修法となすところのものである。
 これは自己の真霊格を通じて太霊そのままの顕現を見るのであるが、あるいは全真、絶対、超越なる太霊が顕現するのは理として不可能な事であると思う人もあるかもしれない。
 しかしこれはまだ考えの至らないのであって、太霊は全真、絶対、超越なるがゆえに、その顕現も妙融自在を極むるのである。従来の霊格応現法によるときは、単に霊格の作用のみが応現し来たるのであるが、顕現修法にありては霊格そのものが顕現されるのである。したがってこの全霊顕現修法においては、太霊神格直接の顕現として見るべきものである。
 我等は常時太霊と相関連し、直接通交しているのではあるが、その日常生活において精神あるいは肉体に囚われつつある時には、到底全霊顕現の行われるべきはずはない。
 霊格が精神格、肉体格を完全に支配し得る状態になって、初めて全霊顕現が可能となるに至るのである。全真至上の境地にまで進むことは人類の最大帰趨なのであり、断食の主たる目的もまた実にこの点に存するのである。

第5章 個性の霊化 
第1節 個性の脱却 

 人々は種々なる関係においてその個性に囚われているのである。この個性に囚われるということは、その精神か肉体かの何れかに即して囚われるのであって、一種の霊の冒涜である。
 この状態の下にありて全真の境地に入らんとするは、無謀もはなはだしく、決して全真境に到達し得るものではないのである。断食は今までにもしばしば述べたるがごとく、人々をしてよく精神格より超越させ、肉体格より離出せしめ得るがゆえに、最もよく個性我を脱却することになるのである。
 その結果は絶対なる太霊と自己との融合が行なわれるわけである。さらに深息、瞑想、聖黙の修法によって、その融合直通の度はますます深く強められていくのである。
 人類の祖先は知識を得て、それを種々な方面に適用して、段々と不自然なる生活を増していくようになったのであるが、断食はその不自然な人類の生活を自然に還らせ、全真の光に浴せしむるに至る唯一の鍵である。人々は断食することによりて、最もよく霊化され、太霊と融会一致するがゆえに、人類社会の生活をして不自然ならしむるところの個性の囚われより脱せしむることを得るからである。この断食によりて、よく個性我を脱却することを得るという事実は、まことに全真文明建設の第一歩である。 

第2節 全我格の大成 

 個性我を脱却して全真の至上体たる太霊に帰入することは、やがて全我格の大成に入ることになるのである。
 この全我の境地は即ち常に太霊と冥合融会して人間の性と能とが自由自在にその力を現わすことができる至全至真の状態である。
 断食はよく個性我を脱却せしむると共に、ひいては全我格の大成に向わしむるのである。断食をもって単に健康を得んがための方法手段となすは、実に大なる誤謬であって、本末をわきまえざる者のなすところである。
 即ち断食は、自己の主体である霊格に関連し、根本実態たる太霊に直通する問題としてこれに対するとき、初めて真実の意義を発見し理解することができるのである。この断食と全我格大成との関係について、深い観察と味到とを正しくする時、いかに断食の真意義の深甚なるかを知ることができるのである。
 思うに、個性我と全我格との区別は、実習実悟の上にあるのでなければ、容易に窺知し難い消息である。しかし断食による時は、自己の内面に深く透入するがゆえによくこれを理解し、味到することができるようになる。
 吾人の生活は日々夜々外へばかり流逸して、物質的欲望の満足をのみ追随している。その現相が三慾であり、この三慾が満足せらるるにも、はたまた破壊せらるるにも、すべて心の不全不真なる状態が発する。これを七妄という。個性我は、いわばこの三慾七妄に合成せられたる心的状態である。
 さらに吾人が五官四性を完全に閉塞したとする。その時これら三慾七妄の本体はどこにもないことになる。
 これに反して全我格は、その時になってますますその光輝を発現し来たることになるのである。
 よく外面に走るところの心を閉じて、内面に深く深くと沈潜透入していくときは、ついに太霊に直通融会する境地に達し、そこに霊我を発見し、さらに再び現実に働き出すことによりて、表裏内外通徹して全我格が大成されるのである。
 断食はまことにその枢機となっているのである。  

第4編 日曜断食の目的 

第1節 人類の内省

 断食は長期なれば長期なるほど、その成果において優秀なることを認むるのであるが、短期の中にも最短なるもの、即ち一日の断食においても実に深き意義と高い価値とを有するものである。
 その準備方法においてよろしきを得たる場合は、一日の断食といえどもよく真実の霊化を実現し得るのである。しかもこの一日間の断食は、人類に最も必要なるところの内省を行うの機遇を与うることになるのである。
 人間はその言動の上において、その見聞覚知の上において、その他一切の事象に対して、内省を行う必要がある。しかし日々極めて繁劇な社会生活をなしつつある限りは、内省を行うべき機会はほとんど与えられていないのである。
 であれば一週に一度なり、それが不可能とすれば一ヶ月に一度なり機会を設けて心身の余裕を造り、既往現在将来にわたって、その言行等に関する一切の内省を行うことは、一つの方法である。その内省の内容に至っては、もとよりその人の境遇に応じて種々雑多であろうが、現在の自己の生活が全真であるか否かを省察するのは、その最も緊要なる内容の一つあらねばならない。
 現代において相当の識見を有する士にして、なおかつ現代に流行する思想及び主義等に関して、憂慮を懐いているものもあるが、かくのごときことは思わざるの致すところである。真実に憂うべきは人類の内省の欠乏であって、種々極端なる思想及び主義のごときはさほど問題とするには及ぶまいと思うのである。現在新聞紙上に展開される社会の問題、市井の雑事によりて見ても、いかに世人が内省を欠きつつあるかを如実に示すものである。これら雑然無統一の状態は即ち世界を通じて現代人の心的実状の縮図ともいうべきものである。 
 さりながら、単に漠然と内省の必要を説いても、この際においては徒事であって、誰も顧るものはないと思う。これらの人々に対して内省の機会を与うる手段として、この日曜断食を提唱することはその実現において可能性あるのみならず、実に有意義であると考えるものである。とはいえ、日曜断食の目的は、単に内省を行うためのみならず、霊化を欲求する人々に対して、一つの階段を与えるものであることも忘るべからざるところである。 

第2節 世界の全真化

 一日の断食によりて内省を行い、意識的に自己の人格を向上せしむるのみであっても、既に意義ある事ではあるが、さらに断食によりて自己の身も心も霊化さるることとなれば、自ずから自己の尊さを自覚するに至るであろう。
 しかしてかかる真の自覚ありて、霊化されたる人によりて、社会も、国家も組織されることとなれば、その社会国家は当然真化されなければならないことになる。現代の教育あるいは宗教等によりて霊化の願求を満たされないというのは、要するに徹底したる内省と自覚に出発しないからである。
 されば現代の教育によりてもしくは宗教によりて、希求を裏切られたる寂しさを感ずるものは、まず日曜の一日を利用して、日曜断食を行ってみるがよい。
 そしてその機会において、最尊最貴の霊に接するというのは、内省の最大なるものであって、真の自己救済であるのみならず、社会的にも意義深いものである。
 されば、新たに日曜断食に志し、これを実行せらるるの士は、それを単なる一日の日曜断食として軽視することなく、その目的は実に世界の全真化を基調とするものであって、自己の使命も決して軽かざることをもって心に銘し深く念頭に置かなければならないのである。 

帰結 

 日曜断食の意義と主旨とは、既に述べ来たりたるところのごとくである。もし幸いにして一週に一度たりとも余暇を造り得る人士においては、努めてこれを実行せらるべく、なおその人一人に止まらず、その家族あるいは知人までもこれを勧め、その霊化に努力せられんことを希望する次第である。
 かくしてかなり多くの人を誘われることは、それだけ社会に対しての貢献は大なるわけである。
 しかしながらこれを他人にまで及ぼし難い場合には、是非ともその家族をあげて実行してもらいたいのである。これが一番手近にして容易に、そして有効な霊化の第一歩である。
 家族断食を行う場合には、必ずしも強いてその理論を説く必要はないのである。とにかく、実行を共にすればよいのである。
 現代物質文明中毒者は、飲食を共にすることによりて交情が増進されると考えているようである。これは事実であると思う。しかし飲食を共にすることによりて増進せられたる交情は、結局物質の範囲を出[い]でない。
 したがってその交友間において一朝、物理的利害が相反するに及べば、醜い紛争を惹起することになるのは、あまりに多くその実例を見せつけられた位である。
 霊の交り、永劫不変の交情は、飢餓を共にすることによりて出発するのがよいと思う。断食即ち飢餓の実行ということは、人間の物質的生活の最低標準を示したものである。それだけ霊的解釈によれば最高意義を有することになるのである。
 こうしてそれを一家族の間に実行することによって、一家族の間に霊的了解が成り立ったとすれば、さらに熱烈に人々に説いて実修せしむべきである。その際必ずしも太霊の道を説くには及ばない。太霊の道は断食それ自身、実行者その人それ自身が説明するようになるものである。
 この日曜断食によりて全真なる境地に入りたる一家族が現わるるに至れば、それに倣[なら]う家庭相踵[あいつ]いで生じ、全真世界の出現は期して待つべきに至るはずである。実に太霊道の最高修法たる聖黙にまで進むべき尊い日曜断食に、一人でも多く実修者を得て、全真文明建設の上に貢献せられんことを、深く希望してやまないのである。

<太靈道断食法講義録 終>