Healing Discourse

グノーティ・セアウトン [第1回] メメント・モリ

 宮古島在住のY.T.君より以下のメールが届いた(抜粋)。彼は以前、ワークショップ等で何度かヒーリング・アーツを学んだことがある人だ。

 先生が、私たちの理解を少しでも深めようとこころを砕き、基本から丁寧に書いてくださっておられる事を感謝いたします。活字をつかって説明していただくと、理解が深まります。また何度も読み返し、確認作業が出来て助かります。
 簡単そうで、難しく、奥深いレット・オフ。いかに自分が執着心が強く、手放すのがへたなのか、嫌でもわかります。オフ感覚の喜びを得るために、たいそう難儀をして生きてきたことも感じます。先生が、命がけの断食の末、生きること、死ぬ事の謎々をここまでシンプルに解き明かしてくださった事、ありがたく思います。
 昨年教えを受けた際、深いオフ感覚の喜びを味わうとともに、死にたいする恐れも感じましたが、先生の言葉を読ませていただき、恐れがあっても結局のところ、逃げ道はないというか、選択の余地がないように思えます。
 恐れが、あっても1歩1歩はいっていきたいと思います。ありがとうございます。<Y.T.沖縄県>
 
 釈迦は入門志願者に対して、まず墓場に行き、そこで数ヶ月間、死と真っ正面から向き合いつつ生活することを命じたという。私には、この入門儀礼の真の意味がよく理会できる。
 毎日毎日、意識的に<死>を見つめ続けていると、何がその人の上に起こるだろう?
 最初に感じるのは、気分の悪さやエネルギーの枯渇感だ。死に近づくだけで、自分の中の何かが汚(けが)されたような感じがする。たまらないほどの不安を覚える。体から元気が抜けていくような気がして陰々滅々としてくる。多くの人はこれより先に敢えて進もうとはせず、心と体を閉ざし、死に対して無感覚になってしまう。

 自らを開き、死を進んで迎え、受け入れようとする者に対して、死は突如として別の姿を見せる。
 死と波長が合うと、驚くべきことが起こり始める。死はもはや厭うべきもの、穢れたものではなくなる。それどころか、死とは甘美で、安らぎに満ち、エクスタティックな、そして驚異に満ちたものであることが、自らの裡で生理的に感じられるようになってくる。そうなれば、神秘と畏敬の念をもって死を抱擁できる。私は観念論を弄んでいるのではなく、自分自身の実体験に基づいて語っている。
 入門志願者は死と触れ合うことによって、レット・オフへと自然に導かれていく。彼女/彼は、すでに<門>の内にいる。レット・オフこそ釈迦の教えの本質であり、仏教を理会するためにはレット・オフの実体験が不可欠だ。

 オフを拒む人は、実は死を拒んでいる。そういう人は夜も深く眠れない。再び目覚めるという保証がどこにある? だが眠り(オフ)が浅いと、目覚めた時の、あの生まれ変わったような新鮮さ、希望に満たされたエネルギッシュな感覚を味わうことは決してできない。
 死に背を向ける人は、レット・オフを深く感じることができない。ほどけるのを無意識のうちに拒んでしまうからだ。そして感じることができないと、レット・オフを使いこなすこともできなくなる。

 実のところ、私たちは一息ごとに生まれ、そして死んでいる。一呼吸ごとに、生の波と死の波が私たちの中を通りすぎていく。これは古今東西を問わず、自らの内面深くへと瞑想的に入っていった人々すべてが見出すに至った普遍的真理だ。
 しかるに私たちは、生の波だけにしがみつき続け、死の、オフの波を感じまいとして、体をこわばらせる。心を頑なにする。しかし、波動は相反する2つの要素から成り立っている。死の位相(オフ)に彩られることがなければ、人生は深みや奥行きに欠けた非常に平板なものとなってしまう。

 ホースから勢いよく水が飛び出してくる場面をビデオ映像として記録し、それを巻き戻しながら逆に見ることを想像してほしい。
 レット・オフの際には、それが実際に身体内で立体的に起こる。レット・オフとは、そうやって巻き戻されていく空間的流れのまっただ中に身を置くこと、あるいはリバース・モーションそのものに自分自身がなり切ることであるといえるだろう。
 有が逆流しつつ無の中に呑み込まれて消えていく。この反転がオフだ。以前、「来た道を忠実に引き返す」といったのはこういう意味だ。
 レット・オフとは要するに、力を体の内面に向かって抜く術(わざ)だ。

 それでは逆に、「力を内面に抜く」とはいかなる状態を指すのだろう? 
 これまでの自分なりの「力の抜き方」を、「小さく、柔らかく、ゆっくり、粒子状に」の要訣を使って、改めて検証し直してみるといい。例えば腕の力を抜こうとする時は、腕から外の空間に向かって力みを捨て去ろうとしていたことに気づくだろう。しかし、そういう力の抜き方では、肝心の力みは抜けずに、いわゆる「気が抜けた」状態になってしまう。現代人の多くが抱える慢性疲労の主要な原因の1つが、ここにある。
 試しに腹、特に下腹から、前方の空間に向かって力を抜いてみるといい。たちどころに腹の中が空っぽになってスーッと冷えていくような感覚が生じ(=腑抜け)、腰の力も溶けるみたいに抜けていく(=腰抜け)。

 逆に腹の力を内に抜いてみよ。外側へ抜くというこれまでのやり方を粒子レベルで調べ、その意図をわずかに強調してからレット・オフすれば、自ずから方向が切り替わる。すると、たちまち腰腹の間に気力が充実してくるのを覚えるだろう。ちょっとやそっとのことではビクともしないという確信が、腹の底からふつふつと沸いてくるだろう。
 このように、同じレット・オフするのでも、どの方向に意識を運用するかによって、その結果に天と地ほどの差が生じる。ところが私たちの意識は通常外側のみに向いているため、まず外の空間へとレット・オフする練修から入り、それをさらにオフにして反転させることも、時と場合によっては必要となる。独習で行なうことも無論可能だが、その意味を理会した上で注意深く進んでいき、くれぐれも我流に陥らないよう常に自らを戒め、チェックを怠らないようにしていただきたい。

 厳密に言えば、「内に力を抜く」という表現も正確ではない。「力が自ずから内へと抜けていくがままに任せ」なければならない。
 そのためには、オフの瞬間、外形を崩さないようにする。ただし、体を動かすまいと固くなってはいけない。ただ、「崩さない」あるいは「形を保つ」という意図を持ちさえすれば、それでいい。
 すると、これまで外側の空間に投げ捨てられていたエネルギーが、行き場を失い、濃縮され、自ずから反転して、従来とは反対の方向へと流れ込み、拡がり始める。内へ拡がっていくという言い方は矛盾しているように聞こえるかもしれない。しかし、体験的事実だ。
 これを静中求動(静の中に動きを求める)という。私は青年時代に修業した太極拳を通じて、この言葉を知った。
 身体の静止状態には、剛体的・固定的なものと、流体的・待機的なものの2種類がある。私たちの大半は前者しか知らない。全身を一塊(ひとかたまり)のものと感じながらじっと静かにし、それで休養していると思っている。しかしそれは実際には休養どころか、大変な重労働なのだ。寝ている間もそんなことをやっていたら、朝になって変な疲労感や凝り、痛みを感じるのも当然だ。

 健康な人間は、身体感覚の基盤を微細振動する超微粒子の集合体として認識するものだが、その中を様々な流れが行き交い、まじわり溶け合い、次々に新たな波動を生み出し続けることによって、呼吸や筋肉運動、神経の電気的流れなど、身体内のすべての「動き(活動)」が産み出されていく。
 こうした流体感覚の母体をなす微細粒子の振動を抑圧しようとしたらどうなるだろうか? 私たちは自分の体を一塊のものだと無意識のうちに決めつけ、それが社会的レベルでの同意事項となっている。つまり誰もがまったく同じように誤って信じ込んでいる。だから、誰一人としてそれが過ち・・・不自然・・・反自然であることに気づかない。
 身体とは本来、非常に繊細にほどけ、生き生きとダイナミックに脈動するものだ。にも関わらず、それを不必要に固めるため、多大なエネルギーを日夜(眠っている間ですらも)、浪費し続けている。

 例えばあなたは、自分の背中をどのようなものとして感じているだろうか? 自然な状態であるなら、背中全体が柔らかくほどけていて、液体のように軽やかに動くはずだ。もしそれが板のように固くなっているとしたら、それはあなたが不必要な重荷をたくさん背負っていることを意味している。
 固定的に静止すると、私は自分と世界とを隔てる境界面をまず最初に感じる。それは皮膚が閉じたことを意味する。次に自分がゴロゴロした固まりになっていることに気づく。湯で溶かしたゼラチンが冷えて固まっていくプロセスを、一瞬のうちに加速したみたいだ。そしてゼリーなどよりずっと固くなる。どれくらい固いかというと、身近なものですぐに思い浮かぶのは、空気が一杯に入った自転車のタイヤだ。それを柔らかくする方法として、あなた方はタイヤの空気を抜くことしか思いつかないだろう。

 閉ざされた周縁の曲面を、意識的に少しだけ強調(凝集)し、そしてレット・オフする。オフのタイミングが重要だ。軽く引き絞っておいてからスッと手放すようにする。同時に、身体の外形を変えないよう注意を払う。・・・と、境界面が粒子状にバラリとほどけ、オフの波が身体の奥深くへと浸透していく。
 これが静の中に見出される動だ。特に病気治療へと<たまふり>を応用する場合、この静中求動が非常に重要なポイントになる。
 頭(マインド)を通して、私のこれらの言葉を知的に理解することは不可能だ。しかし、自らの身体内で「それ」が起こった時、あなたは知的な理解とはまったく異なる、別の種類の理解があることを直ちに知るだろう。それは全心身で「理解を生きる」ことだ。それを「理会」という。

 すべての秘密は、我々の裡(うち)で見出される。次回からは、レット・オフやヒーリング・タッチを応用して、私たち自身の内面へとダイヴしていく超意識のアートについて述べていくことにしよう。
 粒子感覚を基盤として行動する時、私は龍が身をくねらせつつ宙空を泳ぎ回るがごときリアルな流れを、我が身の裡(うち)ではっきり感じる。生々しい流れが身体内の空間で複雑に絡み合う感覚は言語に絶するが、あなた方と共有できそうなイメージが1つだけある。
 それは縄文土器(火焔土器)だ。火焔土器が、内なる生命力の芸術的ほとばしりにほかならないことを、私は生理的に、明白に感じる。無数の蛇が絡み合いながら交合するかのごとき、エクスタティックな灼熱感を伴ったこの内的流動を、インド人はクンダリーニと呼んだ。クンダリーニとは炎の蛇という意味だ。

<2007.05.26 紅花栄(こうかさかう)>