太靈道断食法講義録 第11回

附篇 修霊法霊示記

 太霊道編纂局編 

緒言

 修霊法は、主元が真霊顕現中の霊示によりて開現せられたるもので、太霊道者たる限り、誰もが常時これを修すべき必要あると共に、最高の修法である。それは単に霊能発現とか修養とかいう意味のものではなく、太霊と直融すべき最も大切な教えがそこに含まれている。しかして、それは次の十二挙動から成り立っているのである。ただしその第一は助行で、第十二は修霊の霊果である。 

一、瞑目正坐 
二、腹力充実 
三、十指交叉 
四、眼底充力 
五、瞑目視掌 
六、腹側按手 
七、頭上扛手 
八、両掌固握 
九、雙手散開 
十、至心合掌 
十一、 胸腹押擦 
十二、 放身霊動 

 この十二形式を外面より見るときは、一つの有形的身業ではあるが、それは内面より霊を呼び起こす手段であって、要は霊によりて行われるべき一修法である。即ち霊の顕現であり、ここに安心立命するときは、容易に絶対に直通し得られるのである。
「道に基づいた国家が真の国家である。道に本づいた社会が真の社会である。道に本づいた人生が真の人生である」と霊示にある通り、我等はこの修霊法によりて人生に出発し、社会国家を道に基づかせるように努力しなければならぬ。 

修霊法の霊授

 大正十年七月三十日、主元は三十分以上にわたりて「全真太霊」を音唱せられ、微妙なる霊声に導かれて、全衆の身も心も聖黙の世界へと導いて行かれる。かくて、主元の法唱は自然に低くなり行くかとすれば、バッタリとそれが断たれる。全衆は聖黙に入りつつある事とて、依然その状態が続いている。ただその時参列していた記者は、どうしたことかと主元を仰ぐ。
 主元はただ黙然、それが五分となり、十分となり、十五分となる、依然静寂の状態が続いている。主元の威容は異常な厳粛と緊張とを示し来られる。主元は真霊顕現の状態に入られたのである。主元は全衆に対して、 
「聖黙を解け! 聖黙を解け!」 
 と、真霊顕現の状態において声高く宣せられる。
 その態度その音調は、全く主元の平素のそれとは異なっている。主元が、平素我等に接えらるるには、温情の溢れる所何人[なんぴと]も惹きつけずには措かないという態度に加うるに、一句一句最も洗練されたる言動には、感激して涙ぐましくなるような事もある。
 しかるにこの真霊顕現に際しては、厳峻壮烈、何人もこれに逆らうことを許さないという調子がある。その間、求霊者を高く聖く導こうという大仁慈の光も仄見[ほのみ]ゆる。
「聖黙を解け」の一大霊声に、全衆は覚醒して、何れも粛然として次に来たるべき主元の霊示を俟[ま]つ。霊示はさらに続いて、ある修法を会衆に対して授けられるようである。曰く、 
「ウ、ウ、ウ、ウ、腹に力を入れろ、腹に力を入れろ。」 
 と、いかにも力を入るるがごとくに命ぜられる。今度は両手の指頭を講授録にある叉掌の形式のごとく組み合わされつつ、 
「手を組め、手を組め。」 
 と命ぜられ、さらに、会衆のあちらに向い、こちらに向い、
「腹に力を入れろ、手に力を入れろ、腹に力を入れろ、手に力を入れろ。」 
 と命ぜられつつ、猛烈に手を霊動せられる。 
「目に力を入れろ、手を見ろ。」 
 と命ぜられる。全衆もそれに倣って行う。無論、瞑目していて行うことである。しかるに、瞑目しているにもかかわらず、猛烈に振動する手が見える。目に入れた力が強く、手の振動激しきに従って、ますます明瞭に眼底に映じて来る。 
「手を腹につけ、手を挙げろ、手を腹につけ、手を挙げろ。繰返せ。」 
 と、主元は手を組みたるまま、盛んに霊動しつつ、手を頭上に高く挙げまたそれを卸して腹部につけらるる。これを幾度となく行われて後、今度は、 
「手を握れ。」 
 と、手を握って霊動せられる。この間、会員は最初よりすべて主元の霊示の通り実修することはいうまでもないことである。今度は、 
「手を開け。」 
 と命じて手を開かれる。手は開かれたまま霊動せられる。
「合掌しろ。」 
 と合掌せられ、合掌のまま前後に円形を描くがごとくに霊動しつつ回転せられ、次にその合掌を高く頭上に挙げ、あるいは胸の所まで下げ、この形式を幾回も繰返された。ただし言語による霊示はなかった。 
「胸を擦(さ)すれ。」 
 と、胸より腹へかけて幾たびか押擦せられる。 
「正坐しろ、正坐しろ。」 
 参列者も、主元の霊示に倣って修法を行う。不思議や霊動は自然に湧起して来る。顕動法のごとくであって、顕動法とは全く異ったものである。
 顕動法は、潜動法の浅きものである。この霊動は、潜動を抑圧しまた抑圧したる結果猛烈に発動し来るものである。
 顕動は多少意思によりて支配することも出来るが、この霊動は全く意思とは交渉はないものである。その激烈なる程度は、ほとんど形容の辞もなき程で、霊動激しきがために、参列者の坐相も自然崩れて来る。それが為に正坐を命ぜられたのかと思って、いずれも恐懼の色を浮べて正坐した。しかるに、霊示はその意味ではなかったようである。霊示は続いて発せられる。 
「病者や信奉者を毎日正坐させ、合掌させ、『全真太霊』を唱えさせろ。次に今行った通りのことを行わせる。これは修霊の法だ。修霊の法だ。」 
 前日にも、主元の真霊顕現中に、修霊の法を伝えらるるような霊示があって、まさにそれに入らんとした刹那、何かの機会で解修せられたがために、中断せられた姿となっていた。今それが完結して伝えらるることとなったのである。 

修霊の法の霊的証果

 修霊の法は、何の為に我々が実習するの必要ありとして霊示せられたのであるか。次に霊示によりて明らかになる。
「低能なる者でも、この通りにすれば、必ず霊力が発動する。素人でも霊の発動が第一に起る。霊の発動が第一に起る。自身(病者の)の手が病気の処へ行く。術者は霊法を施してやればいい。病者には自由自在に霊の発動がある」 と教えられた。
 これによれば、術者は一々手をかけて霊子治療を施すの必要はないことになる。霊子治療が、術者の精力より打算して、一日に十数人を行うことは困難とせられたものであったが、こうなると患者に霊力を発現せしむる方法として、術者が霊融法を施せば、非常に多数の患者なりとも、一時に救済することが出来るようになる。 
「誰人にもこれを行わせろ、わけて病者には行わせろ、信奉者にも行わせろ、霊の真個の顕現がある。修霊の法は、誰人にも毎日行わせろ。行う場所は一定の所で行え。」 
 と、修霊の法は個別的のものでなく、むしろ集団的のものであることと、その実習の場所は一定の処たることを要する旨を示されたのである。しかしてさらに、 
「太霊道の内容などは説かんでもいい。人を見たら誰にもこれを説け。汽車の中でも、電車の中でも、この法を説け。屋外でも、街頭でもこの法を説け。」 
 とは何という簡趨な教えであろう。この修霊の法こそ、実に太霊に直触する方法である。太霊に直触する限りは、太霊道の内容は説くにも及ばず、聞くにも及ばざることになる。
 殊にまた、従来の諸宗教において、心念、口誦をもって入信証覚の手段としているが、体現の方法は開かれていない。あるとしてもそれは戒律のごとき非常な努力を要するものであった。
 しかるにこの修霊の方法は、ここに示されたごとき簡単なものである。この簡単のものによりて、絶対至上の神格に直触し得られるというのは、霊という意義を除いても、宗教的意識体現の上に一新生面が開かれたものというべきである。 

宣伝に対する霊訓

 真霊顕現の状態はますます激越になって来る。峻厳にしてしかもそこに徹底的の愛の流れが、大涛をうって押寄せて来るがごとく、それを聞きそれを見つつある我等の霊歓霊喜は、ほとんど衷心より溢れ出づるごとくである。
 それと知りつつその峻烈なる調子には、正視すべからざる威厳がある。恐ろしきを感じさせられる。院示に所謂「霊光霊威の道」は、ここに主元の霊格を通じ、それが具体化されて発現したかのごとくに見ゆる。さらば読者よ、次に来る霊示を聞け。 
「誰人にも説け、直ぐに行え、直ぐ説かなければいけぬ。誰人でもこれを行え、実に実に不思議である。これを行え、これを行えと説け、熱烈に説け。水のごとく冷淡では何になる、火よりも熱烈に説け。人を見たらこの法を行えと痛切に説くのだ。」 
 と主元は堅く叉掌したるままの手で卓を撃たれる。かくて、主元の拳頭は破れて血が滲み出すほどに、全衆のあちら、こちらに向い、卓を猛烈に叩かれつつ、霊示は続く。
「人間ほど憐れなものはない。人間が進歩したといっても、太霊の一部分だも判っていないではないか。太霊道者は熱心にならねばいかぬ。たとえ財産はなくっても、自分の身が八裂になっても説かなければいかぬ」と熱心なる宣伝を要求され、さらに、 
「一切のものが道に本づかなくてはいかぬ。道に本づかなくては国家がなんだ、社会がなんだ、人生がなんだ」と示さる。 
 それはあえて社会、国家、人生を否定するのではない。
「道に本づいた国家が真の国家である。道に本づいた社会が真の社会である。道に本づいた人生が真の人生である。」 
 道を社会に、国家に、人生に具現する方法は教憲に示されてある。 
「人を見たらまず道に入れと説け、直ちに説かなくてはいけぬ。ここに集まった人々は非常に高能者である。霊能をもっていても目に見えぬから判らぬだけである。太霊により与えられたものを何故説かぬ。世界は全く混乱状態である。太霊の道で一切を救わなければいかぬ。」 
 と結んで、この日の霊示は竟(おわ)った。 

修霊法霊示記 終